Tenrikyo Europe Centre

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2006年6月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 小林弘典

本日は、皆様と共に、立教169年、三月の月次祭を無事つとめることができましたことを、何よりもまず、お喜び申し上げます。

神殿講話のお役にご指名いただきましたので、しばらくの間勤めさせて頂きたいと思います。どうか最後まで、お付き合い下さいますよう、お願い致します。

天理教教祖、中山みきを、親しみを込めて、『おやさま』とお呼びします。この世人間をはじめた月日親神は、おやさまを社として、万委細の元のいんねんを我々人間にお説き下さいました。

この世は親神の体であり、人間は親神のご守護によって生かされています。親神は天では月日、世界では水と火、体内では水気と温みとなり、ご守護下さいます。また地上では風となり、体内では息となり、お守り下さいます。

この親神の懐の中で、銘々の魂に体をお貸しいただき、その体に親神のご守護が宿り、人間はこの世に命を授かります。体を借りて、命を与えられた人間は、時と場所が与えられ、その結果、我々は、今ここに存在します。

親神のご守護がよくわかるよう、人間は夫婦、親子、兄弟をはじめ、様々な絆で結ばれています。そして、親神は人間が互いにたすけ合って暮らせるよう、目、耳、鼻、口、手、足 、生殖器を道具としてお貸し下さっています。そして、人間はこれらの道具を心通りに使えるよう『心の自由』が与られています。これら全ては、人間を陽気暮らしへ導くための、親神の思し召しです。

心が自由であるということは、何ともありがたく、心地よいことではありますが、同時に自分でその管理も行わなければなりません。もし、人間がこの心の管理を怠ってしまうと、親神の体であるこの世に、親神より貸し与えて頂いている我々の体に、親神にご守護頂いている様々な人間関係に、何がしかの不都合が生じることになります。

親神は教祖の口、または筆を通して、人間が日々暮らす中で、気を付けなければならない心遣いを、分かりやすく埃に喩えてお説きくださいました。これは、おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、この八つの心遣いです。

埃は、吹けば飛ぶように小さく軽いものですが、積もり重なれば、拭いても擦っても簡単には落ちない、染みや垢となってしまいます。そしてこの心遣いが自らの心の自由を奪い、人間の本来の魂の輝きをも曇らせてしまうことになります。

八つの埃には、それぞれ解釈が付け加えられています。

おしい

心の働き、身の働きを惜しみ、納め物を出し惜しみ、人のためにすべき相応の務めを欠き、嫌なことを人にさせて自分は楽をしたいという心。

ほしい

心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり、分を忘れていいものを着たがり、いいものを食べたがり、また、何によらず、あるが上にも欲しがる心。

にくい

自分のために思ってくれる人を、かえって悪く思い、その人を憎み、嫁姑など身内同士で憎み合い、人の陰口を言って謗り、笑い、その場で出来た罪を憎まず、人を憎む心。

かわい

我が身さえよければ人はどうでもいい、我が子の愛に引かされ、食べ物、着物の好き嫌いを言わし、悪いことでも叱らず、気ままにさせておく心。

うらみ

顔が潰れたと言っては人を恨み、望みを妨げたと言っては人を恨み、誰がどう言ったと言っては人を恨み、知恵、力の足りないことや、徳のないことを思わず、人を恨む心。

はらだち

腹の立つのは気ままから、心が澄んでいないから、自分が理を立て、人の理が入らないからです。短気は我が身の徳を落とし、我が身の命を損なうことがあります。

よく

人より多く身につけたい、取れるだけ取りたい、数量をごまかし、人を騙して利をかすめ、人の物を盗み、取り込む心。

こうまん

力も無いのに自惚れ、高ぶり、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけ、自分は偉い、自分は賢いと思って人を侮り、人の欠点を探す、また、知らぬことを知ったふりをして通す心。

これらの心遣いは、だれもがつい使ってしまうものです。そのような心は一度も使ったことはない、という人はいません。しかし、気をつけなければならないのは、これらの埃が積み重なることです。心に埃が積み重なると、それが体、人間関係、世情、自然環境に不都合な状態で現れてきます。

これを親神の『かやし』と言います。このかやしは、何も好まざることばかりではありません。しかし、好ましいことは日々の健康や平穏な家庭といった、あたりまえとも言える形で現れていまから、なかなか気づきません。つい感謝の気持ちも薄れてしまいます。

また、時として、人間の目には不都合に映るかやしは、親神が人間をたすけたいとの思し召しで、我々に与えて下さる『てびき』でもあります。親神はこのてびきによって、人間に心の掃除をする機会をお与え下さいます。心は目には見えないものですから、親神はそのような手段を用いて人間に警告し、我々をお導きくださるのです。

先ほどつとめられた『つとめ』では、まず「あしきをはらうて・・・」と二十一回唱えます。これは悪魔祓い、呪い、祈祷ではありません。他でもない、自らの心の埃を思案、反省し、その埃を払うための祈りです。ですから、このとき両手で自分の胸を払う手振りをします。その指針として、教祖が示されたのが、『八つの埃』です。

