Tenrikyo Europe Centre
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海外部ヨーロッパ・アフリカ課長 清瀬理弘
皆様こんにちは、今年3月末より海外部ヨーロッパ・アフリカ課長として勤めさせて頂いております清瀬理弘と申します。只今は、ヨーロッパ出張所の8月の月次祭が一手一つに陽気につとめられましたことを心からお慶び申し上げます。また日々はそれぞれのお立場でお道の御用をおつとめ下さり誠にありがとうございます。本日は神殿講話の指名を受けましたので、しばらくの間お付き合い下さいますよう宜しくお願い致します。
本来なら出張所の神殿にて直接お話させて頂くべきところですが、ズームでお話させて頂くことになりました。お聞き苦しいところがあるかも知れませんがご了承頂きたいと存じます。
本日は日々私達が遣っております「心」に焦点を当てて、そこから導かれるいくつかの教理について思案させて頂きたいと思います。私達人間は日々の生活の中で、その場その場に対応するために色々なことを頭で考え、そして行動しております。その生活を展開していく中で軸となるのが心、あるいは心の働きであります。
天理教の教えで「心」という言葉が様々な場面で用いられていますが、心に関することで最も身近に感じる教理は、かしもの/かりものの教理ではないかと思うのです。おさしづに
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々でる。
とあります。
人間の身体は親神様からいえば人間に貸しているものであり、人間側からすれば親神様から借りているものでありまして、自分のものは心だけだというのです。そして親神様はその人間の心を受け取って守護されるとういうことですから、人の行動のみならず人間生活の一切が心に基づいているのであります。心によって「陽気ぐらし」も可能であり、心によってその成就が妨げられるのです。
このかしもの/かりもの教理は天理教教義の根幹とも言えるもので、これが分からなければ信仰の大切な部分がわからないと言っても過言ではないと思います。
私達がこうして毎日暮らしているのは神様のご守護によるものであることは言うまでもありません。私達お道の者は、教祖から教えて頂いて、身の内にぬくみと水気のお働きを頂き、口で息をし、目で物を見て、耳で理を聴き、鼻で匂いを嗅ぎ分け、口で言葉を話し、手で働き、足で運ばせて頂いて、神様のお働きのお陰で身体を使えるのだと理解しております。神様からかしもの/かりものの教理を聞かせて頂き、頭では分かっているつもりであります。しかし日常生活において、常に生かされているということを意識して生活している方はどのくらいおられるでしょうか。
さらに「この世は神のからだや」とお教え下さいます。従って我々人間もその神様のからだの一部に属する訳です。神のからだである我々の身体と、自分のものである「心」が一体となり、我々はこうして日々生きていけるのです。そしてその私達の身体と心を結びつけているルールが「心通りの守護」であると思います。親神様は人間の自由な心遣いの姿を世界に移す形で守護していると教えられます。これほど明快なルールはありません。
おふでさきに
めへめへの心みのうちどのような
ことでもしかとみなあらわすでこれみたらどんなものでもとくしんせ
むねのそうじがひとりでけるで
とありますように、銘々の心遣いは良しにつけ悪しきにつけ身体に現わす、その現れた姿を見て自らの心遣いを振り返り、胸の掃除につとめるようにと仰せになっています。
自分中心の心遣いをほこりに例えてお教え下さっていることはご承知のことだと思います。私達の身体は神様からの借り物ですので大切に使わせてもらわないといけない、しかしその遣い方を誤り、ほこりの心遣いを積み重ねると「心のほこり身に障りつく」というように、身上となって現れると教えられます。しかし決してこれは罰などではなく、あくまで心のほこりを掃除するきっかけ、また手がかりとして見せられているものであり、心遣いを正して、たすけてやりたいというお知らせ、警告であります。
それでは心の自由を与えられている私達はどのような心遣いをさせて頂いたらよいのでしょうか。
