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2014年3月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ

今年の年頭あいさつで真柱様は、次のようなお言葉をくださいました。

「年明けて、教祖百三十年祭へ向かう年祭活動の二年目を迎えました。今年も大きな行事がありますから、うかうかしていると、この二年目もあっという間に過ぎてしまうと思うのであります。一年目を振り返って、足りなかった点がないか反省し、又、良かったところはさらに伸ばして、二年目の動きにつなげることを心に強く持つことが大切だと思うのです。
出遅れたと感じている人もあるかも知れませんが、手遅れということはないのであって、これから動きますということを誓って、勇んで取り組んでいけばいいことだと思うのであります。」

私自身を振り返ってみますと、出遅れ組に入っているのではないかとこのお話を読んだ時に感じました。

そして、思ったのは、最近「おさづけ」を取り次がせて頂きたいという積極的な気持ちをなくしてしまっていたということです。
振り返ってみると、家族や知人が身体の不調を訴えていても、「ふん、ふん、それは大変やねえ。」「なんか薬、飲んだの。」 「お医者さんに診てもらう?」という言葉で終わってしまったことが、たびたびありました。また、その人の家を出てから、「あっ、おさづけを取り次がせてもらったらよかった。」と思ったことが幾度もあります。又、電話で病気だと聞いても、「お大事に」というだけで済ませてしまい、後から結構辛かったと聞いて、おさづけに行かせてもらえば良かったのにと反省することもありました。数えれば切りがありません。そういうことを何度も繰り返してしまっていました。本当にお恥ずかしいかぎりです。

御陰さまで、どれも軽く済ませて頂いているからということもありますが、無意識のうちに「おさづけ」というものを軽く思っていたのではないか、と反省しました。

そんな私に教祖がメッセージを送って下さいました。
青年会から出しておられる「あらきとうりょう」という本がありますが、それをたまたま読んでいると、その中に、アメリカで教会長をしておられる方がおぢばで開かれた講演会でされた講話が載っていました。この方がアメリカに渡って、最初にされたおたすけについて話されていました。その話を少し要約させて頂き、ここでご紹介させて頂きます。

最初に出会われた方は、四十四才の女性の方で、脊髄に腫瘍ができ、四回目の手術で医者が一番太い神経を誤って切断してしまい、半身不随、胸から下の感覚が全くなくなった方でした。また、肛門の穴が閉じないので、常に便が出てしまう状態でした。この先生は、「毎日、おさづけをさせてほしい」ということを条件に、その方のお世話を無償でされたのでした。毎日九回、二年半、通われ続けた結果、奇跡が起こったのです。足が動き始めたのです。また、彼女自身がおさづけのありがたさを実感されたのは、尿道に入れている管が原因の尿道炎から四十度の高熱が夜中に出た時におさづけを頂かれると、ほんの二、三分で、四十度から三十八度に熱が下がった時だったそうです。その後、彼女はおぢばに帰り、おさづけの理を頂かれました。そして今度は、彼女が自分のご主人におさづけを取り次がれたのでした。彼女のご主人は糖尿病で両足がなく、膝から下は義足という方でした。目もだんだん見えなくなって、分厚い眼鏡をかけて、やっとものが見えるぐらいだったそうです。そのご主人に彼女は毎日おさづけを取り次いだのです。そして、一年後、ご主人が「また目が見えなくなってきた」というので、眼科で診てもらうと、目が悪くなったのではなくて、目が良くなって、眼鏡が合わなくなっていたそうです。ご主人の目が良くなる頃には、彼女自身の肛門の穴もしまるようになり、全く動かなかった足がベッドの上で動くまで御守護を頂かれたのでした。その後、彼女は同じアパートの住人にもおさづけを取り次ぐようになられました。生涯歩くことはできなかったけれども、今までの生活とは全く違う喜びいっぱいの人生を送られたそうです。「人たすけたら、わがみたすかる」というお言葉通り、ご主人をおたすけすることによって、自らも御守護を頂かれたのです。

この記事を読ませてもらって、同じ布教師として本当に頭が下がりました。私には到底真似のできない真実を持って、おたすけに通われた、この先生が次のように仰っています。

「信仰初代の先生方は、一回のおさづけで御守護を頂かれましたが、初代の先生と今の私たちの苦労は、天と地ほどの差があります。ですから、毎日おさづけを取り次ぎ、少しずつ教祖にお働きいただく。これしかありません。おさづけを取り次ぐことで、教祖にお出ましいただいて、私たちが治すのではなく、教祖が治して下さる。当たり前のことですが、ここが一番大事だと思います。」

