Tenrikyo Europe Centre

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2008年12月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 田中善教

本日は、このヨーロッパ出張所で、皆様と一緒に、心をそろえ、勇んで月次祭を勤めさせて頂き、私自身も大変嬉しく思っております。

おふでさきに、

みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむる   一 11

とあります。

このお勤めを通じ、神様の日々のご守護に感謝する私たちの心、また、世界人類の平和を願う私たちの勇み心は、しっかり、神様に受け取って頂いているものと思います。

みかぐらうたを唱和しながら、私も一段と心が勇んできましたが、皆様は如何でしたでしょうか。

本日は、ご命を頂きましたので、神殿講話を勤めさせて頂きます。

人の喜びを喜ぶもの、これが人間
人間の心から見た陽気ぐらしの可能性

杉山
私は岐阜県の山の中で生まれ育ちました。
周りの山は殆ど全て杉の木です。私の祖父さんの世代が、私達孫の為に植林をしてくれたものです。
しかし、この木は今も伐られることなく、山に残っています。安い海外からの木材が輸入され、木を伐ってもお金にならないためです。今、杉山はほとんど手入れされていません。
この杉山の問題はそれだけにとどまりません。殆ど全ての広葉樹の天然林を切り倒し杉一色になってしまい、ムラの環境にも影響を及ぼしています。
山で働く年寄りの信者さんは、
「よしのりちゃん、杉は水をよう貯えんでね。」
と言います。その為か、川が細くなりました。広葉樹の木の実などが少なくなった為か、野生の猿やイノシシが畠を荒らしに里まででてきます。また、毎年、杉花粉に悩まされる人も多いのではないでしょうか。秋の紅葉も楽しめず、踏んだり蹴ったりです。
もちろん杉が悪いのではありません。
では、よかれと思ったしたことが、どうしてこのような結果になってしまったのでしょうか。

人間とは何か
人間とは神様から身体を借りて、神の守護あふれるこの世界に生きているものです。
ではこの身体を借りている人間とはどういうものでしょうか?

元始まりの話
おふでさき

このよふの元はじまりハどろのうみ
そのなかよりもどぢよばかりや

そのうちにうをとみいとがまちりいる
よくみすませばにんけんのかを   六 33、34

とあります。
親神は人間創造の時に、既に人間のイメージを持っていたということでしょう。
ではいったい人間の顔とは、どのようなものでしょうか。
私はそれは「笑顔」ではないかと思います。それも人の喜びを見て喜んでいる笑顔です。

子はその親に似る
鳶が鷹を生むという言葉もありますが、普通子供は親に似るのが自然です。私たち人間の顔がどのようなものかを、私たちの親、教祖を参考に考えてみたいと思います。
人間の元の母親の魂、いざなみの魂を持つ教祖はどのような方でしたでしょう。教祖は月日の社になられる前も後も、一貫して人の喜ぶ姿を見て、喜ばれる方であったように思います。

教祖伝に

七歳の時には、近所の子供が泣いて駄々をこねて居るのを見て、自分が親から貰うた菓子を与え、その泣き止むのを見て喜ばれた。

人の喜ぶ姿をみることが、私たち人間にとっても本来的な、本質的な喜びではないでしょうか。

A県の教育委員会
この夏のある日、出張所の朝勤めの帰り、ですから朝の8時半頃だったでしょうか、シャトレの駅から外に出ようとエスカレーターに乗っている時、十数名の日本人と思われる一団がどやどやと私を追い越して行きました。先頭を行く女性は脇目もふらず、大変急いでいる様子が伺えました。
そうすると、一団の後の方にいたある男性が、私に話しかけてきました。「日本人の方ですか。この近くにタクシー乗り場がないでしょうか。」タクシー乗り場はそこから歩いて5分ほどのシャトレ広場にあります。それで、そこに案内しようと思いました。しかし、少し気になったので、「どちらへ行かれるのですか。」と尋ねるとオーステルリッツ駅まで行きたいと言われます。そして、45分後にツール行きの電車に乗り、ロワールの城廻をするとのことでした。
4から5台のタクシーがすぐ見つかるか分かりませんし、その上、分乗して乗ったタクシーがそれぞれオーステルリッツ駅のどこでこの人達を降ろすか分かりません。そうなると皆が無事、再び集合できるか心配になりました。
それで「メトロで行かれてはどうですか」とすすめると。「メトロでは行けません。インターネットでオーステルリッツ駅までの行き方しらべ、今日はホテルを早く出て、行こうとしたが、行けないんです。」と、もうパニック状態です。
それで、私がオーステルリッツ駅まで案内するからと、メトロの一番線に乗って、バスティーユで乗り換え、オステルリッツまで案内をしました。もちろん無事、電車の出発前に着きました。私たちパリに住んでいるものにとっては、何でもないことですが、一行の皆さんは大変喜んでくれまた。
「地獄に仏とは、まさにこのことです。」
と最後は一人一人と握手をして別れました。
今までの人生の中で、「仏」と言われたことはありません。この日一日、どれだけ私は気分よく暮らせたでしょうか。お分かり頂けると思います。
この人達はA県の教育委員会の一行で、喜び上手な人達だったと思います。手助けをしたのは私ですが、私の方が沢山の喜びを頂きました。人間は、人に喜んでもらうのが本当に嬉しいものだと再確認をした一日でした。

