Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所長 長谷川善久
私達は、只今、教祖がお隠れになられた日、陰暦明治20年1月26日(1887年1月26日)陽暦でいうところの2月18日に由来して勤められる1月の大祭をつとめさせて頂きました。
教祖は、世界中の子供を早く助けたいとの親心から、25年の定命を縮め姿を隠されましが、ようぼくがおさづけを取次ぐところ、現在も変ることない親心を持ってお働きくださっているのです。
その上からも、この大祭をつとめさせて頂く意義は、私達が、どのくらい日々の暮しの中で、教祖のひながたを思い、その親心に報恩の心で教祖にお仕えしているかを再確認することにあります。
教祖のひながたを学ぶと、実際2つのご苦心があったことが分かります。
その一つは、教祖自らが「月日の社」のお立場であることを人々に納得させるご苦心であり、もう一つは、思し召し下さる通りのおつとめがなされるようにとのご苦心です。
教祖は、月日の社となられてからお姿をお隠しになられるまで、親神様の思し召しとそれを実現するための方法を私達人間にお教え下さいました。その年月は50年間になります。貧底の生活を過ごし、おつとめを作り教え、ぢば定めをし、元の理も明かされました。また人生のなかどのような状況にあっても神にもたれ、明るさと勇み心をもって生きてゆく道、「ひながた」を実際に人々の目の当たりに示されたのも教祖であれば、今も昔と変わらずおさづけの理をお渡しくださり、人だすけに私達をお使い下さるのも教祖です。その教祖は、私達と同じような人間ではありません。「月日の社」、地上における「親神様」なのです。
天理教の信仰を歩むうえで、この最重要な信じるべき事実が、しっかりと胸に治まっておられない方については、言ってみれば教祖のひながたのご苦心は報われておらず、ひながたがなんたるかも分かっていないという意味にもなってくるかと思います。
また、ご苦心のもう一つであるかぐらづとめは、教祖が、命を縮めてまでも私達の人生が陽気ぐらしと変るように教えられたものであり、世界の各地でつとめられている全てのおつとめの根源は、このおぢばでつとめられるかぐらづとめにあるのです。
それでは、これから簡単にこのかぐらづとめに関連する出来事を、時系列で見ていきたいと思います。
まず始めに、おつとめが作られる前には、人々はどのように親神様への祈りを捧げていたのでしょうか。教祖伝第三章みちすがらには、親神の最初の啓示から16年後の1853年、17歳のこかん様がお付きと共に大阪へ神名流しへ行かれたとあります。以下、その模様の抜粋です。
翌早朝から、往來激しい街角に立った。
「なむ天理王命、なむ天理王命。」
拍子木を打ちながら、繰り返し、繰り返し、「なむ天理王命」と唱えたとあります。
またその10年後にあたる1863年には、当時入信した辻忠作がおつとめをつとめる下りが以下のようにあります。
「文久三年三月四日、忠作が初めて參詣して、妹くらの氣の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、
『此所八方の神が治まる處、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはにはいかんなれど、日々薄やいで來る程に。』
と、仰せられた。忠作は、教えられるまゝに、家に歸って朝夕拍子木をたゝいて、
『なむ天理王命、なむ天理王命。』
と、繰り返し繰り返し唱えて、勤めて居たが、一向に利やくが見えない。そこで、又お屋敷へ歸って、未だ治りませぬが、どうしたわけでございましようか。と、伺うて貰うと、教祖は、
『つとめ短い。』
と、仰せられた。これを聞いた時、忠作はハッと心に思い當った。それは、当時のつとめは、たゞ拍子木をたゝいて繰り返し繰り返し神名を唱えるだけで、未だ手振りもなく、回數の定めもなく、線香を焚いて時間を計って居たのであるが、忠作は、一本立てるべき線香を半分に折って居た。
これに氣付いたので、早速、お詫び申上げ、家に戻り、線香を折らずに、毎朝毎晩熱心に勤めた。するとくらの患いは、薄紙を剥ぐように次第に輕くなって、間もなく全快した。」
当時は、親神様のお名前に「南無」を足して「南無天理王命」とだけ繰り返し唱えていたことがよく分かります。
ちなみに「南無」とは、敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の間投詞「ナモ」から取った仏教語で、南無は「おまかせいたします」という信仰対象への自己の帰投、または信仰告白をする場合にも使われます。
次に辻忠作は、半分のお線香を使っていたとありますが、現在、一般的な朝、夕の仏様へ使われることの多いお線香の長さは9センチ、燃焼時間は約15分だそうです。この時間は、丁度、教会の夕のおつとめの座りつとめにかける時間と同じだろうと思います。もしこのサイズのものを辻忠作さんは半分に折っていたとしたら、大体7分ぐらいでつとめていたおつとめに対して、教祖は「つとめ短い」と仰ったのだろうと想像します。
どうか、短い時間でおつとめをつとめることの内容に注意して、10分以上でさせて頂きましょう。
さて、この「南無天理王命」と繰り返すおつとめの時代を経て、1864年のつとめ場所のふしんも終えた2年後の立教29年1866年に教祖は、「あしきはらひ たすけたまへ てんりわうのみこと」みかぐら歌第一節のおつとめの歌と手振りを教えられました。
この当時、おぢばでは、教祖の名声が高まるにつれ、近在の神職、僧侶、山伏、醫者などが、この生神を論破しようと、次々に現われました。
第一節を教え下さった直前に起った小泉村不動院の山伏のお屋敷への乱入は教祖伝4章に以下のように記されています。
「慶應二年秋の或る日、お屋敷へ小泉村不動院の山伏達がやって來た。
教祖にお目に掛るや否や、次々と難問を放ったが、教祖はこれに對して、一々鮮やかに教え諭された。山伏達は、尚も惡口雜言を吐きつゞけたが、教祖は、泰然自若として些かも動ぜられない。遂に、山伏達は、問答無用とばかりに刀を拔き放って、神前に進み、置いてあった太鼓を二箇まで引き裂き、更に、提燈を切り落し、障子を切り破るなど、散々に暴れた。」
