Tenrikyo Europe Centre

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2009年1月春季大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

お道の教理で最も大切なものは、「かしもの・かりもの」の教理です。私たちが使っているこの身体は、親神からの借り物であるということを自覚するということです。親神から言えば、私たちにこの身体を貸しているということになります。

おふでさきには、

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん    三 137

と、この「かしもの・かりもの」の教理が理解できなければ、道の教えは何も理解できないと教えられています。

通常、宗教には戒律というものがあります。信仰者全員がする場合と、聖職者だけがする場合とがありますが、多くの場合、何らかの戒律がある。聖職者は結婚できないというものがあります。あるいは、一日、何度か決まった回数だけ必ずお祈りをしなさいというものもあります。特定のものを食べてはいけないという教理もあります。武道や輸血を禁じる宗教もあります。

昨年11月、私はキプロスで行われた諸宗教の集いに、天理教代表団の一員として参加しました。そのとき、お目にかかったある宗教の女性信者さんは、人と話をするとき、必ず、口の前にハンカチを当てて、話されるのです。ある人に聞くと、それはその宗教の戒律であって、他人に自分の息を掛けてはいけないそうです。その女性達は、ビズをすることも、もちろん許されておりません。

大分以前に、アメリカにある宗教団体の本部を見学に行ったことがあります。近くのレストランで夕食を取ったのですが、ビールを注文したとき、この地区のレストランにはビールもコーヒーもありませんと言われ、驚いたことがあります。その宗教がお酒やコーヒーを飲むことを禁じているので、本部のある街のレストランにはそれらを置いていないのです。日本には、厳寒の中、滝に打たれるといった厳しい修行を課す宗教もあります。

しかし、天理教には、いわゆる戒律とか修行と言われるものはありません。例えば、断食という行為は、古今東西、多くの宗教の信者が実践します。天理教では、教祖は何度か断食をされています。最長、75日間、約2ヶ月半の断食を実践されていますが、信者に、断食をせよと言われてはおりません。

教祖伝逸話編に、こういう話があります。

心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一つ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭いを使っては効能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。(略)また何でも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻らせていただいた。
こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」と、お言葉をくだされた。

とあります。また、こういう話も載っております。

桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日はどうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。
「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何にも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事をする事要らんのやで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや」と、やさしくお言葉を下された。(逸話編161)

とあります。

いずれも、身体に辛い負担を強いる厳しい修行のようなことをすることを、戒めておられます。それは、身体が人間個々人の所有物ではなくて、神からの借り物であるという考え方からだと思います。つまり、他から借りているものであるから、それを傷つけるべきではなく、むしろ大切に使うべきであるという考え方に立っていると思われます。

だからといって、「身体は借り物だから、大切に使おう」と言いながら、何もせずに、ただ自堕落な態度で生活をするというのは、何をか言わんやでありましょう。これは、他人から傘を借りてきて「今日は雨だから、傘を傷めるので使わないでおこう」と言っているようなものです。自堕落な生活は、却って身体を傷めます。ひのきしんやおつとめをさせてもらう。会社の仕事を一生懸命する。スポーツに打ち込む。こういったことは、むしろ適度に身体を使うということであり、最も身体を大切に扱うことでもあります。

身体は、自分のものではありませんので、時には、自分の意志通り動いてくれません。まず、年と共に自分の意志通りに使うことはできなくなります。また病気になると、腕一本、上げられなくなることもあります。身体が、神からの借り物である証拠と言えるでしょう。

借りるのと、自分で所有するのを比べると、通常は所有する方がいいと思いと思います。誰でも金銭的に余裕ができたら、借家ではなく自分の家を持ちたいと思います。しかし、人間の身体についていえば、自分のものよりも、断然借りものの方が良いと思います。私は、最近、夜、本を読むときには眼鏡が必要になりました。この眼鏡は、自分で買ったのですから、私のものです。一方、目は買った覚えはありません。神様からの借り物です。しかし、借り物の目に比べて、自分のものである眼鏡は本当に不便です。どこに置いたのか、しょっちゅう忘れますし、また近くのものは良く見えますが、遠くを見るときは、いちいち、外さねばなりません。曇ったり、ゴミが付く度に拭かねばなりません。借り物の身体は、本当に素晴らしいものです。この身体を大切にして、できるだけ長くお借りしたいものです。

「借りる」と申しても、神と人間の契約関係に基づいて借りているのではありません。従って、人間は賃貸料というのは払っておりません。しかし、おふでさきには、

人のものかりたるならばりかいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり   三 28

と歌われております。このお歌は、人間の貸借関係に例えて、身体を借りているのだから、その謝礼を利子を付けて払いなさいと言われていると考えられます。実際に金を払えと言っておられるのではなく、何らかの形で所有者である神に対して報恩をせよと言っておられると思います。

