Tenrikyo Europe Centre

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2010年12月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ

只今は,皆さんと共に、十二月の本年の納めの月次際を無事に,賑やかにつとめさせて頂くことができました。お忙しい中,又、お寒い中,御参拝頂き,本当にありがとうございます。経験の浅いものですが,今思いますところをお話しさせて頂きたいと思います。

早くも十二月,一年も終わりに近くなってまいりました。この一年を振り返って,自分はどうであったか。去年の十二月の自分と今の自分を比べたとき,どれだけ人として,信仰者として成人させて頂けたか、みなさん、考えてみて下さい。別の言い方をすれば、以前よりも今の方がもっと喜んで日々を送っているでしょうか。みなさん、どうでしょう。喜びが増えているという方,手を挙げてみて下さい。ああ,結構ですね。みんながいつもそうであれば,本当にありがたいことなのですが、現実はなかなかそう簡単ではありません。

世の中を見ますと、病気に悩んでおられる方もあれば。人間関係のトラブルに頭をかかえたり、借金でどうしようもなくなってしまっている方、また夫婦の中がおかしくなっている方、本当に様々な問題を抱えておられます。これら全てが神様のご守護をご守護として頂けなくなった姿であります。

教典第七章、「かしもの,かりもの」の中に次の一節があります。

人間というものは,身はかりもの、心一つが我がのもの、たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に,自由自在という理を聞き分け。(明治22.2.14)

自由自在は,何処にあると思うな。めんめんの心,常々に誠あるのが,自由自在という。(明治21.12.7)

即ち,身の内の自由がかなうのも,難儀不自由をかこつのも,銘々の心遣い一つによって定る,それを,心一つが我がの理と教えられる。
しかるに,人は,容易にこの理が治まらないままに,浅はかな人間心から,何事も自分の勝手になるものと思い,とかく,己一人の苦楽や利害にとらわれて,一れつの和楽を望まれる親心に,もとる心を遣いがちである。親神は,かかる心遣いを,埃にたとえて,戒められている。

この教えは拝み祈祷の教えではありません。願い通りの守護ではなく心通りの守護を下さるのです。ですから,逆に、救けて頂きたい時には、救けて頂ける心遣い、心を澄みきらせる事が大事だと思います。

別席のお話に、

このほこりが積もり重なるにより,親神様が体内に入り込んで働く事が出来ん,と仰せられます。人間も同じこと,ほこりだらけのその中で,きれいな働きは出来ますまい。

という一節があります。

「救けて下さい。」とお願いしていても,ほこりだらけの心遣いのままでは親神様はそんなむさくるしい所には入り込んで働けないとおっしゃる、即ち救けて頂けないということです。

先程のおつとめでも唱和させて頂きましたが,みかぐらうたに

よくにきりないどろみづや
こころすみきれごくらくや   十下り目四ツ

と、あります。おふでさきの第三号にも、次のようなおうたがあります。

なににてもやまいというてさらになし
心ちがいのみちがあるから     三95

このみちハをしいほしいとかハいと
よくとこふまんこれがほこりや   三96

ほこりさいすきやかはろた事ならば
あとハめづらしたすけするぞや   三98

ほこりを払って心を澄ますということは、親神様に入り込んで働いて頂く,また親神様の思し召しを分からせて頂くために大切なことであります。教祖は人間の心をよく水にたとえてお話し下されていますが、濁った水には何も映らないのです。自分の考えが正しいと思っていると人の考え方が素直に入って来ない。人の意見を正確に受け取れなくなってしまっているのです。だから,まず自分の心を無欲に近い状態にしたならば、親神様がどういうことを,どういう心遣いの間違いを今ある問題から教えて下さろうとしているのかが見えてくるのではないかと思います。

このほこりの心遣いを反省し,払う手がかりとして,をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つのほこりを挙げ,さらに、「うそとついしょをこれきらい」と心遣いの間違いを戒められています。

きれいな心になりなさいよ,というのは何処の宗教でもいうと思うのですが,教祖は、非常に具体的にどういうことがいけないのかを教えて下さいました。今日は時間の関係上、一つ一つのほこりについての説明は省かせて頂きますがその中から、自分自身を振り返って、特に思い当たる三つのほこりについてお話しさせて頂きたいと思います。

一つ目は「をしい」であります。

をしいとは、心の働き、身の働きを惜しみ、租税や納め物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のためにすべき相応の務めを欠き、借りたるものを返すのを惜しみ、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。全て天理にかなわぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いのほこりであります。

