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2023年11月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

ただいまつとめましたおつとめは、天理教の大事な信仰実践です。おつとめで十全のご守護、八つのほこりおぢばの理とそのたすけ、元の理や陽気ぐらしなどを含む全てを体感できると言ってもいいでしょう。おつとめの意味をよく理解してつとめれば、教えの真髄をよりよく理解できるとも言えます。今日はおつとめの中でも十下り目のおつとめについてお話ししたいと思います。世界を見れば、政治外交上の憂慮が絶えませんが、生活の中で私たち個人個人が周囲に伝えるべき心のありかたの方に集中したいと思います。

さて、今日お話しするのは、十二のお歌からなる第五節です。おつとめをつとめるときは、前半と後半に分かれます。特に感じるのは、下りが進むにつれてだんだんと信仰の目的に近づいているということです。つまり私たちの歩む道が、段階ごとに説かれ、十二下りで陽気ぐらし世界建設をもっておつとめが終わるという形です。

前半を見ると、一下り目ではおつとめ制作当時の信者になじみのある農業をたとえに人間生活を謳い、二下りでは「ところのおさまり」とあるように集団生活を、三下りでは元の神、実の神を、四下りでは「むらかたはやくにたすけたい」や「このよのごくらく」とおぢばを中心にした信仰生活を、五下りでは「たすけいちじょのこのところ」とぢばの救けの理を、そして六下りでは「しんじん」について説かれています。

後半では、七下りで農民にとっての「でんぢ」に例えて人間生活の本質を説き、八下りでは神の普請の「よふぼく」について、九下りでは「ひろいせかい」に「かみな」を広めること、十下りでは「やまひのもとはこころから」と病について、十一下りでは陽気ぐらしに向けてのひのきしんについて、そして最後の十二下りは陽気ぐらし世界建設についてとなっています。

先ほども言いましたが、この並びはおつとめ陽気ぐらし世界建設で終わっているように、陽気ぐらしへ向けての成人の歩みの順に並んでいるように思えます。そこで、一つ思うのが、十下り目の病が、こんなに遅く来るんだということです。私たちは、病気によって信仰に導かれる話をよく耳にします。おふでさきにこうあります。

なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそやII, 7

しやんせよやまいとゆうてさらになし
神のみちをせいけんなるぞやIII, 138

やまいとは、親神様が私たちをより良い状態に導く手段です。すべてがうまく行っている時、人は神を信じないでしょう。ですから、こうした痛みを伴うてびきによって、信仰の道を歩み始める人が多いのです。こう考えると、私たちを信仰の道につかせるために、病の下りはもっと早く出てきてもいいんじゃないのでしょうか。

もう少し違う見方をすると、信仰の最終段階、目標から二段階手前のゴール間近の段階ですと、病気のような悲観的ではない、もっと壮大な雰囲気があってもしかるべきだと思います。

なにゝてもやまいとゆうてさらになし
心ちがいのみちがあるからIII, 95

しやんせよやまいとゆうてさらになし
神のみちをせいけんなるぞやIII, 138

にんけんにやまいとゆうてないけれど
このよはじまりしりたものなしIX, 10

みのうちにとのよな事をしたとても
やまいでわない月日ていりやXIV, 21

これらのお歌を見ると、やまいには悪い意味はありません。もちろん、どこかに問題があるから病気になるわけですが、病気そのものは悪ではありません。ですから、十下り目に悲観的な意味はないのです。やまいの元は、心にあります。どのような生活を送るべきか、ものごとをどう悟るべきか、それが問題です。

もし飲み過ぎや、甘い物の食べ過ぎ、辛い物の食べ過ぎなどで、自身の体を大切にしなければ病気になります。あるいは生活の中でストレスが溜まると、体に異変が起こるでしょうし、他人のことを悪く思うと、つまりほこりが心に積もると、体の安定が乱れるでしょう。体のバランスが崩れれば、当然健康に問題が出ます。症状を改善するのは、表面的な事実を解決することです。しかし、天理教のたすかりは、表向きの病気が治ることではありません。病気があっても、いかに心を整えて生活すべきかを考えなければなりません。

既に言いましたが、やまいとは私たちを成人させてくれるものです。私たちのいんねんを切り替えてくれるものです。十下り目を見てみましょう。

一ッ ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんものなるぞ

二ッ ふしぎなたすけをしてゐれど あらはれわれでるのがいまはじめ

三ッ みづのなかなるこのどろう はやくいだしてもらひたい

四ッ よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや

五ッ いつ/\までもこのことハ はなしのたねになるほどに

六ッ むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから

七ッ なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに

八ッ やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない

九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ

十ド このたびあらはれた やまいのもとハこゝろから

十下り目はやまいの下りとはいえ、実際に病気の話が出るのは八ッから十ドまでです。一ッから七ッまでは、泥水に例えられる心とそのたすかりについて話され、この泥にまみれた心がやまいの元だと教えられます。

