Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2008年4月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長夫人 津留田きよみ

教典第八章「道すがら」の冒頭に

親神のてびきによって信仰に入り,教えの理を聞きわけて、かしものの理もよく胸に治まり、心のほこりも次第にぬぐわれ,いんねんの悟りもついたなら,ものの観方が変わってくる。見えるまま,聞こえるままの世界に変わりはなくとも,心に映る世界が変わり,今まで苦しみの世と思われたのが,ひとえに,楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ,世上も明るいのであって,まことに『こころすみきれごくらくや』と教えられている所以である。」

とあります。

天理教の信仰を始めたら,すぐにお金が儲かるとか、すばらしい人にめぐり会えるというものではありません。教祖はそのようなご利益信心を教えてくださったのではないのです。現実の姿はたとえ変わらなくとも心に映る姿が変わる,つまり心の持ち方,感じ方が変わってくる道を教えて下さったのです。

先日の天理時報に次のようなお話がありました。

妊娠中の妻をバイクの後ろに乗せ,凍結した路面で転倒。妻は頭を強く打って,意識不明となった。当時、9名の病人の元へおさづけの取り次ぎに通っていた。「御用に励んでいるのに,なぜ。」と,心は動揺した。そんな時ハッとひらめくことがあった。自分の教会の初代会長夫人は34才で,二代目夫人は30才、自分は3代目,妻の年齢は34才。単なる偶然の一致とは思わず,いんねんの深さを思い知らされた。親々の伏せ込みの徳によって,我が妻の出直すところを,親神様のご慈悲で小難にして下さっていると悟れた。心が震え,涙が込み上げてきた。この感激を胸に一層拍車をかけた。いんねんを自覚し,日々通る中にたんのうの心も育まれていったように思う。紆余曲折はあるが,今も夫婦とも結構にお連れ通り頂いている。

交通事故にあい,妻が意識不明という状況の中にあっても,最後には「大難を小難にして頂いた」と悟れる,これが信仰の素晴らしさではないでしょうか。

教祖のお言葉に次のようなものがあります。

『人間は嫌なものを見,嫌なことを聞くと,すぐ嫌やなあと思う。その心がいかんのや。嫌なものを見,嫌なことを聞いた時,ああよく見えるなあ,ああよく聞こえるなあと思わにゃいかん。その思い方がご守護を頂ける元になるのやで。何も難しいことないで。』

どのような心の持ち方をするかでご守護を頂けるかどうかの分かれ道があるのです。見方、聞き方一つで親神様にお働き頂けるかどうかが決まるのです。

逸話編を読ませていただきます。

教祖は,明治17年3月24日から4月5日まで奈良監獄所へ御苦労下された。こう田忠三郎も十日間入牢拘禁された。その間,忠三郎は,獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて,教祖の御前にもどると,教祖は、

「こう田はん、こんな所へ連れて来て,便所のようなむさい所の掃除をさされて,あんたは,どう思うたかえ。」

とお尋ね下されたので,「何をさせて頂いても,神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば,実に結構でございます。」と申し上げると,教祖の仰せ下さるには、「そうそう,どんな辛い事や嫌な事でも,結構と思うてすれば,天に届く理,神様受け取り下さる理は,結構に変えて下さる。なれども,えらい仕事,しんどい仕事を何ぼしても,ああ辛いなあ,ああ嫌やなあ,と不足々々でしては,天に届く理は不足になるのやで。」と、お諭し下された。

(144 天に届く理)

このお話をよく読み返してみますと、教祖は「どんな辛い事,嫌な事でも」とおっしゃっているのです。辛いなあ,嫌やなあと思う事はあるだろうけれども,そこでとどまるのではなく,それをありがたいと思い直す事が大事だと教えて下さっているのです。こう田先生の場合は「何をさせて頂いても神様の御用」というのが,心にあったから勇んで便所掃除をされることができたのです。

もう一つ逸話編を読ませて頂きます。

教祖は入信後間もない梅谷四郎兵衛に、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
と,お諭し下された。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。

明治16年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が,大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて,激しい憤りから,深夜,ひそかに荷物を取りまとめて,大阪へもどろうとした。
足音をしのばせて,中南の門屋を出ようとした時,教祖の咳払いが聞こえた。「あ,教祖が。」と思ったとたんに足は止まり,腹立ちも消え去ってしまった。

翌朝、お屋敷の人々と共に,ご飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり,「四郎兵衛さん、人がめどか,神がめどか,かみさんめどやで。」と仰せ下された。

(123 人がめどか)

梅谷先生も一度は腹を立てられたけれども、「教祖」と思ったら,その腹立ちも消えてしまっておられる。

私たちはみんな癖性分を持っています。時にはそれが原因で心にほこりを積むような事があります。教祖がおっしゃった「癖、性分を取りなされや」というのは,心のほこりを掃除するように,澄んだ心になるようにという事だと思います。

自分の癖,性分に惑わされることなく物事を判断するためには、自分のためになるよう,自分が喜べるようにするのではなく,親神様がお喜びくだされるかどうかを常に心において物事を決めていくということが大事だと思うのです。

又,「人を救けなされや。」ともおっしゃっています。「この人にたすかってもらいたい。少しでも幸せになってもらいたい」と思っていても,自分の癖,性分のままで,言いたいことを言い,したいことをしていたのでは,人はついてきてはくれないのです。腹の立つようなことを言われても,がっかりするようなことがあっても,神様の話を聞いていただきたいと思えば,そこを何とかと思い直して相手とつきあっていかなければなりません。そういう中を通っていくうちに,知らぬまに自分の癖,性分も変わっていき,ひいては自分のいんねん,運命もよい方に変わっていっているのではないでしょうか。

また、「おさしづ

いんねんというは心の道,と言うたる」(40.4.8)

というお言葉があります。自分の今の心遣いといんねんはつながっているのです。みんな,いいいんねんも持っていれば、たすけてもらわなければならないいんねんも持っているのです。自分の心遣いを神様にお喜び頂けるように変えていかなければ何も変わっていかないのです。私たちのように親から信仰を受け継いでいるものは特に自分のいんねんが見えにくくなっているのではないでしょうか。親が一所懸命に信仰をしてくれたお陰で「大難は小難に,小難は無難に」と結構にお連れとおり頂いているからです。でもいんねんがなくなった訳ではないのです。今私たちが何もしなければ、いずれまたそのいんねんがでてくるのです。そうなってから,ジタバタするよりも,今からこつこつと心の向きを変える努力をしようではありませんか。

私たちの本当の幸せは,自分たちの知恵,力だけで実現できるものではありません。親神様のご守護を頂いてこそ本当の幸せを与えていただくことができるのです。今,自分がしようとすること,言おうとすることが親神様にお喜び頂けるのかどうか,どうすればお喜び頂けるのかを常に意識して日々を通らせていただいていれば、「ありがたいなあ,結構やなあ。」と思わせていただける日が必ずくると確信しております。

アーカイブ