毎日、本当に何の不自由もなく過ごさせて頂いている上に、たった一回や二回、おさづけを取り次いで、御守護が見えないと心がくじけてしまっていた自分が何と高慢な人間かと思いました。 二年半もの間、毎日、毎日、何の変化も見えないのにおさづけのお取り次ぎを続ける先生の姿こそ、教祖のおっしゃる「まこと」の姿であり、だからこそ、奇跡を見せて頂かれたのです。また取り次ぐ者にまことの心があるならば、切れた神経がつながる、冷たかった足に温みが戻るという医学では考えられない不思議を今も「おさづけ」によって、お見せくだされるのです。
この先生のようなことはなかなかできませんが、一回、二回で諦めるのではなく、根気よく「おさづけ」の取り次ぎを続けさせて頂くことの大切さ、おさづけの素晴らしさを改めて教えて頂きました。

教祖伝逸話編のお話の中に、こうしてお参拝に来て下さる皆さんにぜひ聞いてほしいと思うお話があります。それは、「百七十一、宝の山」というお話です。読ませて頂きます。

教祖のお話に、

「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡っていけば、宝の山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中で険しいところがあると、そこからかえるから、宝がいただけないのやで。」

とお聞かせ下された。

このお話の中にあるように、ぐらぐらと心が揺れるようなことが長い人生の中には起こってくるのです。自分は一生懸命にやっているのに、なぜこんなことがと思うことが起こってきます。でも、引き返してはいけないのです。信仰をやめてしまってはいけないのです。ここが踏ん張り時なのです。では、そんな時にどういう思案をさせて頂いたらいいのか、真柱様が昨年の女子青年大会で次のようにお話し下されています。

「私達は、いつでも教祖とお話させて頂くことができ、どんなことでも相談させて頂くことができ、教えを請うことができるのであります。この厳然たる真実を真っ正直に信じることが大切であります。成ってくる姿、現れてくる事象を素直に受け止め、教祖は、今私達にどういうことをお教え下さり、どうしたらよいとお導き下さっているのかと、自分が教祖に合わせて行く努力を重ねていたら、そこには私達が進むべき道へのヒントが必ず見つかると思うのであります。中略

もし、私達が道を見失ったり、忘れたり、あるいは方向違いをしていたら、教祖はそのことをさまざまな事柄に表してお知らせ下さり、私達を正しい方向へとお導き下さるのであります。
しかし、もし、この知らせがなければ、あるいは自分がそれを見逃していたらどうなるでしょうか。自分ではこれでいいと思っていても、うっかり行き先違いの電車に乗ってしまったようなもので、気づいた時には、全く違った方向に進んでいるという結果にならないとも限らないのであります。ですから、私達は常日頃から、自分の心の向きを確かめる心の習慣を身につけ、教祖から教えて頂いた心の使い方をしているか、これでいいかと、自分の進んでいる方向を確かめながら歩む姿勢と勇気が必要であると思うのであります。」

ここで真柱様は、私達の日々の歩みを電車に乗った状況を例としてお話し下さっています。果たして、私達は今どんな電車に乗っているのでしょうか。「陽気ぐらし行き」に乗ったはずが、途中で行き先が変わっていたりしていませんか。新幹線のような特急に乗っていますか。各駅ですか。ふと気がつくと窓の外の景色が少しも変わっていない、一時停止の状態ということはありませんか。途中下車しているということがあるかもしれません。海外にいる者は理の親から離れ、信仰的に仕込んでくれる人がいません。ましてや、ある程度の年令になるとなおさらです。ですから、自分自身で、今の自分が果たしてどうなのかということを常に謙虚な気持ちで振り返り、律していくことが大事だと思います。物事が自分の思うように進まない時にこそ、その原因をよそに求めるのではなく、教祖からの自分へのメッセージとして、自分の日々のあり方を根本から考え直してみる。お道の本を読んだり、人の話を聞かせてもらったり、自分から教えを求めていく中に必ず解決への道が見えてくるのではないかと思います。

ただ今の旬は心の成人をさせて頂く旬とお聞かせいただきます。「自分がたすけてほしい」という心から、少しでも「周りの人にたすかって頂きたい」という大人の心になる努力をする時なのです。具体的には、悩んでいる人の話を聞かせてもらう、他の人のために祈る、神様のお話をさせてもらう、おさづけを取り次がせて頂く、これは神様が一番お喜び下さる姿です。私たちに本当にこの人にたすかってもらいたいという眞真実の心があれば、「神がのりて働く」とお聞かせいただきます。 「皆が勇めば、神も勇む」ともお聞かせいただきます。お互いにしっかり勇んで、この旬を通らせて頂きましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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