始めの一ッから、親神様は人の心を知るのは難しいと言われ、親神様であっても私たちを完全にコントロールはできませんし、しようともされません。私たちには完全なる心の自由があるのです。しかしここで改めて、泥を流して心の掃除をしなさいと教えてくださいました。水がきれいでなければ、つまり心が乱れていれば、ごくらくは来ない、つまり本当の陽気世界にはたどり着けないと言われているのです。

また「いついつまでもこのことは はなしのたねになるほどに」という一節は非常に大切です。いついつまでも、つまり私たちの目の前には永遠というものが横たわっています。何が話の種になるのか。それは澄んだ心です。掃除された心は時を超える力があるからこそ、出直しに意味が出てきます。

しかし、弱い私たち人間は心を澄ますことを忘れます。忘れがちな私たちの体に異変が起こるのは避けられないわけで、親神様はそれを思い出させるために「むごいことばをだ」すのです。病気を悪く受け取れば、苦しみしかありません。だからこそ、「なんぎするのもこゝろから」と言われます。痛みは耐え難い苦しみです。しかし、病気そのものが悪の根源ではありません。健康上の問題を引き起こす悪というのは、その病気の受け取り方を知らない心に潜んでいるのです。

確かに、やまいの元は心からです。ではよい心だと病気にはならないのでしょうか。そんなことはないでしょう。病気は誰にでもやってきます。まずは病気にならないよう体の安定を乱さないことが大事です。そして、病気になってしまった場合には、体を責めたり、目の前の現実を恨んだりすることなく、前に向かって進めるよう自分の心を見つめる心づかいを目指さなければなりません。

十下り目は、病気と言うのは、いかに信仰の進んだ状態であってもやって来るものだと教えてくれます。陽気ぐらしに到達する一歩手前の段階にもやってくるものなのです。陽気ぐらしは、一度崩れたらまた作り直さなければなりません。やまいが十下り目に置かれていることは、病気から陽気ぐらしが崩れることがあり、そこからまた陽気ぐらしのサイクルを始めるんだという意味もあるでしょう。

少し陽気ぐらしについてみてみましょう。実際、陽気ぐらしの後には何があるのでしょうか。目に見える範囲では、何も変わらないと思います。実現した陽気世界がただ続くだけです。陽気ぐらしとは最終段階ではなく、継続すべき状態のことです。それはあくまで精神の世界で、平和な世界でしょうから、戦争はなくなっているはずですが、気候や環境の問題、津波や干ばつなど自然に関する問題は残るでしょう。

病気もそうした自然問題の一つと考えられないでしょうか。つまり、陽気ぐらしになっても病気はなくなりません。食べすぎ、飲みすぎ、たばこの吸い過ぎ、ストレスなど、体調不良の原因は多々あります。確かに統計上はそれらが体調不良の原因でしょうが、健康的な生活をしている人でも病気になります。病気には確かに原因があるでしょう。しかし、原因が完全に分かっている人や、病気の原因をコントロールして病気を避けられる人はいるのでしょうか。どれだけ健康に留意しても、病気になってしまいます。

もちろん、健康的な生活が無意味だと言っているのではありません。健康的な生活は大多数の人の健康を守ると思います。しかしながら、100%ではありません。遺伝性の病気や環境要因もあると聞きます。不確定要素が多くて、医者でもなければどうしていいか分からなくなってしまいます。しかし、分からないなら受け入れろと言っているのではありません。天理教では、心次第で世界が変わると教えられます。

やまいの根は私たちの中にあって、そこに心を働かせることで体の不調と人生の不幸とを切り離すことができるのです。かしものかりものといった教理の自覚など、親神様の思いに沿った心遣いをすることで、どんな健康状態であっても自分の体に感謝できるようになり、体の方もポジティブな反応をしてくれます。そこに運命の切り替えのチャンスがあります。そうすることで、つらい痛みがある中でも病気を超えた心の安定を手に入れることができます。実際に体の調子も良くなるかもしれません。おふでさきにこうあります。

とのよふなむつかしくなるやまいでも
つとめ一ぢよてみなたすかるでX, 20

どのよふなむつかしくなるやまいでも
これなをらんとゆうでないぞやXII, 51

やまいと陽気ぐらしは切っても切り離せない関係なのかもしれません。そこには出直しの教理が関わってきますが、それはまた別の機会にお話しできればと思います。いずれにせよ、十下り目をつとめる時には、痛みは本当につらいですが、体の不調を嘆くことよりも、そこから陽気ぐらしへと近づく努力を進める気持ちを新たにしましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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