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2024年10月大祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

諭達第四号には

教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。

とあります。

教えの実践という言葉が示すことは、ただ教えの知識を得ることで十分とするのではなく、教えを日々の生活のなかでの実用が不可欠となっています。今日は、教祖の教えのなかで大きな部分を占める「てをどり」について特別に焦点を当て、日常のその活用について考えたいと思います。

この点について、教祖は以下のように教えてくださいました。

これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。

さらに教祖伝のなかには、

てをどりは、陽気ぐらしの如実の現われとして、かんろだいぢば以外の所にても勤める事をゆるされて居る。地上に充ちる陽気ぐらしの自らなる現われとも言うべきものである。

とあります。

以下の3点について見てみましょう。

  1. おてふりは理に合わせて踊る
  2. その動きは理を振っている
  3. てをどり陽気ぐらしの如実の現れである

理とは、神が創造したものであって、永遠で絶えることのないもの。つまり、第一義として考えられるもの、それは神の御守護です。結果、私達は神の御守護と調和している必要があるのです。てをどりは、それぞれの人生-命の現れであり、その動きは理を振っています。

人生-命とは変化であり、増大し拡がりをもつ。命は永遠であり、喜びとの完璧なる調和を持つものです。自然界を見れば、生命の流れは常に作用と休息、収縮と膨張の局面を行き来していますが、休息しているときでさえ決して止まることはありません。

てをどりをするとき、私たちは命の動きの中にいることを感じることができます。前へ、後ろへ、右へ、左へ、手は絶えず動いています。

「理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない」「理を振るのや」が意味すること。それは神の御守護という、神の働きを現しているのだという信念のもと神の働きに合わせることが必要だということです。この神の御守護と神とは、私にとって同じものなのです。子供である人類のためにこの地上でお働きくださるのが教祖であって、その彼女が伝えたこと。それは神の御守護と共に踊ることは、神が与えたまう動きに身を委ねながら神と踊ることだということです。

私達の内にある人生も、他のあらゆる自然現象と同様に揺れ動き変化します。これは誕生から始まり少年期、青年期、壮年期、老年期を経て死を迎え、そしてまた誕生することからも分かります。私がてをどりを踊りながら感じることは、まるで教祖に全てを導かれるがままに人生のある時を辿っているように思えることです。

ですから、理に合わせて踊るということは、つまり喜び、そして神の御守護にすべてをもたれるということではないでしょうか。命、それは全ておいて流動的であり、絶えず変化し続けている世界です。

私がこの神の御守護を制御しようとするならば、そこにはもはや神の御守護との調和を見ることはできません。私が、自分で物事を解決しようと、人生が持つその役割を奪おうとするときの原因は一人きりであると思い込んでいるからです。この時の私は、神の御守護も神も信じておらず、ただ自分だけの力を頼りに行動しようとしているのです。

親神様はこのことをおふでさきで次のように仰っています。

にんけんハみな/\神のかしもの
なんとをもふてつこているやら三号 41

にんけんハみな/\神のかしもの
神のぢうよふこれをしらんか三号126

毎日の生活が納得のいくものとなるためのキーポイントは、てをどりが私達に教えていることを思い出すことです。例えば、生活に調和し、そして生活のなかで自分に対して巡ってくることをその場で判断せずに受け入れること。自分をどの方向へ向かわせようとしているのかを探り、そして、その方向に向かう流れにそって進むことです。

おふでさきを見てみましょう。

たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ三号 40

このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの六号120

てをどりの勤修は、陽気ぐらしへ向かうための鍛錬です。そして教理の実践とは、毎日の生活の中で実践すべきものなのです。私達の役割は、どの年齢層にあってもてをどりの中に込められた流動性、喜び、決意、感激の教えを胸に刻みながら、陽気ぐらし世界をこの地上に具現化することです。実際、活気のなさ、無気力さ、沈滞、自閉性、自信や感動の欠如は、神の御守護が目指す方向性に反する態度であり、陽気ぐらしの到達へと導くものではありません。

教典には次のようにあります。

いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。

加えて、てをどりは人類はすべて神の子として一つだという一体性についての教理を教えてくれます。実際、男3人、女3人が一緒に踊る姿は、全人類を現しているものでしょう。

この実行により、人類は一つのまとまりであり陽気ぐらしは一体性のなかでしか実現されえないものです。

教典の中には次のようにあります。

陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

私達の活動にあって、ほんの僅かな動きから人間関係や仕事に見られる大きく重要な動きに至るまでも、神の御守護は私達と共にあり、どのような状況であってに心の喜びのなかで踊られることを目的として存在するのです。あるいはむしろ、命-人生そのものが、私達を通して、日々踊り続けているといえるのです。

私達の命-人生が私達に帰属していないことを理解することは基礎的なことであって、すべての創造時を辿りぬけたのと同じように神の御守護そのものが、我々のなかを通過してゆきます。

普段なにげなく「私の人生」と言いますが、むしろ「命」と言うべきでしょう。

ここでの神の御守護が指し示すことは、実の神であり、実際に御守護を授けて下さる神であり、私達の身体の働きを可能とし、いつも見守り、世話をしてくださる神です。

この御守護は私の身体中をくまなく巡り、さらには無限なる守護の世界に完全に浸っているのです。

普段から次のように言うべきだろうと思います。

神の御守護は私のなかにあり、神の御守護が私を包み込み、神の御守護が私を護り、神の御守護が私の身体中を巡りまわる。私とは神の御守護そのものの姿であると。

我々の多くの人が、永遠の命について信じています。しかし、彼らはむしろ現世行為に対する結果に起因する永遠の報酬、あるいは罰として捉えています。

このような見解から不幸な結果が現れる原因は、それは私達が報酬と罰を基礎とした世界社会を作り上げたことからくるものです。

しかし、教祖は、いかなる罰則についても言及されていません。神の御守護の動きは、この身体の消滅時においても止ることはないと言われました。私達が、この魂の永遠性に確信を持って生活するならば、人生観が全く異なったものへと変化することでしょう。

