Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所役員 篠田克典
私達が信仰しております「天理教」とはどういうものでしょうか。文字通り解釈いたしますと、「天の理の教え」、つまり、この世界、天然自然の理(ことわり)の教えです。人間とこの世界を、まったく何もないところからお創りくだされ、そして今もなお御守護くだされている神様直々の教えであります。世界中にある数々の教えと共に、一言で「宗教」とひと括りにするには私はいつもためらいを覚えるのですが、天理教の信仰者はこの教えのことを「お道」と呼んでいます。人間の通るべき道という意味でしょうが、この呼び方の方がしっくりくるというのは私だけではないと思います。
さて、その神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思し召され、天保九年をさかのぼること九億九万九千九百九十九年の昔から、気の遠くなるような長い年月をかけて現在あるような世界と人間をお創りくだされたと聞かせていただいております。人間が陽気に暮らしていけるよう世界中にいろいろな食べ物もこしらえ、体の方には、見て楽しみ聞いて楽しめるよう目と耳を与え、味わって楽しみ話して楽しみ合えるよう口と言葉を与え、働いたり遊んだりといろいろ動いて楽しめるよう手や足も与えてくださいました。その神様は、人間をお創りくだされた元の親という意味で私達は親神様とお呼びしております。
現代では科学技術が進み、人間にかなり近い動きまでできるロボットが開発されて、世界各地で人気を呼んでいます。中には、転んでも自分で起き上がったり、言葉も話してイベント会場の受け付けもこなせるようなものまでできているそうです。
しかし、人間が作ったロボットは、いかに精巧にできていようとも、一旦どこかが故障したり壊れたりしますと、人間の手で修理しない限り、直るようなことはありません。ところが親神様がお創りくださいました人間の体は、怪我をしても治り、骨が折れても日にちが経てば元通りにひっつくという不思議な、実にありがたい機能を備えています。私は料理が好きで時々台所にも立ちますが、包丁や魚のとげなどでちょっと指を切ってしまいましても、ほおっておけば、数日後には跡形もなくきれいに治っています。もっと大きなけがや病気の場合には人間の手で手術等が必要なこともありますが、切ってから縫い合わせたところを最終的にくっつけるのは人間の体自体に備わっている機能、つまりは親神様の御守護なのです。
人間は魂だけは自分のものですが、この体は親神様からお借りしているものだとお聞かせいただいております。魂は生き通しで、お借りした体が古くなったら一旦お返しし、また新しい体を貸していただいてこの世に生まれてくるということを私達は何億年にもわたって繰り返しているのです。
さて、人の一生というものは、小説にも似たところがあって、十章あるうちの第一章だけ読んでもこの先ずっと幸せなのか不幸せなのかはわからないし、第十章だけ読んでみたところで、どうしてそういう結末になったのかなんてわからないという話を聞いたことがあります。人生いいことばかり起きればいいのですが、なかなかそうはいきません。図らずも大病を患ってしまったり、事故や大けがをするようなことになったり、家族や人間関係のことで苦しんだりということが起きてきます。
ものごとには原因と結果というものがありますが、人間には、何か自分の身に起きたとき、つい最近のことなら覚えていて原因もわかりやすいこともあれば、中にはどうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのだろうか、てんで見当もつかないということもあります。でもそれは小説の途中から読み始めたようなものです。先ほども申しましたように、人間はもう何億年も昔から生まれ変わり出変わりを繰り返しています。その中で様々な心遣いをし、様々な行いをしてきました。もちろんそれも千人いたら千通りの通り方をしていますから、一概に同じことは言えません。今現れてきていることはつい最近の心遣いの結果ということもあれば、何代も前からもちこして来たものということもあるのです。お道では「因縁」という言葉で表しますが、いい因縁もあれば悪い因縁もあります。身の回りに起こってくること、見たり聞いたりすること、それらはすべて前生、前々生も含めたこれまでの自分の心の遣い方や身の行いから見せていただいているものばかりです。
しかし、病気であろうが事故であろうが、そこには陽気ぐらしをさせたいという親神様の思いが込められているのであり、心得違いをそのような形でお知らせくださっているか、そのことをきっかけに更に親神様の思し召しに添える心をつくることを促されているということを悟って、心を入れ替えれば、病気や災難のかいがあったというものです。
親神様は人間を我が子と思し召しくださり、たすけたい一心で日夜御守護をくださっています。子供の方はと言えば、人間の親子間で考えてみてもそうですが、子供がどれほど親のことを思っても、親が子に対する思いには及びません。つまりはその親の心を理解できるようになれば、子供として親に一歩近づいたことになります。言葉を換えれば、それが人間として一歩成人したことになるのだと言えるでしょう。
今度はうちの生後10ヶ月になろうとする子供の話ですが、うちではその子を風呂に入れるのはたいてい私の役目です。お湯に浸かり、左手で首の辺りを支えてやれば、ぷかーんとお湯に浮いた状態で、実に気持ち良さそうにしています。もっと小さい頃は、何の心配もせずに頭を洗おうが体を洗おうがされるがままにしていて、それですっきりきれいになって体も温まって、お風呂を出ることができていました。最近は少し知恵がついたらしく、頭にお湯をかけるのを嫌がるようになり起きてしまうので、顔にまでお湯が流れてきてしまいます。いろいろごまかしながらうまく洗ってやろうと思うのですが、暴れ出すとなかなかうまく流せません。しまいには顔にかかっても仕方がないと思ってお湯をかけてしまいますが、その姿を見ていて、私はいつも「神にもたれる」大切さを意識します。
私はきれいに洗ってやりたい、気持ちよくお風呂に入らせてやりたい一心でいますが、子供の方はそれがわからずに、頭や顔にお湯がかかることを嫌がって体を起こします。それが結果的には顔にお湯がかかってしまうことになるのです。何の心配もなく、親にもたれて安心しきってお湯に浮かんでいれば、何もしなくても、親が気持ちよくお風呂に入れて洗ってくれるのです。
親神様は人間にあれも与えたい、これも与えたい、幸せにしてやりたいとのお気持ちでいっぱいなのに、人間の方が勝手な我が身思案で御守護をいただけなくしてしまっているということが多いようです。
人間も、あれこれと自分たちの知恵ばかりで動いている時はうまくいかないことはどうしたってうまくいかないことがあります。反対に、小さな赤ん坊のように、自分のことは親である神様にお任せするぐらいの心積もりでやった方が結果的にはよかったということが多いと思います。
このお道は人間が本当の幸せを味わい暮らしていくための教えです。ただそれは知識として知るだけでなく、自分の身に行うことが肝心で、どんな中にも親神様の親心と自分の因縁を悟り、たんのうして何事も喜んで通ることで、自分の運命がどんどん良い方向に切り替わっていくのです。
陽気ぐらしをするために人間が創られたという元、そして現在まで信仰をつないでくれた親々のお陰で今の幸せがあるという元を、自分の子供達の世代にも伝え、このフランスの社会でもこんなありがたい教えがあることを一人でも多くの人に知っていただくことができければと願うばかりです。