Tenrikyo Europe Centre
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ラ・セーヌ布教所長夫人 篠田まい
先ほど拝読させて頂きましたご諭達にもありましたように、おぢばでは、1年3ヶ月後に教祖140年際が執り行われます。
教祖がさらなる子供の成人を願って、定命を25年縮めてうつし身を隠されてから140年経とうとしていますが、親神様が望まれた皆が互いに立て合い助け合う真の陽気ぐらしの世界になるにはもう少し時間がかかりそうです。
三年千日のこの旬に教祖の残してくださった雛型に沿って成人の歩みを進められるようにとの願いで真柱様より御諭達が発布されましたので、本来ならしっかりと目標を持って種まきをしていかなければならないのに、できていない私への戒めを込めて、今回はご諭達に沿って少しお話しさせて頂きたいと思います。
私が最初に年祭を意識して迎えたのは、110年祭の年でした。
その当時、私はおぢばの寮で生活し、今はもう閉校となりました、親里高校に通っていました。お道の教えをほとんど知らないまま普通ならば教会で育っている子供しか入れないような天理教の学校に入学してしまいましたので、おてふりも知らず、旧かなづかいのおふでさきも読めず、戸惑いの連続でした。
そんな中、おぢばでは110年祭の年祭活動を通し皆が前向きでとても活気があったことを覚えています。
初めて触れた当時のご諭達は、今回のご諭達と同じような冒頭から始まるのですが、「教祖110年祭を迎えるにあたり、一言(いちごん)、諭達をもって、全教の心を一つにしたい。」と、女子寮で全体の遥拝で拝読する際に一体感を感じたのを今でも覚えています。
今回のご諭達でこの最初の一文を最初に拝読したとき、当時の記憶が蘇るとともに、真柱様の強いお気持ちを改めて感じさせて頂きました。
明治37年12月14日のおさしづに
皆心、一つの心に成りてくれ一つになれば強いもの。そもそもの心はどうしてやろうこうしてやろう、と言うたとて出来ん。そこで暇がいる。もうこれから、皆心というのは、一人の心にようあれだけの心を揃うたなあというは、世界にどんな事も映る。これをよう皆皆の心に持ってくれにゃならん
というお言葉があります。これは、教祖20年祭が近づくときに本部内の設計についてお願いをされた時のお言葉だったそうです。
また、「心の成人」という言葉も私には大きく響いて聞こえてきます。
真柱様が年始のご挨拶で「心の成人」とは、常に神一条の精神、態度で通れるようになること。人間思案を捨てて親神様を信じきる、もたれきることができるようになることであり、おつとめでご守護をいただくのも、人が話を聞き分けるようになってくれるのも、つとめるものの心の成人に大きく関わっているのだとお話し下されました。
おやさまが身をもって教えて下されたひながたの道を目どうに通ることが心の成人につながります。
おやさまのようにと、どんな大変な時も心を倒さず明るく、自分のことよりも人のことを思い人だすけして、不本意なことがなってきても成人へとお導きいただいていると考えて喜びに変えていけるよう日々過ごすことが大事なのだと思わせて頂きます。ただ、これは、順風満帆にことが進んでいるときには、素直に感謝をして、そう思えるのですが、いざ自分が大きな節をいただいている時はそのような気持ちになるのはとても難しいことです。
20代半ばの120年祭を控えた3年千日の時期、私にとって、とても葛藤の多い時期でした。自分の思い描いた理想の生活にならず、状況を回避しようとすればするほどどんどん悪い方向に向かっていきました。病気でもないのに体重は37キロまで落ち心身ともにギリギリだったと思います。そんな中、当時の理の親であったKさんにおつとめをするように勧められました。おつとめで心の埃をまず払わなければとはたと気が付き、おつとめをする中でいっぱいいっぱいであった気持ちが和らぐのを感じました。これもきっと、私が通らないといけない道なのだと神様がきっといいようにしてくださると思ったのを覚えています。
ただ、この時も、人間思案でいっぱいの私は、有名な3つのおふでさきが頭に浮かび、自分が今どの時点か?と不安に思ったことも覚えています。
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら(1-47)まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり(1-48)ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである(1-49)
今振り返って思うことは、まずは自分の心の埃をまず払わらければと思ったところから、神様がスルスルと私の心のモヤモヤを解決して落ち着いた気持ちを取り戻せるように問題の解決に導いてくださったのだと思います。
ご諭達に「ふしから芽が出る」と、なってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいである とあります。そして、「必ずなるほどの日をお見せいただける。」とあります。
未熟な私をお導きくだされ、今の私の穏やかな生活につながっているとこの気持ちを忘れずに生活させて頂きたいと改めて感じました。
明治32年1月17日のおさしづに
一つ楽しみの理留める心理にもって、一つ節という。
ふし無くば分からん。どういう事あろうか、こういう事あろうか。ふしから芽が出る。
最後に、教祖お一人から始まったこの道を親から子へと引き継いでいく積み重ねが末代へと続く道となると書かれています。
私の長男が、五月に17歳となりました。別席を運ばせていただける年齢です。
私にとって、とても感慨深く元気に無事育てさせていただいたことに感謝の気持ちがいっぱいです。
この三年千日の期間におさづけの理を頂戴できるますようにその後もしっかり信仰を引き継いていける一歩となりますように。
願いを込めて、あと1年3ヶ月過ごさせて頂こうと思います。
ご清聴ありがとうございました