教祖は死は存在せず、それは、再び肉体の中に宿る前の単なる物質的な状態から非物質的な状態へと移行する期間でしかないと言われています。神の御守護だけは存在し続けるのです。これを出直しと呼びます。

このような考えを持って生活すれば、恐れは消え去り、そうして、安らぎと安寧な気持ちだけが残ります。それにより、もはや人生のなかで起こる全てのこと、どんなことが起ころうとも恐れ、不安に駆られることがなくなります。この心持ちを会得できれば、出来るほど肉体を所有しているとの意識からくる死に対する恐怖が消え去り、本来あるべき姿、完全なる安らぎの感情が生まれてきます。この地上における私達の生活では肉体と共にあります。その肉体はじめ全てを神が貸し与えて下さっています。全ては私達の自由になるのですが、自分のものではありません。

このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの六号120

故に、神の御守護が絶え間ない変化の中にあることを認識して、いつ如何なる瞬間も私達を巡り通り過ぎる神の御守護こそが我々そのものであると認めましょう。

お手や動きを正確につとめるてをどりの実行によって、成ってくる理を素直に受け止める姿となり、まさに私達は、本来の自分自身へと完全に立ち返る努力しているのです。

なぜならば、教祖てをどりについて次のように述べられています。

一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。

神の御守護に抗うことを止めることで、私は親神によって定められた流れの障害となることも避けるようになりました。そして、動き流れに従うなかで、親神の思し召しに近づこうと努力しています。毎日の生活のなかでは、あらゆる状況において、この信条に従いながら次のように自問することで事足りています。

「神の御守護は、私を通して今、何をなさんとしているのだろうか?」

こうして私は、私の思い描くように物事が成り立っていくために、なんら強いることや逆らうことを止めました。神の御守護が私を通して自由に働き、その動きが調和されるままにすることで、私の自我が薄れていきます。それは全くの当然のことなのです。

この人生のもとで、私達は人間は神の子供である事実を表現します。そして少しずつ親神の思し召しに沿った生き方をなし、世界だすけの御業に関与するのです。

おふでさき

だん/\とみへてきたならとくしんせ
いかな心もみなあらハれる一号 44

とあります。

この私の身体に流れる神の御守護を崇めるか否かは、私、ただ私自身に委ねられていることです。言い換えれば、私の心の状態次第とということです。このように考えると、命は途方も無く光り輝くものに思えるのではないでしょうか。

親神様の思し召しに応えるために、まるで絶えず目の前に新しく現れる遊山を辿るかのように、私達の日々を送ることを決意しようではありませんか。

てをどりをつとめることは、絶えず新しい遊山の道を歩むがごとくものであって、そのなかで親神様の御守護を頂くことができるのです。

実際のところ、人生の旅に到達地点などはなく、ただ向かう場所は至る所にあり、私達はすでにこの世界において、その地に到着しているのです。そこは全てが整っており、その限りない素晴らしさに息を呑む庭にも似たものであります。そこは、私達が足を踏み入れ、愛し、思い存分溶込むような地とも言えるでしょう。

おふでさきに次のようにあるとおりです。

しやハせをよきよふにとてじうぶんに
みについてくるこれをたのしめ二号 42

私達は現実的には人生や他人にあまり信頼を置かず、また自分自身で実行したほうが上手く出来ると信じています。人生を完全に信じきり、成ってくる理を見つめずに、神の御守護をコントロールしたいという衝動に駆られながら生きている傾向があるのです。

そうならない為には、現在生きている状況から逃出したいという欲望から心を引離す必要があるでしょう。

神は次のようにおっしゃります。

一れつハみなめへ/\のむねしたい
月日みハけているとをもゑよ六号 97

目の前にある物事、生きるべき人生が差し出すものを強い感受性を持った生活を営み、自覚を持ってそれに答えるために、しっかりと神の御守護を愛することを私は学ばなくてはならないと思っています。神の御守護を愛することは、神を愛することだからです。

もし私達が、満足するために自分の環境が上々に行くことを期待するならば、その願いの在り方には終りはありません。反対に、もし心の状態を認識することから始め、そのほこりを辛抱強く掃除することに意識を向け、実行するなら、その心の状態を介して、世界の真の姿を認識出来るようになるでしょう。そして、人生を陽気遊山に向かわせる鍵を手に入れることができるのです。

いまゝでハなによの事もせかいなみ
これからわかるむねのうちより三号 43

私達の人生における真実の道は、内なる道です。そこは自身の心によって照らされているのです。

心のが無ければ、無いほど、その光の強さは大きく、理解も明快になっていきます。

只今の教祖140年祭に向けた三年千日活動の中にあって、我々の意識、感情は絶えずおぢばへと向けられています。てをどりは、また陽気ぐらしへと向かうことを容易にする掛け橋ともなっています。例え私達お互いが様々な問題や苦しみの最中にあっても、そのことに関しては、なんら変わることはありません。

次のおふでさきが意味すること。それぞれが日常生活のなかで、それを頻繁に実行する勇気と強い意志を持つようにいたしましょう。

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ十四号 24

ご静聴ありがとうございました。

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