Tenrikyo Europe Centre
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田中久代
本日は、ヨーロッパ出張所5月の月次祭が、鳴りものとおてふりの手を揃え、一手一つに、おごそかに、そして陽気に勤められましたことを、親神様、教祖には、どんなにかお喜び頂いていることかと存じます。本当におめでとうございます。また、今日のために、遠くからお参拝に来られた皆様、本当にご苦労様です。今月は、私が月次祭講話の役目を頂きましたので、まだまだ未熟な信仰ではありますが、日頃感じていることなどをお話させて頂きたいと思いますので、しばらくおつき合いください。
私が、ことあるたびに思い出すのが、「天は、まったく素晴らしいシナリオライターである。」という言葉です。
この言葉は、今から29年前の天理教海外部報に、当時の崇文分教会長佐藤玉栄先生が、昭和3年から第二次世界大戦前後にかけて、命がけで通られた、中国伝道の経緯を「北京伝道回想」と題して、4年間連載をされた中の一文です。
大学を出たばかりの私は、天理教海外部に入部し、佐藤先生の原稿の編集を担当することになり、退部するまでの2年間、毎月、先生のもとに伺って、原稿の読み合わせや、当時のお話を、聞かせて頂きました。
人生経験もない若い私にとっては、中国布教、御主人の闘病と出直し、戦争、教会と学校の没収、引き揚げという激動の人生を、女一人で、なぜこんなにも冷静に神と向き合ってこられたのか、不思議でなりませんでした。そんな中で、最も心を打たれたのが「天は、まったく素晴らしいシナリオライターである。」という言葉でした。原稿の読み合わせをしながら、私が
「とてもいい表現ですね。」
と申しますと、先生は、静かな声で
「天(神)は、いつでも、自分に最もふさわしい役とステージを用意して、成人の道を歩ませてくださるので、成ってくること全てを、喜んで受け取ることが大切なのです。」とお答えになりました。
その後、私は、フランス語を学ぶ夫と出会い、フランスからコンゴに渡ることになり、海外布教のまねごとを経験させて頂くことになったのですから、今にして思うと、天のシナリオは、佐藤先生と出会うことも、全て決まっていたのだと思わざるをえません。
私は、生まれつき喘息持ちで、体が弱く、小学校2年生の夏休みには、大きな発作で危篤に陥りましたが、教会の後継者だった両親の、大きな心定めを受け取ってくださった親神様、教祖のおかげで、ない命を助けて頂きました。
そのとき以来、両親は、我が子のことには目もくれず、朝から晩まで人助けに奔走しました。教会には、いつも、重い病気の人や、問題を抱えた人が、たくさん住み込まれるようになり、私たち6人の兄弟は、その住み込みの方たちに育てて頂いたようなものです。
私の実家は、元は大きな農家だったそうですが、代々子供のない家で、養子に入った初代が入信して、子供を授けて頂いたそうです。この一家断絶の深い因縁を、私の身上を通して自覚した両親が、人助けに邁進してくれたのです。
そんな体の弱かった私が、大学を卒業し、結婚してフランスに渡り、長男をお与えきました。フランスで3年間の留学生活を終えた後に、海外部から、コンゴブラザビル出張所勤務をご命頂いた夫と、生後6か月の長男ともに、アフリカの大地を踏むことになりました。
時は、ちょうど教祖百年祭の3年前の1983年のことです。成人の旬として、全教が勇んでいる時に、コンゴにいる私も、教祖のよふぼくとして、何からでもさせて頂きたいとの思いから、病気で苦しんでおられる方々に、おさづけを取り次がせて頂こうと、長男を連れて、毎日歩かせて頂きました。
ある日、よちよち歩きの長男が、手招きされた家に入っていきました。そこには、皮膚病のために、手足が膿んで、そこにはえがたかっていたおばあさんが、座っておられました。早速、たらいに水を汲んできて、手足を洗い、そのただれた皮膚に、御供の紙を貼って、おさづけを取り次がせてもらいました。
すると、おばあさんは、お礼にと、一本のバゲットを私に差し出すのです。働けない彼女にとって、そのパンは何日分の糧か分かりません。