私は、天理教信者がおつとめをするのも、ひのきしんをするのも、あるいはお供えをするのも、皆、身体を借りていることに対する感謝の気持ちの表現だと思います。健康体の人は言うに及ばず、例え今病気であっても、生きているということは神から身体を借りている状態であります。そのことに対する報恩を、せねばなりません。生まれてから死ぬまで、毎日身体を貸してもらっています。ですので、お礼の方も毎日せねばなりません。私は、ここにいるときはもちろん、例えば所用でホテルに泊まるときでも、必ず朝夕、窓の方を向いて、おつとめをさせていただきます。

人助けは、直接神を対象にせず、対象は人間であります。しかし、人を助けるという行為も、また神への報恩であります。ある時、高弟の一人が教祖に「教祖は誰にでも人さんたすけなされ、人助けが一番やと、人助けの話ばかりして下さるようにお見受けいたしますが、人助けとは一体どのような功徳があるのでしょうか」と尋ねました。それに対して、教祖は「人助けというのは、ご恩報じのためにするんや。人間というものは、朝目を覚ましたとき、大きな大きなご恩を神様にいただいているもんや。そのことを考えたら、ご恩報じというのはな、しすぎるということは一つのもないのやで」と答えておられます。まさに、人間は自分の力で生きているのではなく、神から身体を借りて、生かされているのだと思います。その恩に対して、行動で報いる。これが「かしもの・かりもの」の教理の要点であります。無論、人間はロボットのように自らの意志がなく、生かされているのではなく、自らの意志を伴って、神によっていかされているのです。この自らの意志を、私たちは心と呼びます。

身体は、神からの借り物ですが、心は我がのものと教えられます。「おさしづには「人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理」(明治22、6、1)とあります。心は自分のものですから、誰でも意のままに使えます。年を取っても、病気の時でも、自由にものを考えることはできます。

身体と心は、まったく別のものとして、それぞれ独立しているのではありません。密接に関連しています。心で思うことが、その人の身体に何らかの影響を与えます。八つのほこりに代表される様々な悪しき心遣いの結果、病気に陥り、身体が思うように使えなくなります。

みかぐらうたに、「病のもとは、心から」と歌われており、また「おさしづには「心通りの守護」とも教えられています。一般にも、「病は気から」と言い、心の持ち方一つで、健康になったり、病気になったりすると言います。しかし、天理教で言う「病のもとは、心から」と俗に言う「病は気から」は、共通点はありますが、まったく同じではありません。天理教の教理では、心にほこりを積んでいると、神は身体にしるしを見せられ、そのことによって、心得違いを教えようとされます。その与えられた病によって、自分の悪しき心遣いに気づけば良いのですが、気づかすにずっと同じ心遣いを続ける、あるいは、気づいても正そうとしないと、遂には親神は借り物の身体を返しなさいと命じられるでしょう。言い換えれば命がなくなるという事態になってくるのです。

これをアパートの住人と大家の関係に例えてみたいと思います。アパートの部屋が身体、住人が心、大家が神という関係になります。心にほこりを積み重ね、その結果、身上を見せられ身体を傷める。これはアパートの住人がいつも汚く、そのアパートを乱暴に使い、その結果、壁や床など、あちこちが傷んだ状態です。加えて、身体の所有者である神に対する報恩の行いもしない。つまり、大家に対し、賃貸料も納めないということになります。そうすると、しまいには、大家は、ここを出てアパートを返してくれというでしょう。神も、その身体を返しなさいと言われると思います。そういうことを言われることのないように、日々、おつとめを勤め、ひのきしんに汗を流し、恩をお返しし、同時に心にほこりを積まないように生活したいものです。

では、身体を借りている主体は、何でしょうか。あるいは、心は私たちの所有物と申しましたが、所有者は何でしょうか。言い換えれば「我れ」とは、何なのでしょうか。私は、それが魂だと思います。魂とは、人間存在の主体のようなものだと思います。ここで、身体、心、魂という3つの存在の関係を考えたいと思います。

この3つも、独立して存在しているのではありません。大いに関係し合って、存在しております。「死」とは、身体と心が消滅することであり、魂は永遠に存在しております。しかし、心が消滅しているために、魂が存在していることを認識することはできません。魂は思考するわけではありませんので、ほこりを積むのは心であって、魂それ自体に優劣や尊卑の差はありません。おふでさきに、

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい  十三 45

とあります。魂が同じとは、人間に本質的には優劣の違いはないのだが、心の持ち方によって、それぞれの人生が変わるということでしょう。

心にほこりを積む。そうすると、親神は身体に異常を見せられると同時に、魂にそのことを銘記されます。魂、それ自体には意識はありませんので、もちろん、銘記されていることは気づくことはできません。あるいは逆に善行を重ね、徳を積む。今度も同様に、魂にそのことは銘記されます。これを、いんねんというのだと思います。このいんねんは、その人間の人生環境に影響します。今生の人生に影響する場合もあれば、来生、あるいは来々生、そのさらに先の人生に影響する場合もあります。また本人ではなくて、その人の子供にその影響が出る場合もあります。

