Tenrikyo Europe Centre

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2018年4月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 岩切耕一

今月4月18日は天理教教祖中山みき様、おやさまのお誕生日です。それで今日は改めておやさまについてお話をさせていただきたいと思います。おやさまは今から220年前に現在の天理教本部の近くの村でお生まれになりました。ご実家は前川家という裕福な農家で、男2人女2人の4人兄弟の2番目の子どもでした。13歳で隣村の裕福な農家中山家に嫁がれ男1人、女5人の6人の子どもの母親になりましたが、41歳の時親神様が中山みき様のお体を社として天下られ天理教教祖になられました。そして90歳でお身を隠されるまでの50年間、大変なご苦労の中を常に心明るく勇んでお通りになり陽気ぐらしの手本を残され、さらには世界中の人間を一人残らず助けあげるための「つとめ」を教えられました。

分かりやすくお話を進めるために、おやさまのご誕生後、時間の流れに沿って3つの立場に分けてお話したいと思います。まず生まれて40歳まで人間として過ごされた40年間、次に41歳から90歳まで天理教教祖として過ごされた50年間、そしてお身を隠された後今日まで131年間の姿の見えない教祖という3つのお立場です。

最初に40歳までの人間としての中山みき様についてお話ししたいと思います。子どもの頃のみき様はどんな方だったかということですが、3歳の頃からなさる事が他の子供と違っていて、人並すぐれた珍らしい子どもだと評判だったようです。他の子どもと違っていたのは次のような点でした。6歳の頃に針を持ち始めて網巾着を編み糠袋を縫うという手先の器用な子どもでしたが、作った物を好んで近所の子供達に与えて喜ぶという性格だったこと。7歳の頃には、近所の子供が泣いて駄々をこねて居るのを見て、自分が親から貰ったお菓子を与え、その泣き止むのを見て喜ばれる性格だったこと。8、9歳の頃には、秋の米の収穫時など、近所の小さい子供達を集めて遊んであげて忙しくしている農家の親達に喜ばれるという性格だったことなどです。このことから、みき様は子どもの時から、人が喜ぶ姿を見て自分も喜ぶという性格を持った方だった事がわかります。このような性格は、人間を造りその陽気ぐらしするのを見て共に楽しみたいと思われて人間と世界を始められた親神様のお心に通じていることに注目したいと思います。

それからご実家の前川家が仏教を深く信心していた家庭で、その中で育ったことから仏教の信仰を子どもの頃から身につけていた事もみき様のお人柄を知る上で大切な点です。小さい頃にはお体が余り丈夫ではなかったこともあって、仏陀の世界に憧れて尼になろうと考えられた事もあったそうです。12、3歳の頃にはすでに「浄土和讚」を暗誦されていたと言われています。「浄土和讚」というのは、日本仏教の最大宗派を興した親鸞が13世紀半ばに書いたもので、仏陀の教えとその世界を礼賛する118首の詩歌からなっており、現在日本で国宝に指定されている経文です。この118首の詩歌は古い7、5調で歌われていますが、みき様が後に天理教教祖になられてお書きになった1711首の「おふでさき」を思い起こさせます。

ご結婚は13歳の時でした。今の中学生の年齢ですが、当時は珍しい事ではなかったようです。みき様のお父さんの妹が中山家に嫁いでいたのですが、みき様の叔母の長男と結婚することになりました。いとこ同士の結婚です。結婚後のみき様はご両親を大切にし、ご主人とも仲良く、朝から晩までよく働き、使用人にも思いやりをもって接しました。その姿を見たご両親はみき様を大変信頼され、結婚してわずか3年後の16歳の時に中山家の会計一切をみき様にまかされました。当時の日本では、嫁は家の中で一番身分の低い人だと考えられていましたので、これは特筆すべき出来事だったということをご理解いただきたいと思います。

