Tenrikyo Europe Centre

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2012年6月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

本日は、天理教ヨーロッパ出張所の月次祭をともにつとめさせていただき、大変嬉しく思っております。

ご命をいただいておりますので、只今より少々お時間をいただき、「陽気ぐらし」という言葉について、ごいっしょに考えさせていただきたいと思います。

しばらくの間、お付き合いくださいますようお願い申し上げます。

天理教の教会や関係機関では「陽気ぐらし」という言葉をあちらこちらに掲げており、天理教の標語のようになっていますので、皆様もこの言葉は、よくご存知のことと思います。
まず、陽気ぐらしという言葉は、どこから出てきたものなのか、確認しておきたいと思います。天理教教典、第三章「元の理」には、次のように書かれています。

この世の元初まりは、泥海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見てともに楽しもうと思いつかれた。

そして、親神のご守護により、この世、人間がつくられ、現在に至っているというわけですが、その存在理由が陽気ぐらしということになります。

そこで、きょうは陽気ぐらしについて、「感謝」、「慎み」、「たすけあい」という言葉を基に思案させていただきたいと思います。

感謝、慎み、たすけあいという3つの言葉も陽気ぐらしと同様、標語のようにしてしばしば用いられています。

天理教の教えとは何かと問われれば、陽気ぐらしだと答え、陽気ぐらしとは何かと問われれば、感謝、慎み、たすけあいだと、端的に答えることができるのではないでしょうか。

では、感謝、慎み、たすけあいとは何かということになりますが、例えば、たすけあいという言葉を1つ挙げると、たすけあいのためには、感謝が不可欠であり、感謝の心を持つためには、慎みの心が必要だという関係が成り立ちます。また、たすけあいの中から、感謝と慎みの心が生じてくるとも言えます。そして、この感謝、慎み、たすけあいの3つが揃って、陽気ぐらしということになります。

「人をたすけて我が身たすかる」とも言われますが、人をたすけると言っても、相手が感謝していない、あるいは、たすかっていなければ、たすけた側も、たすからないということになります。

また、特に何か特別なことをしなくても、ある人の存在に周囲の人が感謝し、それで周囲の人がたすかっていれば、その人は無意識に人をたすけたことになり、また、その人自信もたすかるということにもなります。

感謝の心がなければ、「たすける」ことも、「たすかる」ことも不可能で、「たすけあい」も成り立ちません。つまり、陽気ぐらしも実現しないということになります。

感謝と申しましても、願いが叶ったときや、予期せぬ幸運に出くわしたときに、感謝の心をもつことは、難しいことではありません。しかし、特に何もないないときや、逆に不都合なことが生じたときにも、感謝の心をもつことは、簡単なことでは、ありません。

では、いついかなるときにも感謝の心を持ち続けることができるには、どうすればよいかということになりますが、これには、慎みの心が必要不可欠になります。不運に見舞われた際に、その原因や周囲の人を恨むか、不運の中にも、幸いを見出し喜べるかどうかは、慎みの心次第ではないでしょうか。つまり、慎みの反対は、欲と高慢ということになります。

信仰の目的は、どんな状況中においても、その中に込められた神の思し召しを悟り、陽気ぐらしへ向かう糧とするであり、夢や希望を実現するとか、欲望を満たすということではありません。

私は、三十歳のときに天理教の教えに触れ、陽気ぐらしという言葉に大変感銘を受けました。

その当時、日本にいた私は、日本語教師になり、海外で日本語を教えたいという夢をもっていました。

そして、陽気ぐらしの教えを聞いてからは、海外で日本語を教えながら、外国の人々にもこの教えを伝えたいという希望も持ち始め、日本語教師なるための勉強の傍ら、お道の教えについても思案する日々を送っていました。

ところが、天理教の教えを聞き、教会に足を運ぶようになってからというもの、次々に私自身、そして私の家族に不運なできごとが重なってきました。ついには、海外で日本語を教えたいという希望は捨てなければならないような状況にまで追い込まれてしました。

それまでの自分自身の通ってきた道を反省すると同時に、この教えを信じ、教会へ足を運んでいても、いいことは何もないではないか、逆に悪いことばかりが起こってくるではないか、と思うようになりました。正直申しまして、神や信仰を疑うようになっていました。

しかし、これまで親切にしてくださった教会長、奥さん、教会により集う方々、そして両親のことを思うと、不運なことがあったからといって、すぐに教会を離れ、信仰を捨てるのでは、人としてどうかと思うところもあり、なんとか教会に足を運び続けていました。

その当時、私は日本語教師になるための学校に通うために、飲食店でアルバイトをしていました。また、教師としての経験を積むために、週に1回ボランティアの日本語教室に参加していました。

そんな中、不運なできごとが重なったのです。家族が大きな事情を抱え、金銭的にも苦しいときに、週に1回とはいえ、ボランティアなどに参加していていいのだろうか、他にやるべきことがあるのではないだろうかと、日々悩んでいました。

しかし、1年、2年と教会に足を運んでいるうちに、ふと、ある心の変化に気づきました。

確かに自分は今大変困難な中にいる。ここまでがんばってきたが、海外で日本語教えるという望みもなくなってしまった。その中、地元に住んでいる外国人のためにボランティアの日本語教室に参加している。しかし、ボランティアに参加した後は、なぜか心が少し軽くなっているということに、気がついたのです。

これはどういうことだろうかと考えました。日本語を学ぶ外国人のために、また自分の経験のためにボランティアに参加していたのですが、実は、たすけられていたのは自分の方だということに気がついたのです。

