Tenrikyo Europe Centre

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2021年7月月次祭神殿講話

明和パリ布教の家担当 小林弘典

初春のある朝、家のまどから外を見ていてふと感じたことがあります。 本日はまずそのお話をさせていただきます。

その日はアパートの前の車の往来も少なく、とても静かな朝でした。普段はあまり聞こえない小鳥のさえずりも聞こえていました。シャッターを開けると、窓から見える木々には新芽や若葉が芽吹いています。南東の窓から朝日が差し込んできます。木々の若葉がその光に照らされてきらきら光っています。青空の下、葉が風に揺られながら、太陽の光を浴びて輝く様子は、穏やかな海のさざ波のようにも見えました。

そして、ふと思ったのです。「太陽ってすごいな。もし、太陽がなくなったらどうなるのだろう。そう考えると太陽ってありがたいな」と。皆さんは時々そのようなことをふと感じたり、考えたりすることはありませんか。

太陽がなくなれば、私たちの命はなくなります。そして、この世界もなくなります。これは、まぎれもなくいつの時代にも地球上のどこにおいても変わらぬ真実です。つまり、この世界と全ての生物は太陽によってその存在を保証されています。

何を今さら原始的なこと言っているのかと思われるかもしれません。職場や家庭で突然このようなことを言うと、「どうかしたんですか」と不思議に思われるでしょう。しかし、私は信仰の基本はここになければならないと、そのとき改めて感じました。

人間社会の価値観は時代とともに、また状況に応じて変わります。我々個々の価値観も時間とともに変わっていきます。さらに、同じ今を、同じ場所で生きる私たちの間でも価値観や考えはそれぞれに異なります。

自然環境に目を向けても同様です。一日の中には朝昼晩があります。天気や気温も日々異なります。さらに、一年を通じて春、夏、秋、冬と季節は移り変わります。また、千年、万年という長い単位で見れば、地球の環境や地形も変わります。しかし、私たちの命の源が太陽であることは、変わることはありません。

私たちは日々、お金、仕事、家庭、人間関係、将来についていろいろと心を遣います。それらは今この社会の中を生きる上では欠かせないことです。こういったことは、考えるなと言われても、無視することはできないでしょう。しかし、私たちの生命の源である太陽についてはどうでしょうか。太陽に対して常に感謝の気持ちを持つことはできるでしょうか。

太陽に感謝しても、得になることは何もないと言う方もいるでしょう。そんなことをしてなくても、明日もまた日は昇ると言う方もいるでしょう。太陽に感謝したからといって、急に仕事がうまくいくということはありません。また、人間関係が即座に改善されるということもないかもしれません。太陽の熱や光も、感謝する人にだけ注ぐということもないでしょう。それなら、してもしなくても同じだということになります。

私は信仰についても同じではないかと思います。信仰を始めたら、急に何かいいことが起こるというものではありません。反対に信仰をやめたら、急に病気になったり、事故に遭ったりすることもないでしょう。そのように考えると、信仰はしてもしなくても同じように思えてきます。

この考えは一見合理的なように思われます。そして、私たちはそういった考えに陥る傾向にあります。しかし、この考えに支配されると、人はいつしか信仰を失います。

信仰を失うとはどういうことでしょうか。今お話ししている信仰とは、もちろん親神への信仰のことです。信仰を失うとは、親神のご守護をいただいているのに、それを心で感じることができなくなることです。

先ほどから太陽の話をしていますが、太陽は簡単に一言で言えば火の塊です。天理教には太陽そのものを拝むという教えはありません。また、私たちは太陽の存在のみによって生かされているわけでもありません。私たちが生命を維持していくためには、水も空気も必要です。その他数え始めればきりがありません。

では、太陽を太陽としてあらしめているものは何でしょうか。水を水としてあらしめているものは何でしょうか。空気を空気としてあらしめているものはなんでしょうか。私たちはそれを親神のご守護と呼んでいます。

科学や技術の進歩に私たちはより多くのことを知ることができるようになりました。太陽の輝きや大気や水についても多くのことが理解できるようになりました。また、生物の構造についてもより詳細に知ることができるようになりました。信仰を持った方であれば、これらの発見や知識を得ることにより、より一層親神のご守護への感謝の気持ちが強くなるはずです。

しかし、私たちは信仰を持っているとはいえ、日々生活の中ではつい自分の利害にかかわることに目と心を奪われてしまいます。一方で親神のご守護については、わかっていても忘れやすいというのも事実です。それは、あまりにも大きすぎ、あまりにも身近すぎ、そして、あまりにも当たり前すぎるからです。

信仰を持つこと、持ち続けること、さらに周囲や次世代に伝えていくには精神的な努力が必要です。精神的な努力とは日々の小さな感謝の積み重ねだと思います。親神のご守護に感謝の気持ちが持てると、太陽だけでなく、水にも、空気にも、そして人に対しても物に対しても、次から次へと感謝の気持ちが湧いてくるはずです。

感謝は心遣いです。心は目に見えませんが、親神のご守護への感謝の蓄積された社会と、そうでない社会では全く異なるはずです。日々の努力によって積み重ねられたものは、短期間で手に入れることはできません。私は信仰とはそのようなものだと思います。

信仰を持つきっかけはそれぞれに異なりますが、この世の真実や親神のご守護は人によって異なるものではありません。この教えに触れてもその基本に辿り着けずに離れていくのは、大変残念なことだと思います。

基本は大切だと言われる一方で、普段あまり目にする機会、口にする機会、耳にする機会がないのも事実です。たとえ耳にしても、もう知っているとか、聞き飽きたと言いながら、つい聞き流してしまいがちです。だからこそ、時に触れ基本に立ち返り、自分自身の信仰を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

来る9月19日には、天理教ヨーロッパ出張所の51周年記念祭が執り行われます。基本に立ち返ることは、10年単位で行われる記念祭の意義の一つだと思います。

ご承知の通り、50周年記念祭は昨年の9月につとめられる予定でしたが、1年延期となりました。1年前、出張所の玄関前は工事のバリケードやシートで覆われていました。今は出張所の玄関の前、つまり駅前は小さな広場になっています。以前あった駐車場もなくなり、大変明るく、広く、清潔感が感じられるようになりました。親神が私たちの信仰も同じようにあるようにと励ましてくれているようにも感じられます。

皆様方とともに、より大きな親神のご守護への感謝の気持ちで記念祭がつとめられますことを願いつつ、本日の講話を終わらせていただきたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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