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2017年3月月次祭神殿講話

飾東巴里出張所長 角本よしの

皆様のほとんどが、我々の造り主である親神様から頂く「お手引き」という言葉をご存知だと思います。この言葉は、おぢばで初席を受けさせて頂く前に言わせて頂く「別席のお誓いの言葉」に出てきます。

私は18歳の時に四年半の間、日本に滞在させて頂きました。この別席のお誓いの言葉の中には、どのようなお手引きを頂いて親神様を知り、その思し召し、つまり天理教の教えを聞かせて頂いたのか説明させて頂く部分があります。お誓いの言葉の時に私はもちろん親から教祖の教えを知る事が出来たと言わせて頂きました。

私の両親は天理教の布教師で、毎日朝・夕のおつとめをつとめさせて頂く事が当たり前の生活で育ちました。なので、幼い頃から、「おてふり」の歌や朝・夕の「をふでさき」の拝読の意味がよく分からない中でも、どこか大切な事なんだろうなと思っておりました。しかし、私は身上で苦しんでいる方や、自分自身にもおさづけを取り次いでくれる両親の姿に感嘆(かんたん)しておりました。親におさづけを取り次いでもらった後はいつも楽になっていたからです。また、いつ、どこであろうと関係なく、人が人の助かりを願う姿、私はその真剣に人の助かりを祈るという姿に感嘆していたのだと思います。

じつは、この「人をたすけたら我が身たすかる」というのが天理教の教えの根本的な部分なのです。

つまり、陽気ぐらしというのは、自己中心的な陽気ではないという事です。自分たちの願いが叶わないからと言って、神様に不平(ふへい)を言い続けていては、親心あふれる親に愛情が足りないと非難(ひなん)しているようなものなのです。周りのせいにする前に、まずは自分自身に「私は本当にできるだけの事をやったのか?」と問い掛けるべきなのではないでしょうか。

この頃はまだ、今程別席を運ばせて頂く大切さを分かっていなかったのだと思います。外国から来たという事で、九回の席をたったの二週間で運ばせて頂き、最終的におさづけの理を拝戴させて頂きました。全て無事に運ばせて頂きました。そして、おさづけを拝戴させて頂いた直後に、飾東大教会の前奥様から「よふぼくにならせて頂いたんやから、しっかり人様のおたすけに励まさせていただきや」と言われました。

先ほどご説明させて頂きましたように、私は親がおさづけを取り次がせて頂く姿に感嘆しておりましたが、一旦18歳になっておさづけの理を拝戴させて頂いたばかりの時は、おさづけに対してまだまだ未熟で遠慮(えんりょ)がの気持ちであった私でした。

そして、おさづけ拝戴から少し時間がたった頃、私はまだ消極的(しょうきょくてき)な感じでおさづけを取り次がせて頂ける機会を待つばかりでした。時々おさづけを取り次がせて頂ける機会だと気づくまでに一度、また数回機会を見逃したり、またはおさづけの取り次ぎを提案する為の勇気を出し切るまでに時間が掛かってしまったりもしました。

元々引っ込み思案で内気な方なので、一歩々々と少しずつ歩んで行きました。そして段々自分自身が自分からおたすけに向かって、おさづけの取り次ぎを求めている自分に気づきました。

教祖をふでさきにこのようにお教え下さっております。

しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
なにゆハいでもしかとうけとる三、38

口さきのついしょうはかりハいらんもの
しんの心にまことあるなら三、39

教祖は、「本当にたすけ一条の心であるなら、何も言わずとも、神はその心を受け取る。しんの心に誠さえあるなら、口先のついしょうなどは不要である」(「おふでさき通訳」芹澤茂先生、73ページ)と仰っておられます。

私は天理教校専修科という学校に二年間通わせて頂きました。教会本部の朝づとめから一日が始まり、午前中は教理の勉強、そして午後からはひのきしんをさせて頂いておりました。

朝は朝礼の前に少し時間がありましたので、その時に学生の間で身上持ちの人におさづけの取り次ぎ合いをさせて頂いておりました。そこから、私は右足の痛みに悩む自分と同じ組の子と仲良くなりました。あまりにも痛みがひどい為、車椅子で登校しておりました。

何度も彼女の車椅子をクラスの子達と交代で押した事を思い出します。そして、仲良くなってからは、午後のひのきしんを終えてからいつも一緒に教会本部に参拝に行かせて頂き、おさづけを彼女の足に取り次がせて頂いておりました。冬の時期は特に足の痛みがひどかった事を思い出します。そして、冬のある日に、毎日のようにおさづけを取り次がせて頂いていたのですが、取り次いだ後に彼女が笑顔いっぱいで、「暖かいぬくもりを感じたわ!本当に気持ちが良かった!!」と言ってくれました。今でも、その言葉に深く感激した事を思い出します。本当になんとも言えない喜びで、幸せでした。そして、こんなに教祖の御守護を身近(みじか)に感じさせて頂ける機会を与えて頂いた事に心から感謝させて頂きました。そして、おさづけの尊さに改めて気づかせて頂きました。