まず身体を借りているということはその貸主の意向に沿った使い方をすべきであるということが必然的にお分かりかと思います。それでは神様の意向とはどういったものなのでしょうか。人間の身体は陽気ぐらしをさせるために貸して頂いているものですので、陽気ぐらしに沿った心遣い、人をたすけることに遣わせて頂かねばならないと思うのです。一番神様がお望みになっている心遣いです。周りに身上の人、困っている人はいないか常にアンテナを張り、そういう人がいれば率先しておたすけをさせて頂く。神様の守護をお話させて頂く、ようぼくの方であれば、おさづけを取り次がせて頂く。たすけて頂いた人は今度は自分がたすけて頂いた喜びをもって人をたすけていく。こうしてたすけの輪が広がっていくことが理想の姿です。
また忘れてはならない心遣いがたんのうの心だと思うのです。たんのうとはどんな心遣いでしょうか。
人間は自分に都合の悪いことや芳しくないことが起こると心を濁らせてしまいがちです。自分の都合よくことが運べば喜び、反対のことは不足を言うことが多々あります。しかし天から降る雨はよい雨、悪い雨はないはずです。たとえ自分にとっては都合の悪い雨であってもこれは恵みの雨と喜びに変えていくことが我々信仰者の態度であります。これがたんのうの心です。自分の身に降りかかってくること全てをポジテイブにとらえること。世の中の全てのことは、親神様の親心、起こってくることは心に治めていくことが大切です。日々我々の身に現れてくることは自然の摂理、神様の思召であります。我々は成ってくる理に沿うていけばよいのです。どんなことが起こってきても見て喜ぶ、聞いて喜ぶ、全てのものを喜びに変えていくことが肝心です。たんのうの心が治まったならば、苦労が苦労でなくなり、明るく勇んで通ることができるようになるのです。
ところで、この身体の借り主は誰でしょうか。心が借り主というのも考えられます。しかしながら生まれ変わり、また新しい身体を借りてこの世に戻ってくる主体は心というよりも、その奥にある永続的なもの、生き通しの魂であります。魂が身体を借りることで活性化し、心の働きが生じてくるということであります。そしてまた今生の心遣い、生き方がその変容を加え、代を重ねてきた魂に今生の生き様を刻みつける。親神様の思召にかなう心遣い、通り方をすれば、その魂は磨かれる。魂にお徳を頂戴するということになるのだと思います。
その反対に思召に沿わないような心遣いを重ねていけば魂が段々とやせ細って、お徳を失っていくということになります。出直し、いわゆる死によって心の働きは止まります。魂がしばし親神様のふところに抱かれ、やがてまた新しい身体を借りてこの世に生まれ変わってくることになります。これが出直し、生まれ変わりの教理です。
真のたすかりとはどんなたすかりのことを言うのでしょうか。ただ単に病気が治っただけではたすかったことにはならない。心の状態が改まることが大事であります。医者によって一時は病気が治っても従来通りの心遣いをしていれば、たすかったことにはならない。「心のたすけ」とは、胸のほこりが掃除されて、心が澄み切った状態で、どんなことでも喜べる状態のことを言います。
ほこりを払って思召にかなう心遣いで日々を通る、そして人をたすける心になる、ほこりの心遣いの対局であります。人をたすけて我が身助かると仰せ下さいます。人を助ける心で日々を通っていたならば、自然と自分自身も救われていくと教えられておりますので、人知れず悩み、苦しんでいる人、周囲に目を向け、自分が今できるおたすけをさせて頂きたいものです。
今一つ、言葉遣いも重要だと考えます。心で考えたことを相手に伝えるのは言葉です。
逸話篇に
言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる。
と教えられている通りです。
心の澄み切った人から出てくる言葉は人と人をつなぐ言葉になり、反対に心の濁った人から出てくる言葉は人と人を切る言葉になると思うのです。なかなか心を変えると言っても一朝一夕には変わりません。しかし言葉遣いから変えてみてはいかがでしょうか。人が喜ばせる言葉、人を安心させる言葉、人に優しい言葉を意識的に場面、場面に応じてかけていけば自然と心も明るくなってくると思うのです。