みき様のお人柄がよくわかる有名なエピソードを3つご紹介したいと思います。ある時ご主人が使用人のある女性と特別な関係になりました。彼女はみき様を殺そうと企て、食事に毒を入れました。それを食べたみき様は激しく苦しまれましたが、苦しみの中で「これは神や仏が私のお腹の中をお掃除下されたのです」と言われ、彼女をお許しになりました。彼女はそのお言葉を聞いて自分の過ちを心底悔い改め、みき様にお詫びして自分から身を引いて実家に帰りました。またある晩のこと、米を盗もうとして捕まった人がいました。みき様は「貧しかったからでしょう。可哀想な事です」とお言葉をかけ、米を与えて許されました。また使用人の中に大変な怠け者の男がいましたが、みき様はいつもやさしく「ご苦労様です」と言葉をかけられました。始めのうちはますます怠けていましたが、後になって改心して一番の働き者になったそうです。このようなエピソードから、みき様は人間のお立場の時からすでに人を助けることを大変大切になさった方だったということが分かります。

さて、今から181年前の1838年10月26日、みき様41歳の時、大きな事件が起りました。人間創造の時に親神様が約束した年限が到来して、いんねんある中山家に親神様が現れ出て来られたのです。親神様はみき様のお口を通して「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天下った。みきを神のやしろに貰い受けたい」と言われました。大変な驚きだったことと想像します。このとき親神様と中山家の人々の間で3日間激しい押し問答がありましたが、とうとうみき様のご主人は「みきを差し上げます」とお答えになりました。この日を境に、みき様のお心は人間の心から親神様のお心に完全に入れ替わりました。これから後の50年間は、みき様は人間ではなく「神のやしろ」というお立場でお通りになりました。

「神のやしろ」になられた中山みき様のことを、日本語で「親」を意味する「おやさま」とお呼びします。おやさまのご生涯は41歳から90歳までの50年間ですが、この間におやさまが言われた事やなされたことは人間の陽気ぐらしの手本と考えられていて、天理教信仰にとって大変重要なものになっています。天理教の信仰とはおやさまが残された50年の手本を基準にして毎日を過ごす生き方だと言うことができます。

「神のやしろ」になられたおやさまは最初の3年間は毎朝蔵の中にお入りになり晩までずっとお一人で過ごされたそうです。蔵の中の生活を終えたおやさまに対して親神様は「貧に落ちきれ」とお命じになり、おやさまの常識を超えた施しの毎日が始まりました。その後20数年かかって、おやさまは中山家の家財道具、お金、家、土地など全てを貧しい人に与えられました。このようなやり方は当然のことながら家族や親戚から強く反対されました。村人からも施しを受けた人からも「憑き物」「気違い」だとあざけ笑われたのです。「神のやしろ」になる前の中山みき様は、嫁としても妻としても母としても理想的な女性だと見られていましたが、「神のやしろ」になられた後は誰からも理解されず、一人で反対攻撃の中を過ごす事になりました。この違いには深い意味があると思います。

蔵の中の生活を終えたおやさまがなさった事はもう一つありました。それは安産の守護「おびやゆるし」の元となる「おびやためし」をご自分の身に試されたことです。当時の女性にとって出産は命がけの難事でしたが、おやさま親神様の働きを信じて疑わなければ誰でも安産できると、ご自身の身をもって教えられたのです。人間を創造された親神様が、人間を創造された元のぢばで、人間が安心して子どもを産むための許しを出されることに大きな意味があります。この「おびやゆるし」によって、初めておやさまの存在が広く世間に知られるようになりました。現在も多くの人がおぢばで「おびやゆるし」をいただいています。

おやさまの50年のご生涯は要約すると、親神様が人間を救済するための「つとめ」を教えるためにあったと言われています。それがどのような段取りで進められたかは年代順にみるとよくわかります。最初におやさまは「中山家の家を取り払いなさい」と言われました。その11年後に家が全て取り払われました。またその11年後にその場所につとめを教える建物が完成しました。続いてその11年後につとめを全て教え終えられました。さらにその11年後におやさまはお身をお隠しになりました。これを表にして見ますと、均等な4つの区分に分けられますが、この区分を見ると、おやさまは「つとめ」を教えるために、始めに入念な計画を立て、その計画通りに着実に事を進められたのではないかという印象を受けます。大変シンプルな段取りに見えますが、そこには人間を助けたいというおやさまの深いお心を感じることができます。本当にありがたいことだと思います。