では、いったいその日本語教室にいた外国人はわたしに何をしてくれたのでしょうか。

特に何もしてくれはしませんでした。ただ、日本語の授業の終わった後に、一言「ありがとう」と言ってくれるだけでした。そんなに多くの人がいたわけではなく、わたしが担当していたのは、4、5人です。しかし、その方々の週に1度の笑顔と感謝の気持ちに、わたしはたすけられていることに気づいたのです。

そうなると、考え方も変わってきて、今こういう大変なときだからこそ、このボランティアの日本語教室に通わなければならない、自分がたすけているのではなく、自分はたすけられている側なのだと思えるようになりました。

そして、これでいいんだと思い始めました。自分の希望は恐らく叶わないだろう。しかし、ここ日本にいても、こうやって外国人に日本語を教えることはできるではないか。そして、こういう困難な中にいるわたしに感謝してくれる人だっている。また、ボランティアの仲間や日本語を習っている人に感謝できる自分もいる。先のことは全くわからないが、今はこれでいいんだと思えるようになりました。そして、陽気ぐらしとは、夢や希望を叶えることではなく、実は、こういうことだったのだと気づきました。

その後も、困難な状況は一向に変わりませんでしたが、週に1度の日本語教室に通うことに疑問は感じなくなり、迷いもなく、感謝の気持ちをもって参加できるようになりました。

そんな生活が3年ほど続く中、ある日、地元の教会の講演会に参加しました。神殿の参拝上に座っていると、講演会の始まる前に、その教会の会長がわたしのところへ来て、「小林君、これ、君にどうかと思うが、是非考えてみてくれ」と、1枚の紙を差し出されました。

その紙には、「天理教青年会が、日本語教師を主な御用として、海外で布教を目指す若者を募る」と書いてありました。

当時の私は、天理教の青年会や、海外の拠点や日本語学校については全く知識がなく、しばらくぼっとその紙を眺めながら、講演に耳を傾けていました。

実は、その講演会は、真柱様の諭達第一号を基にしたものだったのですが、その諭達を拝読しながら、何とも言えない感情が込み上げ、目から涙が溢れてきました。

その諭達の一部を読ませていただきます。

世界は未だ争いの絶え間なく、飽くなき欲望は生命の母体である自然環境をも危うくして、人類の未来を閉ざしかねない。人々は、我さえ良くば今さえ良くばの風潮に流れ、また、夫婦、親子の絆の弱まりは社会の基盤を揺るがしている。まさに今日ほど、世界が確かな拠り所を必要としている時はない。
今こそ人々に元なるをやを知らしめ、親心の真実と人間生活の目標を示し、慎みとたすけ合いの精神を広めて、世の立て替えを図るべき時である。
よふぼくお互いは、その使命を自覚し、勇気を奮って人々の心の扉をたたき、心の闇を開くべく努力を傾けよう。をやの声を聞き、天理に目覚めて心を入れ替える時、人は生きながらにして生まれ変わる。さらに進んでは、共々に人だすけに努め、互いに手を携えて世界のふしんに勤しむまでに導く。これぞ教祖の道具衆としての至上の任務であり、無上の喜びである。

わたしは現在、明和大教会の布教師としてフランスに派遣され、天理日仏文化協会で、日本語を教えております。

わたしが十数年前に描いた夢は、ある意味叶ったとも言えます。私は、自分の希望が叶ったことに対する喜びもありましたが、それによって教会の方々も喜んでくれ、多大な支援もいただき、正に2倍の喜びと感謝の気持ちで、このフランスへ参りました。

では、現在、私は陽気ぐらしができているでしょうか。

当時、週に一度の一言の「ありがとう」に、大きな喜びと感謝を覚えていた私ですが、今現在、私に「ありがとう」と言ってくれる方は、当時の数十倍はいらっしゃると思います。では、数十倍の陽気ぐらしができているかと申しますと、そうでもないように思えるのですが、それはなぜでしょうか。

それは、「慎み」が欠けているからだと思います。望みが叶うのはよいことです。しかし、それがあたりまえになり、さらに望みが高くなり、一言や二言の「ありがとう」では、以前のようには、喜べなくなっているのです。言い換えれば、心がたすかりにくくなくなっているのではないかと思います。

自分の心がたすかっていなければ、人をたすけることもできません。そして、人がたすけられなければ、自分もたすかりません。感謝と慎みの心が薄れると、こういった悪循環が繰り返され、たすけあいどころか、最後にはだれもたすからなくなってしまいます。

どうやら感謝の心は、満たされた環境にあるよりも、困難な状況の中に身を置かれたほうが、得やすいのではないかと、最近思えるようになりました。なぜなら、そこには自ずと慎みの心が生まれるからです。

今、10数年前の私の心になれたら、恐らく、私の心は張り裂けるほど、感謝の気持ちで満たされるのではないでしょうか。

余談ではありますが、家内と初めて出会ったのは、十数年前、困難な状況にある中、迷いながら通っていたボランティアの日本語教室でした。

本日は、陽気ぐらしについて、感謝、慎み、たすけあい、を基に思案させていただきました。当然、この短い時間で、思案尽くせるようなものではございません。おやさまがお示しくだされた陽気ぐらしを、標語として唱えるだけでなく、しっかり思案し、向かうべき方向を見失わないようしていきたいと思います。

来る7月には、ヨーロッパ出張所においては、天理教ヨーロッパの集い、また2週間の天理教ヨーロッパセミナーが開催されます。また8月には、若者が集う「パレット」が開かれます。皆様方には、是非そういった機会を、ともに思案させていただく場としてご利用くださればと願っております。

以上で、本日の講話を終えさせていただいきたいと思います。最後まで、ご清聴くださり、ありがとうございました。

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