Tenrikyo Europe Centre

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2016年7月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長夫人 長谷川真理子

今年の1月26日には教祖130年祭を無事に迎えさせていただくことができました。その日はわたしくしはおぢばへ帰ることはできませんでしたが、当日のおぢばでのかぐらづとめの時間に合わせて、夜中の2時30分よりここヨーロッパ出張所でも、十二下りをつとさせていただきました。遥かにおぢばを拝し、ご存命のおやさまのことを思いながら皆でつとめたおつとめは、何とも言えない高揚感に包まれました。年祭までの三年千日。さまざまなことがあり、心を倒しそうになった時や、自分の無力さに涙を流した日もありましたが、こんな私でも親神様は日々ご守護・お働きくだされ、教祖はお連れ通りくださり、今日という日を迎えられたということを大変うれしく思いました。

年祭へ向けての三年千日の道中、特に私が感じることができましたことは、おさづけの取り次ぎについてでした。みなさんもご承知の通り、ヨーロッパ出張所では教祖130年祭へ向けて、二つの心定めを挙げておりました。そのうちの一つが、おさづけの取り次ぎ13000回でした。この心定め達成に向けて、出張所でも毎朝おさづけの取り次ぎを行っておりました。所長よりそのことを言われた時、正直あまり賛成ではありませんでした。数だけを稼いでるだけのような気がしたからです。しかし、毎日おさづけを取り次いだり、取り次いでもらったりしているうちに、自分の中で気持ちが変わっていきました。

ここ出張所では10人ほどの人が一緒に暮らしております。一緒にごはんを食べたり、ひのきしんをしたり、誰しもがそうだとは思いますが、ずっと一緒にいれば良い所も悪い所も見えてきます。いつも仲良く笑顔でいれるわけではありません。正直、腹の立つこともあります。しかし、例え相手に対して不足に思うことがあったとしても、おさづけを取り次ぐ時に、そういう個人的な感情を持ったまま取り次ぐわけにはいきません。心を落ち着かせ、心を澄まし、自分は神様の代わりにここに座りおさづけを取り次がさせていただくのであり、そこには自分の都合や身勝手な思いは存在させてはいけないとわたしは思います。毎日のおさづけを通してお互いのことを思いやり、祈り合い、相手の身上の平癒を神様にお願いをする。どれだけの身上をみせられても、自分自身におさづけを取り次ぐことはできません。『お願いします』と相手に頭を下げて取り次いでもらうのより他に方法はありません。そして、相手におさづけを取り次ぐ時でも、『もっとこうしたらきっと身上もよくなるのに』と思ったところで、『あしきはらい』と胸のほこりを払うのは自分の心なのです。このように、おさづけとは本当によくできているといつも思います。おさづけを取り次ぐことで、その相手を通して自分自身を見せていただいてきたように思います。また、どのような身上であっても、自分はおさづけを取り次ぐだけの人であり、たすけてくださるのは親神様であるということ。しかし、神様と身上者との間には、おさづけを取り次ぐようぼくが不可欠であるということ。この両極にある2つがが存在するおさづけは、非常に特別で、特異なものであるようにも思います。

諸井慶一郎先生の著書に、おさづけについて次のように書かれてあります。

おさづけの取り次ぎにおいて『あしきはらいたすけたまへ天理王命』と願うのは誰かというと、これは病人ではなくて、取次人であります。したがって、おさづけにおけるお願いは、取り次ぐ者のお願いであります。人のためにおたすけを願う、これはまさしく誠であります。なんでもたすかって頂きたい、たすけて頂きたいという思いをこめて願うのであります。ということはまた、その願いに実をこめさせて頂くのは、これまた病人ではなくて取次人であります。自分の願いに自分が実を込めるのは当然であります。受け取って頂くかどうかは、取次人の実のこめ方一つにかかっているということがいえるのであります。

教祖130年祭活動の間に、おさづけを通してもう一つ見せていただいたことがありました。三年千日も終盤に差し掛かった昨年の秋に、疲れとストレスから、わたしはごはんが食べれなくなり、5日で体重が5㎏落ちてしまいました。特に寝込むわけではなく、いつもと変わらず生活はできるのですが、ごはんが食べれませんので力が出ません。加えて、原因が分かりませんので、不安もありました。そんなわたしに、出張所のスタッフは毎日おさづけを取り次いでくれました。胃に痛みがありましたので胃に取り次いでもらったり、不安が強い時には胸に取り次いでもらいました。おさづけを取り次いでもらった時の、何とも言えないあたたかさは、わたしに安心感を与えてくれました。おそらくこの時のおさづけがなければ、わたしの心は立ち上がることができなかったように思います。『あぁ、今はしんどくて何も食べれないけれど、きっとよくなるんだ』と思わせてくれました。こうやって祈ってくれる人がいて、親神様・教祖がついていてくださる。そう思うときっと大丈夫だと思えてくるのでした。

おふでさきに、

こらほどにさねんつもりてあるけれど
心しだいにみなたすけるで(十五 16)

いかほどにさねんつもりてあるとても
ふんばりきりてはたらきをする(十五 17)

おさづけを毎日取り次ぐことを『数をかせぐだけ』と思っていた私が、その毎日のおさづけで身上はもとより心たすけていただいたこと。そして、自分がお世話をしている立場だと思っていた出張所のスタッフに、私自身がたすけてもらったこと。おさづけの前に『お願いします』と頭を下げることは、高慢になっていたわたしの姿を神様がご覧になって、自然と頭を下げれるようにしてくださったんだと思います。

5年前よりここでみんなと暮らすようになり、たくさんの方々を迎えさせていただくという御用を、神様からいただきました。正直なところ、喜んで勇んでできる日ばかりではありません。不足に思ったり、しんどいなぁと思う日もあります。そういう時はいつも親神様・教祖から『みんなに喜んで帰ってもらうように、わたしの代わりお世話を頼むで』と言われているんだと思い、気持ちを切り替えるようにしています。

 子どもがいない私たちですが、特に若い人たちと一緒に生活をし、関わらせていただく中で、ほんの少しだけですが親の心を知れた気がしました。親という立場ではない私たちを、彼らがほんの少しだけ親にしてくれました。ここに来なければ、味わうことのできないことだと思いました。

『さぁ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だんだんに理が渡そう。よう聞いて置け。』

ご自分の定命を25年縮めてまでも、渡してやりたかったと仰られたおさづけの理。その尊さとありがたさを強く感じさせて頂けたのが、教祖の年祭活動中であったこと。教祖が私にこの身体を通して、おさづけを取り次ぐ大切さとその本当の意味を教えてくださったのだと感じました。

年祭の当日はおぢばに帰らせて頂くことはできませんでしたが、2月におぢばへ一人帰らせて頂けた時、神殿に入りかんろだいを目の前にし、今日までお連れ通りいただいたことに感謝の気持ちしかなく、ただただお礼を申し上げるばかりでした。

にんけんをはじめたしたるこのをやハ
そんめゑでいるこれがまことや

ご清聴ありがとうございました。

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