このような攻撃に恐れをなして信仰を止めた人は数知れずあったと思います。
ですから、当時、おつとめを教えて頂いた方は、何があっても教祖についていこうという相当に固い信仰決意を持った方々であったに違いありません。教祖の側からすると、人間の私利利欲からついてきていたような者達を排除する手立てでもあったのではないかと想像します。
第一節に続いて、1867年、教祖70歳の時、おてふり12下りの歌を作り教えられました。そのときの様子が、逸話篇19の「子供が羽根を」にあります。12下りの歌は、すわりづとめの第二節「ちょいとはなし」、第三節「いちれつすまして」、また「よろづよ八首」に先立つ形で教えてくださいました。
一九 子供が羽根を
「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。
教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖は、
『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。
この話から分かることは、成立ちとしては、お歌は、おさしづと同様に刻限刻限に教えて下さったものであること。教え方としては、教祖からは、手振りを3度までしか教えて頂いていないということなので、当時の先生方がおてふりを学ばれるときの真剣さと緊張感はかなりであったと思います。
また、『子供が羽根をつくようなものや』と言われたとありますので、私の個人的な解釈としては、おてふりを踊るときの心持ちは、普段の心配事を全て忘れて、ただただ、歌を歌いながら、身体を動かし、親神様のふところで遊ぶ子供のように気持ち良く踊ることが大切だと思っています。
教祖は、
「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」
と、仰せられ、又、
「つとめに、てがぐにやぐにやするのは、心がぐにやぐにやして居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」
と、理を諭されました。
さて、続いて、おふでさきの執筆を始められた翌年にあたる1870年、第二節「ちょいとはなし」のお歌と手振りを教え、「よろづよ八首」の歌を12下りの歌の始めに加えられました。
それから3年後、1873年には飯降伊蔵先生に命じて、甘露台の雛形を作らせ、翌74年には教祖の兄 杏助が制作していたかぐら面を受けとられ、この時から、毎月26日には、このお面をつけてかぐらと手おどりのおつとめが行われ、毎日、毎夜お手ふりの練習もなされていました。
お面をつけてのかぐらづとめが行われ始めてから丁度1年後の1875年、ぢばが定められ、その後、こかん様身上のお願い勤めにあたり、初めて甘露台の雛形が据えられました。また、第三節「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを教えられ、甘露台のおつとめの手、一通りが初めて揃いました。
続く、1877年には、教祖自ら信仰二代目の3人の少女に女鳴物を教えられました。当時8歳の辻とめぎくには琴、12歳の飯降よしゑには三味線、15歳であった上田ナライトは胡弓です。習うことになった不思議な経緯については、逸話篇の52,53,55にそれぞれ各自の経緯が詳しく書かれてあります。どうぞ興味のある方は読んでみて下さい。不思議な話です。
その後3年経った立教43年の1880年、陰暦8月26日はじめて女鳴物を含む鳴物をそろえてかんろだいづとめが行われました。
しかし、1882年、重大な出来事が起こりました。2段まで出来ていた甘露台の石が警察署によって取払われたのです。
これにより、手振りは元のまゝながら、「いちれつすます」の句は、「いちれつすまして」と改まり、それに伴うて、「あしきはらひ」も亦、「あしきをはらうて」と改められました。
こうして見たときに、興味深いことは、かぐらづとめも日々のおつとめを構成している三節は、それぞれ異なった年、お屋敷の出来事に付随して教えられたものであるということです。
私達は朝夕に座りづとめとして、第一節から第三節までを分けることのできない、ひとまとめとして勤めますので、教祖も座りづとめとして、まとめて教えて頂いたかのように思いがちだと思います。
教えられた年代に関連すると思われる出来事としては、以下のようなものがあります。
第一節、1866年の秋、お屋敷へ山伏が殴り込んできた直後。
第二節 1870年 前年の69年、秀司先生がまつえ様とご結婚なされた年であります。
第三節 1875年 同年にぢば定めが行われ雛形かんろだいが据えられました。
また1882年、第一節と第三節のお歌の変更が、かんろだい取払いにより行われました。
当然のことながら、お屋敷で起っていたことと教祖が教えてくださった事柄については、関係性があります。それらを勉強し深く知ることで、おつとめや鳴物、他の教えにしても、より味わい深く感じられ,学び、実行する際にも役立つのではないかと思います。
最後に、真柱様は、諭達第一号で「ようぼくは先ず、日々、月々のおつとめにをやの理を頂き」とお示し頂きましたが、をやとは教祖のことであると思わせて頂きます。ですから、私達は日々のおつとめ、月次祭をつとめる時のみならず、練習をさせて頂くときにも、教祖のおつとめ完成に掛けられた思いを感じながらつとめることが大切だと思います。また、教祖が、最もご苦心なされたのは、おつとめをつとめる人を寄せて、育てることでありました。つまり、教祖のお喜びくださることは、おつとめの人衆を揃えて、つとめることなのです。それが、ひながたを辿るという意味だとも思わせて頂きます。まずは、自分自身がおつとめをしっかりと勤められるように努力すること。そして、また、教祖のお導きを頂きながら身近な人達の中からも、おつとめを一緒につとめる人を与えて頂けるように懸命につとめさせていただきましょう。