人の喜びが我が喜び、これが陽気ぐらし実現のポイント
私たち人間は、本来的に人の喜びを喜ぶ心の種を持っています。
これが陽気ぐらし世界実現の為の大切な点の一つと私は思います。
陽気ぐらしに至には、おつとめを心をそろえ勤めることが第一です。そのおつとめを勤める者に求められるのは、助け合いの心。日々、人の喜びを自分の喜びとして助け合って暮らしていることではないでしょうか。そしてその結果としてたどり着く陽気暮らし世界とは、人々が互いに助け合って喜ぶ世界でもあります。方法と目的が一致するところに、陽気暮らし世界実現の可能性を私は感じます。
この人の喜びを喜ぶ心は、本質的に存在するものなのかもしれませんが、これは育てるものと思われます。真柱様も諭達の中で「人をたすける心の涵養」と仰られました。私たちは人をたすける心の種を持っています。それを育てることに日々心がけたいものです。
そして、一方で、人にどのように喜んでもらえばよいか、その喜びの質も考えなければなりません。

人の本当の喜びとは何でしょうか?間違いのない人の幸せとは何でしょうか?

杉山に話を
杉山の話に戻りますが、私の祖父達は、私たちの幸せを思い、広葉樹の天然林を大面積で切り払い、成長が早く加工しやすい、高値のつく杉を村の殆ど全ての山に植林しました。
私たちの祖父達も、人間が本来持っている、人の喜びを喜ぶ心から、苦労をして、私たち、孫の幸せを思い、汗を流し、植林をしました。
祖父の世代が私たちの為を思い行った植林が、どうしてだめだったのでしょうか。一つに、山を単なる木の工場と考えてしまったことが誤りだったかも知れません。お金のみを価値の基準としてしまったことが原因かもしれません。山への感謝の気持ち、山を生かす心が欠けていたのかも知れません。
確かに、山の価値は何かを考える必要性があったでしょうが、戦後の厳しい社会情勢では、しかたのなかったことかもしれません。
山だけではなく、海や川、この世界全ては、人間が陽気ぐらしができるようにと親神様が創造して下さったものです。この思いを胸に、人々の幸せを考えるところに、明るい道が開けてくるのではないでしょうか。

私たちは子供に何を残せるのか。
では、私たちは、子供の幸せのために何を残すことができるのでしょうか。
普通、人は子供の幸せの為にお金・財産を残そうと考えます。また、教育をほどこすことが子供の幸せに繋がると考え、十分な教育を受けられるよう努力する人もいます。
天理教の私たちは、徳を子供の為に残そうとよく言います。しかし、それは子供が15歳まで有効で、それ以後は、自分の徳次第の人生と聞いています。

では、私たちが子供にできることはなんでしょうか。
それは子供に徳を積む喜びを伝えることではないでしょうか。
私たち自身が、親神様の日々のご守護に感謝し、その感謝と喜びの心で、ひのきしんに励み、神様からのお与えであるこの世界、モノを生かす心を持って生きる中に、また、人の喜びを自分の喜びとして生きることが、徳積みに繋がると思います。
感謝の心、ものを生かす心、そして、人をたすける心、これらの心を日々育てたいと私は願っています。そして、この心を育てる道に導くことが、本当の幸せに導くこと、人をたすけることに繋がるのではないでしょうか。
そしてこれが親の思いに近づく、成人の道ではないかと思います。

ご清聴有り難うございました。

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