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2013年7月月次祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

只今ともどもに7月の月次祭をつとめさせて頂くことができましたこと、お慶び申し上げます。神殿講話のご命を頂きましたので、しばらくお付き合いくださいますようよろしくお願いします。

今この世界は不安定な状態に陥っており、頼るべきよすがとなるものが揺らぎ、そのために行動がしばしば理に適わないものとなり、結果として不幸と苦痛をもたらしています。今日は、おやさまの教えを紐解き、健康と喜び溢れるより良い生活を送るための心の重要性について考えてみたいと思います。

人類の元を振り返ると、世界の創造は完全なもので、親神が創られた新しい世界は人間に向けられたものであり、それは生きるための場所、一般的に地球と呼んでいる膨大なご守護溢れる空間を含んでいます。

元の理において、親神は人類と人間自身の発展に申し分のない条件を創り出し、その多様なお力は、共に働くことが出来るよう親神の呼びかけに応じてだんだんと集まってきて、十の異なる方角から一点に集結しました。おふでさき

月日よりたん/\心つくしきり
そのゆへなるのにんけんである六号88

このよふのしんぢつの神月日なり
あとなるわみなどふくなるそや六号50

にんけんをはぢめよふとてたん/\と
よせてつこふたこれに神なを六号51

このように世界創造の始めから、親神陽気ぐらし世界建設のために必要な要素をそろえて下さっており、絶えず私たちを導き、辛抱強くお育て下さっています。従って、原則から言えば、私たちの誰もが苦しみを味わったり、涙を流したり、不幸な人生を歩むはずがなく、それは私たちが月日の体であるこの世界で生きており、その中で生活し、存在しているからなのです。

このように、元初まりと人類はその理一つであって、人間創造は月日親神が種・苗代と言われる夫婦ひながたに入り込んだ時に始まったために、親神は私たちの親なんだとおやさまはお教えくださっているのです。男女の夫婦の根本的な役割もその時に教えられているのです。

良い心遣いとは、親神が私達にやってほしいと望まれていることに目を向けることでもあります。元初まり以来、親神は男女の夫婦が成立し、陽気遊山を楽しむようにそれぞれの人生を歩んでほしいと願っておられます。

たくさんの人たちと共に生きている私たちです。みんなの心を澄ますことは本当に難しい事だと思います。そんな時こそ自分の心を省みて、まずは自分の心を澄ます努力をしていくところに始まりがあります。

全人類が拠り所を求めるこの時代に、おやさまは人類の根源とも言える男女の夫婦という最も重要な点をお教えくださっています。今の時代、夫婦の問題に苦しみ、孤独を感じる人々がたくさんいます。私たちは次のお言葉を響かせて、この問題をよく思案しなければなりません。

ふうふそろうてひのきしん
これがだいいちものだねやみかぐらうた十一下り目、二つ)

もう一つ非常に重要な点があります。親神は私たちに心の自由を与えてくださいました。これは、どのようにこの世で陽気ぐらしを実現するのかを考えるうえで非常に重要なポイントです。この自由に使える心というのが人間の力と独自性を構成し、動物との差を生み出し、人類創造における人類の立場を明らかにしています。親神は、私たちが陽気ぐらしの共同建設者となれるように、この素晴らしい力を与えて下さったのです。これにより、思うように動くことができ、良いことも悪いことも生み出すことができるのです。人間の意志は、世界の動きにおいて非常に大きな重要性を持っています。

私達はお互いが切り離された存在であると思い誤り、陽気ぐらし建設のために使われるべきこの能力を自己中心的に使っています。私たちは他人から自分を守り、他人よりも重要なものになりたがって、結果的に多くの悪事を生み出しています。今の世界を見れば、私たち人間が心の使い方を分かっていないのは明らかです。おふでさきでは何度も、人間の過ちや心得違いに対する親神の残念について触れられています。しかし、こうした人間の過ちにも関わらず、親神は最後まで人間を守ってくださいます。

おふでさき十五号16と17のお歌に、

こらほどにさねんつもりてあるけれど
心しだいにみなたすけるで

いかほどにさねんつもりてあるとても
ふんばりきりてはたらきをする

とあります。

親神は、私たち自身が心の使い方を変える気持ちを持つようにと促され、神は人間の代わりにそれをできないと仰られています。

「いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ」
「しんぢつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる」
「難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。」

と仰られる所以です。

つまり、親神は私たちが陽気ぐらしを営むことができるよう全てを調えて下さってはいますが、陽気ぐらしできるかどうかは、全く持って私たちの心の在り方次第なのです。
そういうわけで、この世の苦しみの原因とも言える心を正しく使えないが故に、親神おやさまを通してひながたをお示しくださっているのです。このひながたは、人生の如何なる困難であっても、それに対し取るべき正しい態度を私たちに教えて下さっています。その困難は自らが作り出したものであり、教祖はそれを回避させる事はできません。しかし、教祖はその親心からどのようにしてその難関を潜り抜けるのかをお教えくださっているのです。

ひながたを辿ることができれば、確実に成人の道を歩むことができ、しかも側におられるおやさまが倦まず弛まず私たちを導いて下さっていることを実感できれば、日々の暮らし方は根本的に変わると教えられています。私たちの側においで下さるおやさまを感じることは、陽気ぐらしへの扉を開く鍵なのです。人生を方向づけるさまざまな状況下で取るべき道をお示しくださるおやさまは、私たちの心、精神の導き手であり、案内者であり、指導者でもあるのです。