「ありがとう。でも、私は食べるものは家にあるので、あなたの心だけ頂きます。」
と、お断りしましたが、引っ込めてくれません。あまり断ると、返って彼女の心を傷つけることになるような気がして、ありがたく頂いて帰りました。その日のお昼に、そのパンを頂きましたが、そのおいしさは、今も忘れることができません。それからも、毎日おさづけに通わせてもらいました。数週間後には、かさぶたになって、悪い皮膚が取れて、きれいな皮膚ができてきました。
その他にも、いつも座ったままで腰から下が動かなかった少年が、ひざを使って動けるようになったり、マラリアの熱がすぐに下がったりと、おさづけによる不思議な神様のお働きを見せて頂きました。毎日、お勤めのときには、おさづけに通っている人々を助けて頂こうと、名前を思い出すのですが、多すぎて思い出せなくなったほどでした。
また、いつものようにおたすけに出ているときに、突然暴動が起こって、ヘリコプターの上から、政府軍の兵士が、無差別に銃を乱射し始めました。誰かが、
「逃げたら撃たれる。堂々と歩いて帰れ。」
と言ってくれたので、みかぐらうたを大声で歌いながら、歩いて帰ってきたこともありました。そのときには、教祖が守ってくださっているという実感が、確かにあり、私は何も怖くありませんでした。それよりも、「もし、夫が私を捜しに来て、流れ弾に当たったらどうしようか。」と心配をしていたぐらいです。
果たして、優しい夫は、やっとのことで教会の前までたどり着いたら、暴徒がなだれ込むのを避けるために門を閉めていたので、その上から顔を出して、
「大丈夫か?」
とにっこりと聞いてくれました。そして、
「捜しに行こうと思ったけど、もし、ぼくが、流れ弾に当たったら、幼い息子はこの広いアフリカの大地で両親が亡くなって路頭に迷うだろ、だから、捜しに行きたくても行けなかったんだ。」
と言いました。私は、まあそんないい訳もあるのかと、大笑いをしましたが、外では、まだヘリコプターの爆音や、銃声の響く中で、私たちはそんな冗談も言えるほど、すっかり神様にもたれきっていました。
コンゴでの勤務も3年が過ぎて、教祖百年祭が目前に迫ったときに、2人目の子供を流産した後、体調が悪くなり、突然激しい嘔吐と熱が出て、全身黄疸になる急性肝炎にかかった私は、治療を受けるために帰国しました。おかげさまで、半年ほどで元気になり、夫も、その年の7月には、コンゴブラザビル出張所勤務を終え、帰国しました。
その後、二番目の娘が生まれしばらくして、海外部から、海外帰国子女教育の御用のために、通信制の大学で、小学校教員免許を取るようにと声をかけて頂き、2年間勉強させて頂きました。
それから、去年の3月までの12年間、天理小学校で、たくさんの子供達との出会いを経験させて頂き、再び、大好きなフランスに、来させてもらうことになったのです。天理日仏文化協会こども日本語講座では、ちょうど、私のために用意されたような仕事も、待っていました。そして、たくさんの子供達と、素晴らしい仲間に囲まれて、毎日楽しく勤めさせて頂いています。
また、日本にいる2人の子供達も、夫の実兄にあたる所属教会の会長に心をかけて頂き、それぞれの職場や学校にも元気で通い、お道の行事にも進んで参加できるようになったことが、何より嬉しく、ありがたいことです。
私のような、未熟者の人生を振り返ってみても、確かに、親神様は、約10億年前に、人間を作って陽気ぐらしをさせて、ともに楽しみたいとの思いから、人間を創造されて以来、子供である私たち一人一人にふさわしい「天のシナリオ」を、書き続けてくださっていると、思えてくるのです。でも、そのシナリオの意味は、すぐには分からないことばかりで、まだまだ成人の鈍い私には、この先どういう展開が待っているのかは、想像もつきません。ただ、今日も「成ってくるのが天の理」というお言葉通り、先案じせず、どんなことにも喜びを見いだして、フランス、ヨーロッパの道の一端を担わせて頂ける幸せを感じつつ、心明るく通らせてもらいたいと思っています。
ご清聴ありがとうございました。