教祖をふでさきにこのようにお教え下さっておられます。

たすけでもをかみきとふでいくてなし
うかがいたて々いくでなけれど三、45

このところよろつの事をとき々かす
神いちじよでむねのうちより三、46

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
人たすけたらわがみたすかる三、47

人が心の底から相手の助かりを祈る事こそが世界平和に繋がる第一歩ではないでしょうか。

世間では科学の発達が進み、具体的な物や科学論理に基づく事を求められます。しかし、我々の気持ちは科学論理、また計算通りになるのでしょうか。

教祖をふでさきに、

たん々となに事にてもこのよふわ
神のからだやしやんしてみよ三、40

にんけんハみな々神のかしものや
なんとをもふてつこているやら三、41

教祖はこの世界は神様のお身体であり、我々の身体は神様からの借り物であるとお教え下さっております。

また、おさしづには、

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。おさしづ 明治22年2月14日)

人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。おさしづ 明治22年6月1日)

このように、我々は神様に身体をお借りしておりますが、心だけは自由に使わせて頂いているのです。だからこそ、我々の心には色々な気持ちが潜(ひそ)んでおり、一日の中で心はコロコロ変わるのです。朝はお子さんが悪さをしたからと言って怒ったのにもかかわらず、一時間後には配偶者(はいぐうしゃ)が暖かいココアを作ってくれたと言って笑顔になったりします。つまり、我々の日常は自覚していない行いや癖でできていますから、自分の遣っている気持ちに気づかない事が多いのです。しかし、お互いは良い、または悪い癖を持っております。その悪い癖というのは、自分自身、そして周りの方々にも悪影響を起こすもので、教祖はそれを分かりやすく「心のほこり」としてお教え下さいました。それは、をしい、欲しい、にくい、かわい、うらみ、腹立ち、よくと高慢の事です。お気づきかと思いますが、この心遣いのほとんどは日常生活で簡単に使われやすく、使う回数が多いと多い程、周りの方とご自分の間の関係に何かしら影響を起こします。だからこそ、教祖は毎日我々が心のほこりを払うようにとおつとめをお教え下さったのです。

もしかしたら、みなさんも一度は、「何故ほこりを払う事が身体に良いのだろう?それよりも、健康的な食事をしたほうが良いのではないだろうか?」と思った事がありませんか?教理の難しさの一つは具体的に見えない事ですね。「心のほこり」と言われた時にみなさんにはどんなイメージが浮かびますか?例えば、もし虫眼鏡(むしめがね)を近づければ、お互いの気持ちが積み重なったほこりの形となってはっきり見えたとして、おつとめを勤めさせて頂けば、心からほこりが綺麗に消えていくようでしたら、それこそ理解しやすいと思う方もおられるかも知れません。

しかし、あるお話がこの疑問を解決してくれました。それは、飾東大教会の前会長様の「おさづけを取り次がれる方のためのお話の手引き」とう本でした。今日はその一部分を読ませて頂きたいと思います。

「先づ申し上げたいことは、私達は日頃、たとえマッチ一本でも、作った人がおいでだからこそ出来たのだと考えているのでございます。もしそうじゃないという人がございましたら、これは恐らく世間のわらい者でございます。ところが、そういって笑っているお互いが、自分の身体は誰につくってもらったのでもなく、偶然、勝手に出来て来たんだと思っていないものでございましょうか。それより又、自分の身体はお父さんとお母さんがつくってくださったのだと思い違いをしていられる方もあると存じます。

先づ、自分で自分をつくったのかと考えてみますと、十月十日の胎内住まいの間は勿論の事、三つ四つと歳を重ねて、おぼろげながら自分自身とあたりのことが分かって参ります処は、自分を作るどころか何も分かっていないのでございます。どのように育てて頂いたのかも存じません。

又、お母さんにつくって頂いたのかと申しますと、これもそうではございませんので、確かにお母さんのお腹から生んで頂いたことは産んで頂いたので御座いますが、お母さんにつくって頂いたのではございません。若しお母さんが子供をつくることが出来ましたならば、子供の顔形も希望通りによりよく致したいのが親心と申すものでございますが、そうもならぬものでございます。しかもお母さんは、我が子が胎内で育ちはじめていることすら、日数を重ねてはじめて気が付かれるぐらいのものでございましょう。これで、お母さんにつくって頂いたものでもないことだけはお分かり頂けたと存じます。

それでは、私達がお母さんの胎内に宿して頂いていた時には、お母さんは私達に何をして下されたのでございましょうか。我が身の養生(ようじょう)、身重(みおも)のたんのうは申す迄もございませんが、私達をお育て下さる為に直接して下さったことは、三度三度の食事を、子供の分まで頂かねば、と申してお上り頂いたことでございます。そのお上り頂いたものが原料(もと)となって、次第々々に目も耳もある人間が出来て参るのでございます。その種々な食べ物が、血となり、しかもあの細い血の菅と神経の一本一本の先々まで行きとどいて参るのでございます。この不思議なお働きをしていて下さるお方を、人間の親であられる神様、つまり親神様と申し上げて私達は信仰させて頂いているのでございます。あの美味しい牛肉もその主な原料(げんりょう)となるものは草と水でございます。この不思議な素晴らしいお働きの理が人間始め元の親であられる親神様でございますから、私達の心さえ親神様の御心にかないましたならば、身の内結構に御守護下されるのでございます。」

このようなお話しのお陰で疑問を解決させて頂く事ができました。また、日々欠かさず頂いている親神様の御守護は我々が自分たちで陽気に暮らさせて頂く為であるのだと改めて気づかせて頂きました。

このヨーロッパ出張所で過ごさせて頂く有難い時間が少しでも我々の人たすけの成人の道につながる事を願わせて頂きます。

ご静聴、誠にありがとうございました。

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