Tenrikyo Europe Centre

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2004年11月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

先日イタリア・ミラノで行われました世界宗教者会議に天理教代表の一人として出席させていただきました。今年で18回目を数えるこの世界会議は、カソリックのサンエジディオ共同体が主催し、世界の主な宗教を招待して行われます。今年は、約60カ国から400人以上の参加者があり、キリスト教系からカソリック、プロテスタント、ロシア正教、英国国教会などやイスラム教代表者、ユダヤ教、また、仏教、さらには神道等の日本の宗教も参加しておりました。また、天理教はこの宗教者会議の当初から招待を受けて、ほぼ毎年参加しております。

この会議の期間中、様々な分科会が行われまして、自由にどの分科会へも参加できるようになっております。わたしは、キリスト教系の宗派が中心に集まっていた分科会を聴講しました。そのテーマは「人類は兄弟、教会は姉妹。ひとつの神」というものでした。またもう一つは、イスラエルでのパレスチナとユダヤの問題をテーマにした、「古き争いにいかなる希望があるか」というタイトルで分科会が行われておりましたので、それも聞いて参りました。それら分科会で共通した話題は、現在世界でさまざまな問題の根源となっている宗教が、それぞれの教えを超えていかに平和への道を築けるのかということでした。

ご承知のように、現在の世界の問題の基は宗教の違いから発生していることが多くあります。イスラエルのエルサレムを中心としたさまざまな争い、イラクでの戦争とテロの拡大。

戦争をはじめ国と国また民族同士の争いは人類の歴史始まって以来ひとときも絶えることなく今日まで続いています。今の状況をご覧になって親神様の「ざねん」はどんなに深いであろうかと思うのであります。教祖が神様の言葉として書かれた「おふでさき」にも「ざねん」の気持ちまたは「かみのなげき」という言葉が何度も出てきます。どうして親神の心が分からないのかという意味の言葉が多くあります。

考えてみますと、これまで人類が侵してきた戦争、紛争というものの発端は何なのでしょうか。おそらくほとんどの戦争が人間の憎しみ、うら恨み、ねた妬みなどが発端となり、多くの罪のない人々を犠牲にしてきているのではないでしょうか。先日のロシア・ベスレムのテロ事件も発端はロシアが憎いという点からおこった惨劇です。本当にあんなことがどうしてできるのか通常の心の状態では考えられません。長い歴史のなかで、政治的な問題も含めて様々な争いがあったのだとおもいますが、おそらくチェチェンには、一人の強力な指導者がいてその人間の心が広まり、その心に共感する同士が集まり、あんなテロ事件を引き起こすことになったのであろうと思うのです。心の問題であります。そういった心の問題を教祖は我々に教えてくださっているのです。

教祖は、人間のこの身体は神様からの貸しものであり、我々はそれを貸していただいているのだと教えられました。神様は人間を作られる時、月日にはだんだんこころつくしきりそのゆえなるのにんげんであると神様が苦心をされて造ってくださった訳ですから、命というものはこの上なく尊いものです。その尊い命を人間が自分の欲を満たすために勝手に奪ったり、傷つけたりすることは決してしてはならないのです。本当に神様の目からすると残念な気持ちでいっぱいであろうと思うのです。

ここで少し話題を変えまして子供の教育について少し考えてみたいと思います。

先ほどの世界宗教者会議の時に、パレスチナとイスラエルの問題についての分科会で、世界平和へのキーワードと思われる話がありました。

パレスチナ政府の代表者がこのような話をしていました。「あるとき、私の5歳の娘が『イスラエル人はみんな悪い人だから殺さなければならない。だからお父さん、ピストルを買ってほしい』と言った」というのです。驚いたこの人は友人である一人のイスラエル人に電話をかけてこう頼むのです。「私の子供を連れて行くから、あなたの子供と遊ばせてほしい」と。そして、友人宅で子供たちを遊ばせてからの帰り道、武器を売っている店の前に車を止めて「じゃこれからピストルを買ってくるけどどうする」と5歳の子供に尋ねると、その子は「もういらない。友達は殺さないんだ」と言ったという話がありました。問題の解決には、結局子供への教育が不可欠であり、これまでの歴史を考えると我々の責任は重大である、と話を締めくくっておられました。まさしく、今の世界の争いが治まり、家庭や社会が収まるには、心の教育が本当に大切であるなあと痛感したのです。

子供の教育で一番大切なのは学校ではありません。親であり、家族です。これは誰もがよくおわかりいただけることだと思います。子供の幸せを願わない親はいません。自分を犠牲にしてまでも子供には幸せになってほしいと願うのが親の心です。しかしながら、親の仕事や経済的状況、そして離婚などという親の勝手な理由から、十分な愛情を貰わないで育ってしまった子供が多くいます。

フランスでは実に全体の2割近い夫婦が離婚しています。ここ数年の離婚件数は年間12万件弱で、そして2000年に結婚した夫婦はなんと4割が離婚していると報告があります。それほど離婚の件数は増えているのです。

子供は放っておけば大きくなると言われますが、父親と母親がそれぞれの役割をしっかりと持って家庭にいて、いっぱいの愛情を注ぎながら、躾をし、人生を歩む上での大切な教育を行うからこそ、バランスのとれた子供になり、幸せな人生を歩めると思うのです。離婚は避けられない状況もあるでしょう。しかし多くの場合は自分たちの勝手な理由から分かれてしまい、残された子供たちの心のバランスが崩れてしますことになります。心のバランスとは一言で言えば善悪の見分けができなくなるということです。子供の人格形成には、両親がいろいろな人生の辛い道中を通りながらでも幸せに暮らしていく努力をしている姿を見せることが、何よりも子供への教育ではないでしょうか。

