Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2016年4月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ

生前、義理の父に
「天理教の教えの中で、お父さんが一番心においておられるものは何ですか。」と聞いたことがありました。その時、父はこのみかぐらうたをあげました。

八つ やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしんみかぐらうた三下り目)

父はひのきしんと声がかかれば、高齢になっても一番に出て行くような人で、部屋の押し入れには自分専用のひのきしん道具をいろいろと揃えているような方でした。人が見ていようが、いまいがそれが自分のつとめであると黙々とひのきしんに生涯つとめきられました。このおうたを歌うたびに作業着姿の父の姿が目に浮かびます。

このおうたに出てくる「ひのきしん」という言葉は皆さん、よくご承知だと思いますが、改めて『ようぼくハンドブック』のひのきしんの項を読ませて頂きます。

私たち人間は親神様から体をお借りし、日々常々絶えざる親神様の十全の守護を頂戴して生きています。ひのきしんとは、そのご恩に報いる感謝の心からの行為であり、日常生活の中で絶えず心がけさせて頂くものです。

つまり、かしもの・かりものの理が真に心に治まった時、その喜びと感謝が自ずから行動となって表れ出るのがひのきしんです。まさに、ようぼくらしい生き方、お道ならではの暮らし方ということができましょう。(p. 98)

この文を読んだ時、私の思っていた「ひのきしん」は少し違っていたことに気がつきました。あまりうまく説明できないのですが、私の中では「ひのきしん」というと出張所や文化協会で掃除をしたり、料理をしたりなどの何かの行為を感謝の心でさせて頂くことだと思っていました。けれどもこの言葉を読むと、何かをするのが大事なのではなく、むしろ心のあり方に重点があると思いました。ひのきしんの時間だけ、出張所だからするのではなく、時や所に関係なく、常にこの体をお貸し頂いている喜びや勇み心から自然にでる行いや言葉が全て、即ち毎日の生き方そのものが「ひのきしん」なのです。ここに「ひのきしん」がボランティア活動と違うんだといわれる点があると思いました。

三代真柱様は著書の『喜びの日々』の中で、生かされていることに気づかない人に、それを知って頂けるように働きかけていくことや困ったり悩んだりしている人と共に考えたり、ともに、人としての在り方を語り合い、励まし合っていくこともひのきしんだと仰っています。また体がたとえ不自由であっても、言葉や身振り、あるいはまなざし一つでも、喜びを、あるいは感謝の心を表して、看護する人々をねぎらうこともできれば、周りに明るさをつくり出すことができる、これもひのきしんと言えるのだとも仰っています。

本当にひのきしんの形は私が考えていた以上に様々で、今まで簡単に使っていたひのきしんと言う言葉には、もっと広く、深い意味あるのだと教えて頂きました。

このように考えてくると「ひのきしん」を心がけて通っていれば、自分の喜びをまわりの人に映すことになるのですから、自然ににをいがけに繋がっていくと思います。ひのきしんイコールにをいがけなのです。にをいがけというとパンフレットを配ったり、戸別訪問というイメージがありますが、パンフレットや言葉以上にその人が醸し出す喜びの心、勇み心が本当のにをいがけになるのではないかと思います。

また「ひのきしん」を別の観点から考えてみたいと思います。

ひのきしん」という言葉がでてくるみかぐらうたに次のおうたがあります。

二ツ ふうふそろうてひのきしん これがだいいちものだねや(11下り目)

四ツ よくをわすれてひのきしん これがだいいちこえとなる(11下り目)

損得を考えないで、日々骨身を惜しまずひのきしんに励んでいれば、親神様がその心をすばらしい実を結ぶ種として、肥として受け取るんだと仰って下さっています。

これはまさにプラスの循環になります。ありがたいからひのきしんをし、またその心を親神様が受け取って喜びの実を下さる.またうれしいからひのきしんへと・・・。

逆説的になるのですが、心が晴れない、勇めない時には掃除やゴミ拾いなど何でも他人のためになることをさせて頂くと喜びの心が湧いてくるということもあると思うのです。澄んだ心になるために心のほこりを払いましょうと言われますが、ほこりの心を使わないように気をつけるよりもむしろ積極的にひのきしんを心がける方が知らず知らずのうちに心のほこりや癖性分をとって頂けるのだと思います。それは言葉を変えれば私たちの心を親神様にお受け取り頂いたということになるのではないでしょうか。

私事ですが、先日、何があったからというのでもないのに心が晴れない、何となく不足の心が湧いてくる日がありました。なんでだろうなあと考えた時に、「人のことを考えていない。自分のことしか考えていないからだ。」と気づきました。生命に関わる病人さんや身内がいる時は必死に神様にお願いをし、なんとかご守護頂けるようにと心を使うので不足に思っている暇がないのです。そういう時は大変ですけれども神様と心が近く、ちょっとしたことにも喜びを感じさせて頂いていたのです。ところが何ごともない日が続くと知らず知らずのうちに神様から心が離れて、喜びの心が薄れ、持ち前の癖性分である不足の心がでてくるんだと分からせて頂きました。「人たすけたら、我が身たすかる」と聞かせて頂いていますが、そんな大層なことではないのですが、誰かのことを心配し、神様にお願いをすることで、親神様のご守護を私自身が身近に感じさせて頂き勇ませて頂いている、ありがたいなあと思わせて頂きました。

最後に、ひのきしんとは日々無事に無難に生きさせて頂いていることを感謝する心からの行いや言葉なのですから、私たち天理教の信仰者の日々の生き方、暮らし方そのものが常にひのきしんの精神であるべきだといえるでしょう。

そのためには、まず「かしもの・かりものの理」このご教理を本当に心の底から感じさせて頂くことがひのきしんのもとであり、第一に大切なことだと思います。そのためには、かりもののお話は「千遍聞いて、千遍説け」とも言われるように、神様のお話を何遍も聞かせて頂いて、神様にしっかり心を向けて暮らすことが大切です。かりものが分かれば、心が変わる。心が変われば、運命が変わってくるのです。

このひのきしんの精神で仕事に当たるなら喜びをまわりの人に自然に映していくことができ、その輪を少しずつ広げていくことによって、親神様の待ち望まれている陽気ぐらしの世界へと変わる原動力になっていくのだと思います。

行事のためのひのきしんではなく、生き方としてひのきしんの精神をもって、共々に日々通らせて頂きましょう。

ご清聴、ありがとうございました。

アーカイブ