私たちの目や耳ではおやさまのお体やお声を感じることはできませんが、私たち自身に、或いは身の回りに起こる出来事を通して、そのお手引きを知ることができます。いうなれば、起きてくる出来事すべてをおやさまのお導きとして捉えなければなりません。
側においで下さるおやさまの素晴らしい存在に目を開き、その母なる愛を感じることは、私たちが自分自身のために、あるいは他人のためにできる最善のことなのです。そして生活のあらゆる瞬間において可能な限りおやさまにつながることで、求めてやまない心の安らぎに辿り着くことが保証されるのです。

ある話をご紹介します。

今から30年ほど前、私は3か月の修養科へ行きました。

修養科中のある日、教祖殿で掃除をしていましたら、不思議な体験をしました。掃除が終わると、修養科生は座って待ちます。私は教祖殿左側の奥の方に座り、頭を下げたその時、体中に柔らかな温もりを感じ、それは何とも心地よい感覚でした。軽く頭を上げると、少し前には気付かなかった老女の存在を確認できたのです。再び頭を下げました。それから再度頭を上げると既にその女性はいませんでした。夢を見ているのかと思いました。/p>

修養科中、自分たちの体験を振り返る夜の時間が時々ありました。私の番が来たとき、この経験を話したところ、おやさまを見たんだろうと口々に言われました。実際は本当に女性がそこにいたのかもしれませんし、そうではないかもしれません。私には分かりません。
確かなことは、この話をその後話したことはないにも関わらず、その日教祖殿で受けた感覚を忘れなかったということです。今振り返ると、この時におやさまの存在に目を開いた気がします。それまでもお道を信仰していましたが、どちらかというと頭での信仰でした。

今日この話をしようと思ったのは、今はそれをより良く理解できるようになっており、それを通して何かお伝えすることができるのではないかと思ったからです。
おやさまは、様々なお姿でいつなんどきでも私たちの側にやってこられます。おやさまの存在に触れるような、或いはその存在を感じるような状況が一回起こったら、同じような出来事が知らないうちに1000回起こっているかもしれません。元初まりの時から私たち人間はいんねんに導かれてその歩みを進めています。毎日いろいろな人に出会いますが、多くの場合、お会いしているはおやさまなのです。私たちが経験する全ては、陽気ぐらしへ向けて確実に歩みを進めるためにあるのです。おやさまは因果律とも呼べる各人の因縁を使って、正確に私たちを導いておられるのです。

自分の思い通りにならないと不足し、反発し、嘆く人がたくさんいます。今の暮らしと違う生活を望むのであれば、これまでと違ったやり方で辛抱強く種を撒く必要があり、その種は少しずつ芽が出ると教えられています。しかし、以前に蒔かれ、現在の生活を左右しているものは、すぐには小さくなりません。おやさまは、まさにそれぞれのいんねんを現れるがままにすることで、成人の道をお導きくださるのです。
「前生のいんねんならば、通さにゃならん」と仰られる所以です。

いんねんは善きにつけ悪しきにつけ、親神のご守護です。しかも、私たちそれぞれが陽気ぐらしの「種」、つまり素晴らしい元のいんねんを持って生まれてくるのです。

元のいんねんは清らかな精神に似ていて、喜び、愛、温もりに満ちた心の中に存在しています。しかし、親神の元のいんねんに反する言動に陥りがちな私たちは、この清らかな精神に取って代わって心に住み着く悪いんねんのもとになる考え方や行動を取ってしまい、悪い種を蒔いてしまいます。したがって、私たちの不運や不幸は決して他人によって引き起こされたわけではなく、今世や前世で自分が蒔いた種によって起きるのです。ですから、陽気ぐらしを営むためにはそれぞれが前生のいんねんを自覚することが大事なのです。

いんねん自覚の手立てとして、おやさまは次のようにお教えくださっています。

いんねんと言うて分かるまい。皆これ世界は鏡、皆人間生れ更わり、出更わりしても、心通り皆身に映してあるから、よく聞き分け。」(明治21年2月15日)

ある日、ある先生が次のように説明してくださいました。
「前生のことは分からないから、世界が自分自身を写す鏡だと思いなさい。おやさまは『すべては心通り』と仰って、自分の体だけじゃなく、親や家族や人間関係にも前生のいんねんが見えてくると教えて下さっている。我々の周りにあるものを通して前生を感じることができるとも仰っている。不安やなぁ、つらいなぁ、悲しいなぁと思っても、それは親心の現れだと思うことが肝心だ」と。

もう一つ、いんねんの捉え方を示すおやさまの逸話を紹介します。「本当のたすかり」という題が付いています。

一四七 本当のたすかり
大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。
が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます。」と、願った。
すると、教祖は、
「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。
人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」
と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。
この時以来、手のふるえは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。

このような気持ちで、抱える問題にとらわれることなく、むしろ多くの親神のご守護に注意を傾け、元初まり以来、何世代にも渡り辛抱強く私たちを道の上でお連れ通り下さるおやさまのお側で生きるよう心がけましょう。絶え間ないご守護を受けていると自覚できれば、おやさまへの感謝の気持ちは大きくなる一方でしょう。

真柱さまは諭達第三号で「陽気ぐらしとはまた心を澄ます道でもある」と仰っています。
そういうわけで、自分自身で責任を持って、延々と続く不平や後ろ向きな感情ではなく、温もり、愛情、喜びが私達の心に住み着くように気をつけなければなりません。そうすることで私達の精神が心地よく心に符合し、陽気ぐらしという人間創造の目的へと確かな歩みを進めることになるのです。

ご清聴ありがとうございました。

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