Tenrikyo Europe Centre

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2016年5月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

在欧の天理教信者ですと、「天理教って何?」と質問されることが多いかと思います。簡単な質問のようですが、長々と一時間もかかる返事を期待していないことも多いので、ことはそれほど簡単ではありません。キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も仏教も同じでしょう。同じ質問をされて、わずかな時間で答えられる人は少ないんじゃないでしょうか。ただこうした大宗教は、既によく知られているので、天理教ほどはこういった質問は受けないんじゃないかと思います。

この質問に答えようと、他宗教と比較したくなる時があります。しかし、安易な比較には気を付けなければなりません。というのも、だいたいが自分の宗教を良いように言おうとした結果、他宗教の批判をしてしまう可能性があるからです。他者の価値を落としてしまっては、天理教的なものの見方にはならないと言えます。

ではどのように答えればいいのでしょうか。十全の守護が好きならそこから、八つのが好きならその教えから、という風に、自分なりの答えを見つけなければならないといえます。仮に、天理教とよく知られた他宗教を上手に比べることで紹介したいのであれば、もちろんそれも可能です。自分がやりやすい説明の仕方を見つけなければなりません。

今日は、こうした最初の質問に答えるにあたり、より表面的な部分、つまり目に見える部分を使った天理教の紹介について考えて見たいと思います。というのも、当然、人はまず目に見える個所から物事を理解しようとするからです。また形から精神性を見出すこともできるでしょう。個人的な考え方になりますが、天理教の最初の紹介について皆さんにお聞きいただければありがたく思います。

まず、参拝場を見てみましょう。とても明るいですね。もちろんすべての教会の参拝場を見たわけではありませんが、今まで参拝場が暗いと感じたことはありません。天理教の参拝場は、どちらかというと明るいです。見た目の最初の印象、それは明るさです。

おそらく多くの宗教にとって自然の光は重要だと思います。おぢばの朝夕のおつとめはその最たる例で、日の出、日の入りがおつとめの時間になっています。明るさは、私たちの信仰の中心にあると言ってもいいでしょう。おぢばかんろだいに近づけば、神殿上部にある開口部から光が差し込んでかんろだいを照らしているのが分かります。

明るさとは、心の明るさでもあります。お道では、物も心も全て明るくて、光に満ちていなければなりません。お道の参拝場は、明るい光も、心の明るさも生まれてくるような場所でなければなりません。光があれば元気が出てくるように感じますし、明るさは良い活力を生み出してくれます。

もちろん、陰や暗さも親神様の重要なご守護ですから、それに恐怖を覚える必要はありませんし、暗いところでじっくり考える方が良い時もあります。目を閉じれば暗くなるわけですし、それが悪いはずがありません。じっと考え事をしたり、静かな時間を過ごすにはとても大切なものでもあります。しかしながら、そうした暗い部分は個人的な部分で留めるべきでしょう。

天理教では、どんな状況にあっても良いことを見つけなさいと教えられます。たんのうに繋がる教えです。どんな時も喜びを探すことはとても大切ですが、たんのうは非常に深い信仰実践です。今私が話している明るさはもっと簡単なことです。何事も喜びなさいという、たんのうの心とは違う、晴天の心と言えるでしょうか。お天気が良いとき空を見上げると、雲のない青空が見えます。これはどんな人が見ても同じ景色で、晴天の心とはこうした雲のない、陰で隠れた部分のない開放的な心と言えると思います。おさしづにも「世界中曇り無けねば気も晴れる」(明治21年8月9日)とあります。開放的で曇りない心とは、他人を暗くしたり、悲観させたりしない心です。言い換えれば、素直で、正直で、人をだまさない、意地の悪くない心と言えるのではないでしょうか。私が思う明るい心とは、こうした晴天の心です。

次は、簡素と言えましょうか。例えばここの装飾を見て下さい。どちらかと言えば質素です。木の色が主体で、御簾に少し赤があり、鳴り物に黒があり、太鼓に金色の部分もありますが、全体的に派手さはありません。この装飾こそ、慎みや素直さを表していると思います。おつとめ中は、欲やほしい、うらみ、かわいなどのから解放されたように感じます。五下り目の四つに「よくのないものなけれども 神の前には欲はない」と歌われている通り、欲深い心を取り除いているような気持になります。

もちろん、明るい色の派手な服を着たり、部屋をキラキラの飾りで飾ったり、風変わりな家を建てたりしても何の問題もありません。お道にタブーはありませんので、何をしようが自由です。しかし、信仰の内面の問題となると、この飾りの少ない神殿を見ても分かりますように、簡素で執着を捨てた心を持つ方が良いでしょう。ごちゃごちゃしたものと距離を置いて、質素に、シンプルにそして無欲でいれば、心に落ち着きが生まれてくると思います。

最後に、天理教では、一つのものでも多くの顔を持ったり、様々な性格を同時に含むと教えられます。お道の信仰では、異なる物事を一つにすることが往々にしてあります。私たちの親神様は一であり多、唯一であり多数です。異なる性質が一つになっています。教祖は神聖であると同時に親しみのあるお方です。天理教の信仰は、世界だすけを実践する、気高く、何にも代えがたいほど素晴らしいものですが、同時にどんな人間でも実践できる、平凡で、ごく普通で、特別なものなど何もないものとも言えます。こうした例はたくさんあります。例えば、おつとめは人だすけのための神様への祈りで非常に尊いものですが、普段の生活を営む個人宅で勤めることもできます。私もリヨンでそうしています。また人間の体を例にとることもできるでしょう。人間をお創りになられた親神様は、水気やぬくみといった十全のご守護として私たちの体の中に存在します。従って、人間の体は尊いものなのです。そこから人の体は自分のものでも他人のものでも傷つけてはいけないということになります。しかし、この素晴らしい体は、私たちが自分勝手に使えるほどに普通のものでもあります。

とはいえ、何も意図的にいろいろなものを一緒にまとめている訳ではありません。住宅とは別に参拝場を持つことだってできます。大事なことは、多が一になりえるし、一が多になりえるということです。天理教ではそうした多様性や柔軟性が認められている、ということです。何一つ除外するものはありませんし、あらゆるものが許されるのです。異なる性質のものであっても、同じ場所に同じようにあって良いのです。

この共存の論理から考えると、人生のいかなる場合でも、社会から疎外される人は存在しないと言えます。仮に神様の思いに逆らうことがあっても、親神様は決して私たちを見捨てたりしません。神が人間を見捨てないのに、どうして人間が人間を見捨てることができるでしょうか。意見が違っても、言い争いをする間柄でも、信仰が違っていても、お道の教えからいえば共存できるし、共存すべきであると言えます。親神様のお言葉にも「反対するも可愛い我が子」(明治29年4月21日)とあります。天理教において多様性は、教理からくる教えなのです。

こうしてみると、外見上の特徴から、誰にでも心を開く明るさ、飾らない素直な心、他者を認め受け入れる多様性がお道の信仰と言えると思います。もちろん、理屈はそうでも現実の信仰ではもっと改善すべき点が多々ありますが、陽気ぐらしと言う目標に向かって進む指標になっていると思います。 ご清聴ありがとうございました。

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