この文をさらっと読んだ時には、「私は与えられた仕事は一所懸命やる方だからこれはあまりないな。」と思っておりました。

しかし、ある先生がこの「をしい」をお道風に考えるとどういうことかを話して下さいました。人に対して真実をだし惜しむ心、この辺でいいだろう、これ以上はやめておこう、神様の教えを知っていながら手を抜いて信仰する、真実をだし惜しむ。まさに最近の私の心情を言い当てられた気がしました。心にかかる人があっても足を運ばない、電話もかけない、神様は「無理に来いとはいわんでな」とおっしゃっているのだからと自分を正当化して、すませていました。月次祭に誘っても来られない人に対して「あの人は分からんなあ。」の一言。教祖のお言葉に「分からん子供が分からんのやない。親の教えが届かんのや。」 (逸話編196子供の成人)とありますが、このお言葉通り、分かってもらえるようにちゃんと話をしていない、分かってもらおうという努力、真実が足りなかったと反省しています。

二つ目は「はらだち」です。本には次のように書いてあります。

はらだちとは、腹の立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪いことを言うたとて腹を立て,おのが理を立て,人の理が入らんから腹が立つのであります。これからは腹を立てず,理を立てるようにするがよろしい。短気、癇癪はわが身の徳を落とし、我が身の命を損なうことがあります。

腹が立つ原因は、「気ままから」「心が澄まぬから」、別席のお話では、「楽すぎるから」とまでおしゃっています。自分の言い分、自分の立ち場を先に立てて、相手の気持ち、言い分を分かろうとしないから腹が立つ。私の場合、特に子供に対してこのほこりを遣っていると思います。案外。後で良く聞いてみるとそういうことかと思えるようなことでも、その時の勢いのあまり大声を上げてしまう。「はらだちは切る理」と聞かせて頂きます。一度切れたものはなかなかつなぐことは出来ません。腹を立てている自分は悪いとは思わずに、私が腹を立てるのは当たり前だという心の持ち方を積み重ねていくと、仕事や人間関係の上にいずれ差し障りを見せて頂くことになるのではないでしょうか。さらに自分の身体にも悪い影響を及ぼすのは最近の医学が証明しています。

三つ目は「こうまん」です。

こうまんとは、力も無いのに自惚れ、高ぶり、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、おのれは偉い、おのれは賢いと思うて人を侮り、人の欠点を探す、また、知らぬことを知りた顔して通す、これがこうまんのほこりであります。

このほこりも最初はあまり私に当てはまらないなあと思っていましたが、先程と同じ先生の話を聞いて、これもかなりあるなあと思いました。それは、次のようなお話でした。お道を信仰して、真実を尽くすとご守護が頂ける、それが天の理。ところが、だんだんご守護に囲まれていったならば、そのご守護に包まれて、ご守護が見えなくなってしまう。ご守護が当たり前になっている。ご守護の元は神様だということが分からずに、自分の力、自分の知恵だと思ってしまう、これが「こうまん」のほこりだとおっしゃっていました。自分が今、本当に結構において頂いているのは、親親がどんな中も神様を信じて一所懸命に通って下さった真実のお陰であることを忘れてはならないと思います。

これ以外にも、後五つあります。みなさんも今年一年の反省のよすがとして、じっくりと読み返されてはいかがでしょうか。

今日の社会ではストレスという言葉がよくつかわれます。人間関係のゆがみ、日常的な生活態度、その人の性格といいますか、心の癖が元になって病気になっている方が大勢おられます。そうした病気は医薬で症状を抑えるだけでなく、心の持ち方、生き方を転換しなければ治りません。このような時代ならばこそ、私ちの教えがより必要とされているのではないでしょうか。心の向きを切り替え、親神様の思し召しに沿うような心に入れ替えて行くことによって、自分を取り巻く一切のものが良い方向へと切り替っていくのです。親神様がお喜び下さるような心を定めて、これを日々実行する、そうした通り方の積み重ねが運命を切り替えて頂く、「大難を小難に、小難を無難に」 お連れ通り頂くことになるのです。私たちは、病気の人を助けるためにおさづけを頂戴していますが、おさづけを取り次がせて頂くものにとって、日々澄んだ心で通らせて頂くことが大切であると思います。前にも申し上げたように、ほこりいっぱいの心では神様は入り込んではたらけないとおっしゃっているのですから。「この頃、おさづけが昔の先生方の時のようにきかない。」という人がおられますが、それは私たちの心が昔の先生方のように澄んでいないからだと思います。言い換えれば「おさづけをできるだけ取り次がせて頂こう。」と念じながら、日々を通っていれば、自然と心を済ますことが必要になるのではないでしょうか。

天理教とはどんな宗教ですか、と聞かれた時にいろいろな答えがあると思いますが、心のほこりを掃除する、心を澄みきらせて頂くことを目標にした教えであると言えると思います。

おさしづ

今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄みきる教えやで。(明治20.3.22)

おふでさきにも、次のようにあります。

このみちハどんなことやと思うかな
せかいいちれつむねのそふじや   十六57

新年を迎えるにあたって、当出張所でも神殿の大掃除を予定されていますが、心の大掃除をお互いにさせて頂き、今年のほこりは来年に持ち越さないようにしたいものです。心を澄ましてより一層親神様、教祖の温かい親心、ご守護を感じ、勇んで共々に新年を迎えさせて頂きましょう。ご清聴ありがとうございました。

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