「あしきをはらうて・・・」と唱えた後に「・・・たすけたまえ」と続きます。心の埃をきれいに払い、明るく澄んだ心を親神に供え、たすけを求めます。ですから、両手を広げ、心を捧げる手振りをします。

そして、「・・・天理王命」と唱えます。天理王命は、親神が人間を創造した元の『ぢば』に授けられた神名です。各々が心に、知らず知らずのうちに積もり重なった埃を払い、親神が人間をお創りくだされた目的である、『陽気暮らし』のできる元の清らかな心に成人させて頂くことを祈願します。

「・・・天理王命」と唱えるとき、胸の前に広げた両手を右手、左手と裏返すようにして、親神を招き入れる手振りをします。これは親神のご守護がその心通りに現れることを意味します。また、どのようなことも親神の暖かい慈悲であり、心の成人へとお導きいただくてびきとして受け取る我々の態度を示します。

親神は人間に陽気暮らしをさせてやりたいという思し召し一つです。しかし、人の目にはそれが幸運とり、また不運となって映ります。また、耳には賞賛となり、また罵詈雑言となって聞こえます。しかし親神の思し召しは一筋です。十二下り目、六つ、「むりにこいとはいわんでな・・・」と親神は人間に呼びかけますが、このときは、右手、つまり片手で二回手招きをする手振りをします。

しかし、この手振りが反対になってしまっていることが少なくありません。つまり、自分の都合のいいことだけ、都合のいい時だけしか親神を受け入れない態度です。言い換えれば、親神を片手で招いているようなものです。教祖は『これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。ただ踊るのではない、理を振るのや。』、また、『一つ手の振り方、間違ても、宜しくない。このつとめで命の切換するのや。』と言われました。

親神は、人間の心通りにご守護して下さいます。また、それを見てどんなことでも『喜べ』と言われます。

これは、教祖ご在世の頃の逸話です。

ある日、ある熱心な信者の田畑や山が大雨で流されてしまいました。村人は、日ごろからその方の信仰を馬鹿にしていましたから、このときとばかりに、その方の信仰を罵しりました。その方は大変残念に思い、教祖にお伺いすると、教祖は「結構や、結構や。海のどん底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるのやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構な事やで。」と言われました。その方は、教祖のお言葉を聞き、大難を小難にしていただいた親神のご守護に深く感謝されたそうです。

信仰していて、なんでこんなことになるのだろうか、と思うことがあります。また長い間信仰しているが、なかなかいいことがない、などと嘆いてしまうこともあるかもしれません。しかし親神のご守護は、どのようなことも喜んで受け取る中に頂けるものです。ですから、辛いことでも、喜びに変えなければなりません。苦しいときでも、喜んで通らなければなりません。それが教祖が示された『ひながた』であり、信仰の喜びでもあります。

心が真実に自由であれば、どのようなことも喜んで受け取ることができると教えられています。この喜びが人をたすける心となり、この人をたすける心を親神に受け取って頂ければ、どんな願いも叶います。親神は、常にてびきによって子である人間に語りかけ、問いかけ、思案と反省を促します。我々はそれをしっかり受け取り、お応えしなければなりません。

今日は月次祭の日です。親神のご守護にしっかり感謝させていただく日です。心の埃を払い、その澄んだ心を親神に受け取っていただきましょう。心が澄み渡れば、その心に親神が入り込み、自由自在のご守護が頂けます。

皆様、今日、ここに、こうして、時間を割いて、足を運ばれました。近所の方、遠くから来られた方、初めて来られた方、久しぶりに来られた方、毎月来られる方、親神は、我々人間の真実の親です。決して、分け隔てはなされません。親神にとっては人間はみな可愛い子どもです。

この後、永尾所長のお手に合わせて、喜びと感謝の気持ちを込め親神にお礼を申し上げ、本日の月次祭が終了します。そのとき、我々一人一人の心に、『天の理』が降り注がれます。この『理』が心の成人へと近づくための心の糧と、また節から芽を出すための『肥』となります。しっかりと受け取りましょう。

今年は、おやさま120年祭という節目の年です。心の成人へ向けさらに一歩前進する、またおぢばへ足を運ばせて頂く絶好の機会です。今、おぢばは、是非この機会にと、連日多くの人で賑わっています。親神おやさまも、かわいい子どもの帰りを、今か今かと待ち望んでいらっしゃいます。

今日、ここで、こうしてつとめられた月次祭も、ぢばがあるからこそです。ぢばはこの世の元、人間の生まれ故郷、そして今尚その親が存命でいらっしゃる、この世のおやさとです。身も、心も、しっかりとぢばに繋がせて頂きましょう。

最後に、おかきさげの一部を拝読させて頂き、本日の神殿講話を終えたい思います。

人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。皆受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめんめん精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。

ご清聴ありがとうございました。

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