教祖は「二つ一つが天の理」と教えられました。二つの相反するものが一つになった時、そこに働きが生まれると言われたのです。プラスとマイナスがあって電気が生じるように、男があり、女がある。親があり、子がある。天があり、地があるというように二つの違う要素が結合したときに、命が誕生し、家庭が築かれ、この世が存在するのであります。

先日読んだ本にこんなことが書いてありました。
あるとき、道を歩いていると二匹の捨て犬がいた。そのうち一匹を自宅へつれ帰り、もう一匹を親戚の家族のうちへ連れて行って世話を頼んだ。そして毎日食事をやるのだが、その犬が食事のとき必ず半分しか食べない。半分残す。多いのかと思って食事を減らしても同じで、やっぱり半分残す。そして家族のところに預けたもう一匹の犬の様子を聞くと同じで、この犬も半分残すことが分かった。そこで相談して、一匹をつれてもう一匹の家へ連れて行き、そこでちゃんと食事しているのを見せたところ、どちらの犬もそれから残さないで全部食べるようになったという話でした。これを読んで、犬でさえも分けて食べることができるのに、それに比べれば人間はどうして自分のことしか考えられないのかと思ったのです。犬でさえもこうして分けることが出来るのに、人間は自分のことしか考えられなくなったのが本当に残念に思います。

先程も申し上げましたように教祖は、人間のこの身体は神様からの貸しものであり、我々はそれを貸していただいているのだと教えられました。そして、ただ心だけは自分のものであるから、その心の使い方を間違わないようにしなさいと教えてくださいました。しかし我々はどうしても間違った心遣いをしてしまうときがあります。それをほこりという言葉で教えられ、そのほこりを払うことを教えられたのです。それも神様をほうきとして、ほこりを払いなさい、ほこりを払う努力をしなさいと仰せになりました。こうした努力を重ねることによって、人間は少しずつ成長していくと思うのです。 しかし、心というものは自分でこうしようとしてできることと、自分ではどうしようもないときがありますね。このことを心と魂ということで、教えてくださいました。魂とは心の芯になっているものとお考えになると、分かりやすと思います。

心の芯である魂が心に大きく影響して、心そのものを動かしていると言えるでしょう。簡単に言えば、人によいことをすれば、それが魂に刻まれていく。そして、またそれが心に影響して、優しい心になり、それが行動になって現れてくるのです。そしてその魂は永久に残り、来生にはまた新たな身体に入り込んで生まれてくると教えられています。教祖の教えられた信仰とは、一言で言えば魂をきれいにしてく行程だと言えると思うのです。

よくにきりないどろみずや
こころすみきれごくらくや

と教祖が仰せられています。

さらにこの身体の作り主である親神様へ感謝の気持ちを忘れないように、繰り返して教えられました。そして、この世は親神様の身体である、とも仰せられ、神様の懐の中で、人間が幸せに暮らすことを望まれ、それをご覧になって神様も一緒に楽しみたいと仰せになられました。この世に生きるすべての人間は、神様がお作りくだされた兄弟姉妹であります。兄弟姉妹として仲良く暮らすことが人間創造の目的ありますから、できない筈はないのです。いわば創造のときに人間の遺伝子に刻み込まれていると言っても過言でないと思うのです。神様は私たちに出来ないことは仰せになりません。可能であるから期待してくだされていると思うのです。親神様は神様であると同時に、親であります。親とは子供の心が分かるものです。

教祖逸話編という本こんなお話が出ております。

逸話編44 雪の日

明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。
正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺ほどの欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、裸足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何度もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、
なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた。そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、
『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな。』
と、仰せられていたところでした。」と、言った。
りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ。」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、
「ようこそ帰ってきたなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやえ。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。さあさあ親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。
それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何とも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。

私たちはこうした暖かい親心に包まれて今を生きております。何も心配することはありません。しかし、このお話で私が最も大切だと思いますのは、次の一節であります。「あっちでも転び、こっちでも滑っていたな。でもその中でも喜んでいたな」という部分であろうかと思うのです。私たちは、時に人生におぼ溺れ、苦しみ、なげ嘆くことがしばしばあります。しかしながらそんな状況の中でも、子供である私たちが一列兄弟として暮らす努力をして、今を喜んで暮らせば神様は必ず私たちの心を真実として受け取ってくださり、より一層の守護をくださると、この逸話編は教えてくださっていると思うのです。そして、その努力の第一歩が家庭であり、夫婦であります。さらにその努力は自然と周りの人の心を動かし、大きな波となって世界中の人を巻き込むに違いありません。

そばがいさめば 神も勇むる

と仰ってくださっています。どうか一人一人の喜びの輪を広げていただきたいと切にお願いする次第です。

今の世界は平和世界からはまだ遠いのが現状であります。すべての道は教祖がひながたとしてお通りくだされています。教祖は姿こそ我々は拝せませんが存命で世界たすけにおはたらきくだされております。その心をしっかりと学はせていただけば、必ず助け合いの世界、陽気ぐらしは実現できると確信しております。

御清聴ありがとうございました。

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