Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2017年6月月次祭神殿講話

天理教ボルドー教会長 ジャンポール・シュードル

ご承知のように、フランスは現在、国の新たなリーダー達を決める選挙の時期を迎えており、国の方針について提案や疑問を投げかけるスピーチを度々耳にします。また国民の中から世界の問題を解決する為の考えが出てきていることを目の当たりにします。また国民のなかでも、各々が、世界の問題を解決するための策を語り、異なった意見、考えが溢れ広がっている様子も目にします。政策とまで行かないまでも、私達は、風潮に囚われることなく、物事が肯定的か否定的なことなのかを感覚的に掴み取ることができます。

私の周りの方の話を聞く限りでは、世界の状況はあまり良くないという印象を受けます。確かに、いくつかの問題はありますが、私は人がいうほどまでに世界の状況は悪いとは思っておりません。恐らく今こそ、教えを実践し、教えの実践者として、周囲や世界についての印象、そして日常における私達の態度や行いを自問自答すべき時なのではないでしょうか。

私たちはテレビやラジオから絶えず流れてくる大量の情報に従順です。それは世界中で起こっている最も重大な事件の数々を私たちに伝え、それによって世界の至る所で起こる事件が、例え私たちに直接関係していなくても世界が本当に深刻な状態に陥っているという印象を持ちます。しかしもう一度言いますが、私はそれほどまでに世界の状況は悪くないと思っています。世界中でたくさんの肯定的な事柄を見つけることができます。

無私無欲で行動し、共通の利益の為に自らの生活状況を調和させようとする人々もいます。近くの人が困難に陥ったときなど、彼らの大半が当然の事として問題解決の手助けをしようとします。東日本大震災や、フランスでのテロ、またあちらこちらでおこる洪水といった大惨事の後に人々はたすけ合う傾向にあることを目の当たりにしました。

教えを実践する者として、教祖の教えに帰依(きえ)するものとして、私は教えが本来善い存在である人間の性質を見据えたものであると感じています。

教祖は私たちに、もし心に少しのほこりがついていたとしても、人類は根本的に善い性質を持っていると確かに教えてくださいました。私たちの教えでは、心の誠の状態はの健康や成功を生み出すために必要不可欠なモーターとしての役割を担っています。このように、人類の善い本質をより発展させていけばいくほど、個人が、よりそれぞれにとって物事が良い方向に進む、人生の良い循環へと入っていきます。成る程の人となった個人は、親神の自由(じゅうよう)のご守護を享受することができます。実際に私たちは自分の人生において、その心の成人をできる素質を持っており、肯定の中心になることができるのです。一見したところ厳しい世界の中で、私たちは強く肯定的なモデルを求めています。私たちは多くの否定的なモデルを見ています。なぜなら、私たちはそちらの方に注意がいってしまうからです。先程メディアについて話をしましたが、恐らく大衆の関心を引く為にメディアは常に良くないこと、悪い態度の、肯定的な例にならない人々を私たちに見せるという風潮があります。

肯定的なモデルに私たちが少しでも近づく為に、諭達第二号に見られる以下の真柱様のお言葉を一つの例として汲み取ることができます。

「一人ひとりが誠の心で通るところ、内々は自ずと睦まじく治まり、世の人々にも成程の理が映るとお諭し下さる。親神様の限りなき御守護に感謝し、与えを喜び、成程の人として土地所に陽気ぐらしの種を蒔こう。

この成程の理とは私たちの意志を超えて働くものです。それは心に誠が備わった時に私たちから発せられる何かなのです。

例えば、現在選挙の時期ですので政治家についての会話を多くします。彼らは必ずしも説得力に富んでいるとは言えません。なぜなら、当選を優先し、彼ら自身が彼らの言っていることを少ししか信じていないからです。信念を持ち、特に誠実で、共有利益のためにつとめる人を人々の模範として、持つ事は有益なことではありますが、彼らの心の底には心の誠が足りていません。

この模範的姿勢があったならば「成る程の理」によって大多数の人に大きな力を確実に与えることができるのではないかと思います。

それでは私たちの周り、私たち各々の生活に目を向けてみましょう。もし私たちが喜びや心の誠や、許しをより一層えれば、その理は私たち自身からもう少し発せられ、それは私たちの周囲の多くの人々を肯定的な活力の中に引き込むことになるでしょう。

この「成程の理」とは自ずと人から人へ広がっていく原理なのです。

よって私達は、誠の心をもつことで「成る程の理」が強く働いている積極的な人との出会いが必要なのです。

おふでさき

このみちハどふゆう事にをもうかな
よろづたがいにたすけばかりを13-37

利他主義に関する科学的な研究があります。そこでは、より利他的でより周りに開けた人ほどより幸せでより明るいという結果があります。その研究は私たちに人は与える事によって受け取るということを確認させています。

おかきさげに、

「運ぶ尽くす中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。」

重要な事、それは思いやりの行動であり、困難の中にある人たちに問題を解決する手助け、また肯定的な活力の場へ引き込んでいく行動なのです。

それらの行動による実現(具体化)はとても重要なことです。私たちの教えではその行いをひのきしんと呼びます。それは同時に物質の構成と精神の構成は一対であるということを体現しています。物質の構成という表現は、建物を築くというだけを意味するものではありません。

