Tenrikyo Europe Centre
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名古屋・パリ布教所長夫人 津留田きよみ
天理教の教えでは、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたいとの思いから人間をつくられたとお聞かせ頂いています。この教えを信仰している私たちは、果たして日々、陽気ぐらしの心で通れているでしょうか。朝起きた時は気分が爽快でも、人に何かをを言われたり、気に入らないものを見たりというちょっとした出来事で、すぐに心をくもらせてしまっているのではないでしょうか。
そんな時に心の向きを変えるには、どういう心遣いをしたらいいのか、私が思うところを三つほど提案したいと思います。一つ目は「かしもの、かりもの」の教理を思い出すこと、二つ目は「自分の癖、性分」を見つめ直すこと、そして三つ目は教祖の存在を忘れないことです。これらのことについて、少しお話をさせていただきます。
一つ目は、「かしもの、かりもの」の教理をもう一度深く味わい直すということです。例えば今日このおつとめに参加できているということは、すでにとても大きな素晴らしい親神様のご守護を頂いているからできているのです。目が見える、耳が聞こえる、手が動く、足が動く、息ができる、当たり前に思っていることは全て親神様が絶えずお働き下さっているからだということをいつも忘れないでいる、ありがたいと感じていることが大切です。皆さん、これまでにいろんな病気やけがをされた時に健康のありがたさをしみじみと感じた経験があるでしょう。元気になった、けがが治った後も、その時の気持ちを忘れずに持ち続けることが大事だと思います。たとえ解決しなければいけない問題があっても、命をおいてもらっていることを思えば、ありがたいという心が湧いてくるのではないでしょうか。
コロナの問題が起こって感じたのは、今まで空気を何も考えずに自由に吸ったり、吐いたりできていたことのありがたさでした。皆さんもそう思われたのではないでしょうか。こう考えてくると、自分がまだ気づかずに頂いているご守護が山ほどあると思います。
また、ある先生のお話に親子、夫婦などの家族や友人などの人間関係も親神様からおかりしているものであるとお聞かせ頂いたことがあります。
ある知り合いの方が聞かせて下さったのですが、ご主人と朝、仕事に行く前に口喧嘩をしたその日に、ご主人が仕事場で倒れて、心不全で亡くなられたそうです。
長年連れ添ったご主人との最後が口喧嘩だったことに大変後悔されていました。彼女の話を聞いて、夫や子どもが今日も元気でいてくれることも本当に大きなご守護であると改めて感じさせていただきました。そして、後で後悔のない日日の接し方をしていかないといけないと強く思いました。
どんな中にあっても、大きなご守護に守られて生かされていることをしっかりと感じて、「ありがとうございます」と声にだせば、心の向きが少しは変わるのではないでしょうか。
二つ目は自分の癖、性分を知るということです。ここで問題になる癖、性分は陽気ぐらしの邪魔になるもののことです。他の人が見ても何も感じない、思わないことがとても気にかかる。他の人は何とも思わないことが不足の種になる。すぐに腹をたてるとか、いつも先案じばかりしてしまうなどです。これは自分の心から出てくる喜べないもとです。癖、性分はまたその人のいんねんとも深いつながりがあります。ですから、すぐに変えられるものではありません。けれども教祖は「優しい心になりなされや。人をたすけなされや。癖、性分をとりなされや。」(逸話篇123)とお教え下さっているのですから、少しずつでもとる努力をしなければいけないと思います。このお言葉の「やさしい心になる、人をたすける心をもつ」というところに癖、性分をとるためのヒントがあると思います。
「やさしい心」というのはみかぐら歌の五下り目の六ツに「むごいこころをうちわすれ やさしきこころになりてこい」というおうたがあります。「やさしきこころ」の手ぶりはこうです。学生時代にお手ふりを教えて下さった先生が「やさしいこころとは、広い大きな心をいうのです。」とおっしゃった言葉がこのお手ふりをするたびに思い出され、ついついできるだけ大きく円をえがいてしまいます。広い心をもっていれば、たいていのことに心は動じないでしょう。
また「人をたすける心になりなされや。」とおっしゃっていますが、この人にたすかってもらいたい、少しでも幸せになってもらいたいと思ったら、自分の癖、性分のままに言いたいことを言い、したいことをしていたのでは、人はついてきてはくれません。腹の立つようなことを言われても、がっかりするようなことがあっても、神様の話を聞いてもらいたいと思えば、そこを思い直して相手と付き合っっていかなければなりません。そういう中を通っていくうちに自分の癖、性分も少しずつとって頂けるのだと思います。
ある奥様がご自分の身上から「自分は喜びが足らない」という自分の癖、性分を自覚されました。自覚したからといって、すぐに何でも喜べない。だからせめて喜べない時間を短く、三日間ほどぐじゃぐじゃ思っていたら、それが二日で切り替えができるように、二日ができるようになったら一日で、一日になったら今度は半日でと、少しでも早く心の切り替えをさせてもらえるようになったならば、最後には何を聞いても、何を見ても「ああ、けっこうやなあ」と喜べるようになるのではないかと悟られました。そういう心で通っておられましたところ、お医者さんも驚くような身上のご守護を頂かれたそうです。
心通りの守護とお聞かせ頂きます。大きいことでも小さいことでも、全て自分の心の理が招いているのですから、自分の心さえ改めていったら周りも自然に変わってくるのです。信仰のない人は自分の心はそのままで、周りばかりを変えようとするから思うようにならず、世の中を悲観するようになるのではないでしょうか。いつも自分の心を省みることが大切だと思います。
最後の三つ目は一番大切なこと、教祖の存在を心から離さないということです。ある先生の書かれた本に次のようなお言葉があったので紹介させて頂きます。
私たちが日常不平不満の心でうつうつしているとき、腹立ちや、よくやこうまんのほこりをわかしている時を考えてみると、必ずといってよいほど教祖をわすれているときである。ほこり心にとらわれている時でも、教祖を思い出すことができたら、不平不満も腹立ちも和らげ、払わしていただけて、みずからの心がたすかる。これはとりもなおさず教祖の御理を受けたことになる。
この文を読んだ時に、まさにそうだなあ、自分が腹を立てていた時、人に対して不足心を沸かせていた時を考えてみると、教祖のことをすっかり忘れていたなあと身につまされました。もし、その時に「腹の立つのは心が澄まんからや」という教祖のお言葉が浮かばせて頂けたら、「あっ」と相手だけを責める気持ちが和らげられるというか、自分の今の姿も教祖にはお喜びいただけるものではないと怒りがシューとしぼまると思います。いつも教祖が側で見守って下さっています。辛い時や悲しい時は教祖にその気持ちを真剣にお話しさせていただきましょう。必ずお答えが頂けます。
以上、喜べない心を少しでも喜べるように心を切り替えるためにはどうしたらいいのか、思うところをお話させて頂きました。かしものかりものの理をより深く感じさせて頂く、自分の癖、性分を少しづつでもとる努力をする、いつでも教祖が側におられることを忘れない、このどれか一つでも心にかけて実行して頂ければ幸いです。同じようなことを見たり、聞いたりしても以前の自分とは違う、親神様、教祖に喜んでいただける心遣いができるようになってきたなあと自分で思えるように、お互いに成人させて頂きましょう。そして、この出張所に集い、所長を中心に一手一つの心で神様の御用に励ませて頂きましょう。
ご清聴ありがとうございました。