ここでお話ししている「つとめ」は、この出張所でおこなわれる「つとめ」ではなく、天理教本部で行われる「かぐらづとめ」のことです。「かぐらづとめ」は人間創造の「元のぢば」でしかつとめることは許されていませんから、「かぐらづとめ」と「ぢば」は2つで1つのものです。ですからおやさまの50年のご生涯は、「ぢば」を人間に教えるためにあったと言うこともできると思います。この視点から考えてもおやさまの50年のご生涯の意味がよくわかります。おやさまが「この家を取り払いなさい」と言われたのは「ぢば」を縁の下から表に出すためでした。家が取り払われた後、そこにつとめを教える建物を建て、つとめを教えられた後に、初めておやさまは「ぢば」がどこにあったかを教えられました。「この家を取り払いなさい」と言われてから30年以上が経過していますが、おやさまはこの間辛抱強くお待ち下さったことになります。この息の長いご苦心を思うと、心の底から感謝の念が沸き上がってきます。

今から131年前の1887年1月26日、おやさまは90歳でお身をお隠しになりました。人間は115歳まで生きると日頃からおやさまがお話しされていたので、当時の方々は大きなショックを受けましたが、すぐに「本席」を通してご神意を伺いました。するとお身を隠されたおやさまご自身から「子供可愛い故、おやの命を25年先の命を縮めて、今からたすけするのやで、しっかり見ていよ。」とお返事がありました。人々はこのお言葉を聞いてやっと納得ができ、将来に向けての大きな希望が沸き上がってきたのです。

おやさまはお姿が見えないだけで、存命同様に人間をたすけるためにお働き下さることをこのお言葉は教えています。ですから、お身を隠された後今日まで131年間のおやさまのお立場を「存命のおやさま」と言います。天理教信仰の核になる教えですが、病気を治す「おさづけの理」が効くのは、「存命のおやさま」がお働きになっている証拠だと考えられています。

不思議な事ですが、おやさまが「神のやしろ」になられたのも26日で、お身をおかくしになったのも26日です。当時の方々は意味がよくわかりませんでしたが、お身お隠しから9年経った後、「26日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである。」という「おさしづ」がありその意味が明らかになりました。つまり天理教の立教おやさまのお身お隠しは、世界中の人間を助けるためという目的が同じだということです。ですから10月と1月は大祭と呼ばれ、他の月と区別されています。

陽気ぐらし」は人間創造の目的だと教えられていますが、立教から181年経ってその目的は実現されているでしょうか。現実の世界を見ると疑問に思えて来るのですが、私はそのバロメーターは人間の寿命が、おやさまが教えられた115歳にどれだけ近づいているかだと考えています。おぢばに一番近い国は日本ですが、日本には去年100歳以上の方が6万7842人おられ、過去47年間連続して増加しているそうです。約1700人に一人の割合です。このまま行くと2050年には53万2000人になり、約200人に一人の割合になると考えられています。このことから少しずつですが人間は確実に陽気ぐらしに近づいていると私は確信しています。そしてこのことも、おやさまが存命でお働きになっている証拠ではないかと考えています。

天理教には人間創造のお話があります。このお話の中に、親神様によって創造された人間を胎内に宿し、産み下ろされた母親の役目を担った方が出てきます。人類の母親になった方ですが、この方がお身を隠される時「これまでに成人すれば、いずれ5尺の人間になるであろう」と言われたと書かれています。天理教ではこの人類の母親になった方がおやさまだと教えられていて、「5尺の人間」は陽気ぐらしができる人間という意味だと思います。このことから思案すると、人間はいつか必ず陽気ぐらしができるようになるとおやさまが保証して下さったことになります。その日の到来を信じて、お互いに助け合いながら毎日を心明るく陽気に過ごして行きたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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