分け合うこと、周りに興味を持つこと、自己中心的にならないこと、自我や各々の問題に捕われ過ぎないこと、それらの実行は、私たちを成長させ、開かせ、問題を乗り越えさせます。そして、それはよりそちらの方向へ向かえば、より喜びが生まれ、より幸せになることができ、またより分け合えば、より気持ちが明るくなり、最終的には、素晴らしい世界の建設に参画するという現象、良い循環を生み出します。

では何が、私たちがこの良い循環に入っていくことを邪魔しているのでしょうか。

教祖おふでさきに、

せかいぢうどこの人でもをなぢ事
いつむばかりの心なれとも14-23

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ14-24

と仰っています。

唐突に「心を喜びで満たす為にはどう立ち振舞えばいいのか」という疑問が頭をよぎります。なぜなら私たちは喜びが定かなものではないということに気付くからです。私たちは喜びを明確に定める事ができません。例えばですが、「よし今日私は喜ぼう、悲しもう」と言うことはできません。喜んでいるのか、そうでないのか、それは状態を表します。

喜びと嬉しさとの間には大きな違いがあります。嬉しさとは例えば今晩映画に行く、それが嬉しい、またレストランやバカンス等と言った、外へ探しにいくもです。好きなものを食べるというのも嬉しさの一つですね。

嬉しさとは外からやってくるもで、喜びとは人間の内側から出てくる感情であり、発散です。

喜びの感情を起こすこと、明確に定めることができなくても、それを育むことはできます。喜びは精神状態を育むこと、また喜びをより受け入れること、むしろ喜びをありのままに表すことで培うことができます。なぜなら、喜びは常に心の奥底にあるからです。

何事にもより落ち着いた心配りをし、結果にこだわらず今やっている事に一生懸命になることができた時に、喜びが現れてきます。

例えば、もしあなたの精神が他のことに捕われている状態で道や、自然の中を散歩すると、あなたはロボットのように自動的に歩を進めるでしょう。もしあなたが心を配れば、目でよく見、鼻で嗅ぎ、耳で聴くでしょう。その時、あなたは世界の美しさ、人の表情、夕日、調和に感動するでしょう。そして、今までに感じた事の無い喜びがわき上がってきます。それは全ての人、全てのことに有効です。

 続いて、喜びは親切心(親心)と比例しています。というのも、引きこもり、恐れ、嫉妬すること、ねたみ、恨みといった感情は喜びの表現を邪魔しうる完全に否定的な効果を持っています。

このような否定的な態度を取り除いていくことで、より自己が現れてきます。

自己が現れるという行為は、素晴らしい喜びの高まりに繋がります。

もう一つの重要な点は、他者と世界と調和するということです。教祖が教えてくださったおつとめをつとめる一つの理由として、お互いが繋がり、また同時に各々の立場で、それぞれの違いによって、周囲や世界に与える唯一のものを感じさせてくださるということがあります。

おつとめは、それぞれの役、それぞれの鳴り物、それぞれがその立場でつとめ、特別な理をもたらす陽気ぐらしへ引き込む力であると教えられています。

おつとめはこの広い世界の中で、私たちの居場所を見つける手助けをしてくれるでしょう。おふでさきに、

たん/\となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ3-40

とあります。

広大な世界、それは太陽系、地球、自然すべてであると同時に、全ての傷つきやすい存在、近しい人も遠い存在も、全人類です。そこに私たちの居場所を見つける。それは、この特別な共同体の中で周囲と結びつくということです。

おつとめの特徴の一つに、周囲と世界と、私たちの親、親神様と結びつくこの関係に導くというものがあります。この関係は私たちを大きな喜びの中に置きます。

そして、この道は私たちを同時に二つの方向へと導きます。一つは内面へ、より自己の中へと、また一方は、世界や周囲、外側へと。段々と確かになってくる喜びを得ながら導いていきます。

そして、天を見つめながら、天理の父であり、母である、月日親神に愛されているという揺るぎない信念が備わったとき、私たちの心から究極の喜びが輝き出てくる事でしょう。

おふでさきに、

一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど15-69

月日にわみな一れつハわが子なり
かハいいゝはいをもていれども16-31

とあります。

教えは唐突に、個人的な経験を通してでしか、喜びの状態を本当の意味で大きくさせ、進歩させる事はできないと私たちに知らせます。教えを理解する上で私たちを助け、明瞭にする教義書を読んだり、講話を聴いたりするだけでは充分ではありません。人生の経験に取って代わるものなど何も無いのです。

おふでさき1号46~49のお歌に

このさきハみちにたとへてはなしする
どこの事ともさらにゆハんで

やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら

まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり

ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである

とあります。

終わりに、素晴らしい世界にする為の奇跡的な手段など存在しないことを私たちは理解することができます。誠真実な状態へ私たちが進む事により、世界は少しずつ「成る程の理」によって素晴らしい世界へと建て替っていくのです。

今日(こんにち)、肯定的な人であるか、空想家であるかは、心の誠と対である精神の状態によるものであり、それこそ教祖が私たちに尋ねられている事だと感じています。

それぞれの人生における教祖のしるしと手引きに心を配る事で、私たちは世の立て替えをはかる教祖の道具になることができるのです。

最後に、2首のおふでさきを引用して、講話を終わります。

これからハをくハんみちをつけかける
せかいの心みないさめるで2-1

このよふをはじめてからにないつとめ
またはじめかけたしかをさめる6-8

ご静聴ありがとうございました。

アーカイブ