お酒を止めようと思ってもどうしても止められない、あるいは淫らな異性関係を止めようと思っても、どうしても止められない。そういった場合、これは本人の今生の通り方というよりも、前生から積んできたいんねんのなす業と考えられないこともありません。子供が不慮の事故に会うのも、本人に原因がある場合もあれば、親のいんねんを子供を通して知らせてくださっているとも考えられます。逸話編に、こういう話があります。

堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にしておいたのや」と仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかなご守護を頂いた、という。(逸話編172)

私は、この年になって、自分自身の人生を振り返っても、また周囲の方々の人生を見せていただいても、いんねんというものは確かにあると確信するようになりました。ところが、最近、このいんねんの教理を説くことが、減ってきたのです。確かに、身に覚えのないことを責められて、面白い人はいません。ですから、段々、この教理を説くことが減ってきたのだと思います。しかし、私たちは、本当に心から、自分のいんねん、自分たち夫婦のいんねん、家族のいんねんにきちんと向き合わねばいけないと思います。それは、時には辛い思いをするでしょう。しかし、それを避けていては、いつまで経っても、前進することは難しいのではないでしょうか。成人ができません。成人ができなければ、本当のご守護もいただけないということになります。いんねんに立ち向かう姿、それが信仰の神髄であろうと思います。

問題は、今、何らかの困難の渦中にあって悩み、苦しんでいる人、あるいは生まれつきの障害を持っている人に対して、このいんねんの教理をもって責めるから、よくないのだと思います。例えば「あなたは足が悪い。それは前生に悪いことをしてきたからだ」などと、短絡的に言うべきではないと思います。教えを説く方は、責めている意識はなくても、結果的に責めている場合がよくあります。苦しんでいる人に相対して、私たち信仰者がすべきは、責めることではありません。その人を励まし、助けることでありましょう。

天理教教典には「いんねんの自覚」という言葉があります。要するに、いんねんの教理は、健常な人が難儀している人を責めるためにあるのではなく、難儀している人自らが、自覚するべき教理なのです。それには、大きな勇気が必要だと思います。しかし「思い切る理が、いんねん切る理」とも教えられます。信仰は、神と私の問題であって、そこには、第3者は介在するものではありません。例え辛くとも、一人一人が、自分のいんねんをしっかり自覚する。怖がる必要はありません。これが、何よりも大切なことではないでしょうか。

もちろん、教理を知らない人に、いんねんを教えるためには、教理を知っている第3者がそれを説かねばなりません。私は、そのために、教会長、布教所長、ようぼく、そういう立場の人がいるのだと思います。こういう人たちは、日頃から、その人を丹精していればこそ、その人が不測の事態に陥ったとき、いんねんの教理を説くことができるのです。

では、悪いいんねんを切る最良の方法はなんでしょうか。それは、ずばり、たんのうの心で人生を通ることでしょう。「おさしづに、

いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い」(M29年10月4日)と教えられるのです。あるいは「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも教えられます。では、たんのうとは、どういう心持ちでしょうか。それは、毎日いかなることが起こっても、その中に親神の意志を酌み取り、積極的な生き方をすることだと思います。これが、つまり陽気ぐらしということになります。

しかし、このたんのうの境地に至ることは、ものすごく難しいことです。例えば、自分の配偶者が大けがをしたとします。そのことに神の意志をくみ取り、積極的に生きよと言われても、到底できるものではありません。しかし、親神は人間に時間というご守護を下さっています。不幸が起こった直後には、たんのうはできなくても、1年経ち、5年経ち、10年経つ内にたんのうできることもあります。何よりも、不幸を嘆いて生きようが、積極的に前向きに生きようが、一生は一生です。どちらが価値のある一生かは、言うまでもないことでしょう。たんのうすることによって、親神の守護を深く身に感じることができ、人生が変わります。

厳しいいんねんを見せられて、たんのうして通る。場合によっては、それでも今生では、客観的にはそれほど人生が好転しない時も、あるかも知れません。しかし、来生、あるいは子供の人生の上に、大きな幸せのご守護をいただけることも、現実にあるのです。これを「理は末代」と教えられます。

ある教会長さんは、わずか20年ほどの間に、奥さんを3人、子供を3人なくされました。その方は悪いことをするどころか、まじめ一筋の方でありました。にも関わらず、なぜ、自分だけがこんなに不幸になるのかと自問したとき、自分のいんねんを自覚することによって、助けられたと言われます。もしこの教理を知らなかったら、どうなっていたかわからないとも言われます。このように、いんねんを自覚することによって、どんな中でも勇んで通る種を見つけることができるのです。

かしもの・かりものの教理をしっかりと理解し、身上を見せられたら、そこから親神の思し召しを悟る。同時に、自分のいんねん、我が家のいんねんを、決して避けることなく、真正面から自覚して、たんのうの境地で生きる努力をする。そこに、必ず、大きなご守護をいただける道があると思います。

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