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2017年4月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

多くの宗教は救済、救いを説きます。しかし、一神教の教えを知っている方は、天理教でいう救いは違うと感じられるかもしれません。天理教では、「たすけ・たすかり」という言葉をよく使います。たすけとたすかりは違う言葉ですが、ここではフランス語のSalutの訳語として同義に扱います。

フランス語版おふでさきの注釈では、このように説明されています。

フランス語のSalutは、日本語ではたすけといい、非常によく使われる言葉である。天理教では、状況やそこに添える言葉によって特別な意味を持つ場合が多い。しかし、最も重要な考え方はたすけ一条であり、それは親神の唯一のお望みである、世界人類の物質的、人間的、精神的な救済を意味する。めずらしたすけは、「たすけ-Salut-」の無限の広がりを意味し、死からさえも解放されると説く。

「たすけ-Salut-」とは最終的に人間を「陽気ぐらし」、つまり神と人間の神人和楽の世界へと導くものである。

天理教事典にも同じような説明があります。要約すれば、たすけとは人間創造の目的でもある陽気ぐらしの実現であり、それはつとめによって人間が心を澄ますことで成就できるものである、ということです。

こうして見てみますと、お道のたすかりとは陽気ぐらしと深くかかわっていると言えます。陽気ぐらしをすれば、たすかりの道が見え、陽気ぐらしから遠のけば、たすかりも遠のくのです。しかし、陽気ぐらしはこの世で実現するものです。もしたすけが陽気ぐらしに集約されるのであれば、たすけは現世に限られたものになります。

ではまず、現世について考えてみます。おふでさきに、

このたすけどふゆう事にをもうかな
やますしなすによハりなきよにXVII-53

しんぢつの心しだいのこのたすけ
やますしなずによハりなきよふIII-99

このたすけ百十五才ぢよみよと
さだめつけたい神の一ぢよIII-100

これらのおふでさきは、矛盾しているようにも見えます。最初の二つは病まず死なず弱りなきようとお歌い下さっているのに対し、もう一つは115歳を定命と定めたいとおっしゃっています。先ほどのおふでさきの注釈でも、めずらしたすけは病まず死なずと教えられていました。

完璧な人間であれば、たすけも完全で、病気や老化、死からも解放されるでしょう。陽気ぐらしを営むことも問題ないでしょうから、その人は完全にたすかるということです。しかし、この世で完璧な人間などいるのでしょうか。いないでしょう。そもそも、完璧な人間の定義すら思いつきません。

親神様や教祖が、そんなことをご存じないわけありません。完璧な人間であれば死なないのですが、私たちはそうではないのです。ですから、親神様は115歳を定命とさだめたいのであって、それはあくまで目標であり、そこがゴールではないのです。もし115歳で死ねたら、それは親様もお喜びいただく一生だったということでしょうが、それより早く死んだからと言って悪いわけないのです。

ということは、完璧なたすけ・たすかりとは、陽気ぐらしが永遠に続くこと、という風にも言えます。そうすることで、現世的な世界を超えた、無限の救済の世界に入るのです。しかし、世のすべての人間が完璧ではない世界では、たすけ・たすかりもまた不完全なのです。少しショッキングな表現ですが、この考え方は天理教らしいと思います。お道にとってのたすけは、理想的な魂の平穏と同義ではありません。

これについて、有名な逸話を見てみましょう。

一四七 本当のたすかり

大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。

が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます。」と、願った。

すると、教祖は、

「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。

人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」

と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。

教祖はいさに、不完全なたすかりを喜んで、そこから因縁を悟れ、つまり人生を深く考えよとおっしゃいました。私たちは、ちょっと不都合があると、たすかっていないと思いがちです。大難が去ったら飛び跳ねて喜びますが、ちょっとした不快感を感じるとすぐに不満を持ちます。すぐに心の弱さを露呈するのが人間の性です。たすかりのもとになる喜びとは、非常に不安定なものなのです。ですから、陽気ぐらしとは、実現するものではなく、実現した上でそれを保つべきものなのです。

たすけやたすかりは、不安定な陽気ぐらしにつながっていますから、それを得るためには、常々陽気ぐらしを維持するための心づくりに励まなければなりません。気が抜けないのは大変ですが、たすけもたすかりも親神様の業とはいえ、天から降ってわいてくるものではありません。今日はお話いたしませんが、たすけ・たすかりの道を見つけるべく努力を続けるにあたり重要なのがおつとめになります。

たすけ・たすかりがそれぞれの陽気ぐらしに結びついているのであれば、それはみな一様に同じではないということになります。それぞれがそれぞれのたすかりを許されていると言えるでしょう。

天理教は非常に現実的です。日頃の行いによって、現世利益を求めます。現世利益と言えばあまりにも浅はかと思われるかもしれませんが、それもお道の重要な一面です。だからこそ、病気が治ることに大きな意味を見出しているのです。それがなければ、弱い私たち人間はこの信仰をしないでしょう。ですが、同時に、現世利益は、ある意味宣伝効果のような性質も持っています。もし天理教が一時的な病気の治癒にすがるばかりであれば、信仰自体も宣伝チラシのようにうすっぺらいものになるでしょう。おふでさきに、

たすけでもあしきなをするまてやない
めづらしたすけをもているからXVII-52

このたすけいまばかりとハをもうなよ
これまつたいのこふきなるぞやII-10

陽気ぐらしにつながるたすかりとは、代々受け継がれるものなのです。ですから、個人的な御利益や病気の治癒で満足していてはいけないのです。時空を超えて広がらなければならないのです。

病気が治るのはもちろん素晴らしいことです。しかし、病気や死が悪いものというわけでもありません。パーフェクトな人はいないのですから、人はみんな死ぬのです。死ぬことには、たすかりの道を次の命へつなぐ役割があり、そうすることで来世がよりよいものになるのです。

私たちの魂が不滅であるということは、たすけ・たすかりは次世代に伝えられるということです。この現世でのたすかりが不完全であったとしても、たすかろうと努力することは重要なのです。魂こそが生まれ変わりのたびにたすけ・たすかりを伝えてくれるものなのです。なぜなら、たすかりは喜びにつながっており、その喜びは魂に刻まれ、死後も次の生命へ伝えられるものなのです。

陽気ぐらしは、限りない可能性を秘めています。きりなしぶしん、果てしない喜びなのです。ですから、私たちのたすかりも、不完全であるがゆえに、かぎりなく、延々と広がり続けるものなのです。つまり、今日は昨日よりも助かっているし、明日は今日よりも助かる、という風にどこまでも素晴らしいものなのです。たすかるためには、毎日新しい喜びを魂に刻み続けることが大切なのです。魂はそうして喜びで輝きを増していくのです。そしてその喜びとは、周りの人も明るく輝かせるものなのです。

陽気ぐらしが永続すべき平穏な状態とすれば、お道のたすけ・たすかりとは静かな安らぎというよりも、親神の親心に導かれて進む魂の自然な歩みとでもいえるでしょうか。助かった人とは、無理をせずに前へ前へと進んでいける人間で、それが死の間際であっても次の生まれ変わりに向けて歩みを進められる人だと言えるでしょう。たすけ・たすかりとは、極楽の話ではなく、命そのものの問題なのです。

ご清聴ありがとうございました。

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