こうしている間も親神様の御守護を頂いて心臓も一時の休みもなく動いているのです。その他の臓器や器官も自分の手を加えずとも機能しています。そのお陰で手も足も思うよう使うことができるのですから、お互いにその絶大な御守護を頂いている身体であるというありがたさを知り、喜び感謝できるように日々を陽気な心づくめで暮らして参りたい、そのように思う次第です。
さて話はがらっと変わりますが、冒頭で申し上げました通り、私は天理教海外部というところで勤務させて頂いております。実は昨年3月初旬に海外部は東右四棟に引っ越しを致しました。旧高安詰所にありました引っ越し前の海外部をご存知の方も多いかと存じますが、それまでは海外部は本館、別館、そして天理教語学院と、建物がそれぞれ別々で何かと不便を感じておりましたが、おやさと館に入らせて頂いてからは、語学院を含めて全ての部署がここに集約されましたので、会議、授業、行事などあらゆる面で御用をスムーズに進めることができるようになりました。これまで殆ど顔を合わさなかった部員とも話す機会ができたりと、一つ屋根の下、一手一つでつとめさせて頂いていることが実感でき、本当に有り難いことだと思っております。
現在はコロナ禍ということもあり、様々な行事が中止となっておりますが、その中でも自分たちに出来ることを模索しながら日々勤めさせて頂いております。一日も早くコロナが収束し、また以前のように様々な形で海外の方々を受け入れる体制が整えられるよう願わずにはおれません。
そして海外部の出先機関であります出張所の役割については、真柱様がオセアニア出張所の10周年記念祭で仰っしゃった言葉を引用させて頂きますと「教会本部や海外部の単なる事務的な出先機関ではなく、管轄する土地所の教勢伸展を願って、教会系統を越えて人々が心を揃え、合わせるための芯となる役割」を担っております。
また同時に出張所の役割の一つとして思いますことは、おぢばへ帰りたくても海外に居住する皆様にはなかなかおぢばに帰ることはかなわないことから、遠く離れたおぢばへの祈り、篤い思いをこの出張所に運び、そしてこの出張所を通しておぢばを拝する気持ちになって頂く。そしておぢば帰りしたいと思われる折々に、神様を繋ぐ手立てとして出張所に運んで頂き、この地に繋がる皆様の心の拠り所として頂きたいと思います。
ヨーロッパ出張所は来月、開設51周年記念祭を迎えます。昨年からのコロナウイルス感染症拡大の影響で、1年延期となっていたのですが、いよいよ来月つとめられることになりました。
51年と言えば、私が7歳の時に産声を上げたことになります。そう思うと一言で長いなあという感覚になりますが、その間このヨーロッパ出張所につながる教信者の皆さんが勇んで伏せ込みをし、そのバトンを受け継いでこられたからこそ続いてきた道であります。真柱様は拠点の記念祭の際に必ずといって仰られることは「開設当時の教友の心を思い返し、その時に皆が神様にお誓い申し上げた心定めを忘れることなく、心の成人を進めること」です。
今回神様からお見せ頂いたコロナの事情は、人間の身体で言えば、身上を見せて頂いた時と同じだと思います。健康であった時はそのありがたさがあまり分からなかったものが、いざ身上になれば健康のありがたさが身にしみて分からせてもらえるように、コロナで様々なことができなくなくなり、普段当たり前のようにやっていたことが実は普通ではなかったのだということが分かったはずです。今後ワクチン接種がいきわたり、元の生活が徐々に戻ってくると思います。その時がくるまで、皆さんがこの状況の中で取り組んでおられることを是非続けて下さい。と同時に、コロナが収まり日常に戻っても、いつも勇んで勤めるにはどうすればよいのか、皆さんと共に考えていきたいと思います。
この記念祭が一年延びたことによりそれぞれの成人目標のハードルを上げ、それに向けて努力されてこられたことと思います。十分つとめさせて頂いたという方もおられるでしょう。また、否まだまだ足りないと思っている方もおられるでしょう。残り約1ヵ月、記念祭までの日々をそれぞれが神様と向き合って、心の成人に励ませて頂きましょう。そして、それぞれの成人した姿をおつとめを通して親神様にご覧頂きましょう。
こうして同じ時期に、同じ地に居住するお互いであります。用意して下さった出張所が勇んだ出張所になるかどうかは皆さん次第です。どうかこれからも一手一つに心を合わせ、お互いがお互いの力を出し合う、そんな相乗効果を生み出す出張所になることを念じてお話を終えさせて頂きます。
ご清聴ありがとうございました。