Tenrikyo Europe Centre
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明和パリ布教の家担当 小林弘典
今から「陽気ぐらしへの決断」と題して、お話をさせていただきたいと思います。「決断」と言いましても、人生の節目においてなされる大きな「決断」のことではありません。今日お話する「決断」は、私たちが日常生活の中で行う些細な「決断」についてです。
私たちは普段、意識して、あるいは、無意識に大小様々な非常に多くの決断をしています。そして、それら一つ一つの決断によって、次の決断のための選択肢は限定されることになります。また、一つの決断は次の決断に影響を与えることになります。
わかりやすい例で見てみましょう。ある日、昼ごはんをどうしようか考えています。そこには、多くの選択肢が存在します。いろいろ考えた末、外で食べることにしました。次にどの店に行こうかと考えます。いろいろ考えた末に、あるピザ屋に入りました。ピザ屋に入れば、どの種類のピザを食べようかと迷います。また、飲み物は何にしようかと考えることになります。このようにして、一つの決断によって、次の決断のための選択肢は限定されていきます。
では、その日の夕食はどうでしょうか。昼にピザを食べたから、夜は別のものにしようと考える人が多いではないでしょうか。もし、昼はうちでサンドイッチを食べていたらどうでしょう。その後の選択肢も、決断も異なるものになるでしょう。このようにして、一つの決断は次の決断に影響を与えていきます。
次に、自分の決断が与える他者への影響について考えてみましょう。私たちの決断は常に他者の決断に影響を与えています。言い換えれば、私たちの決断は、他者の決断に左右されています。自分がしようと思っていたことが、他者の決断によってできなくなることは多々あります。他者の決断によって、自分がしたくないことでもしなければならないこともあるでしょう。
先ほどの例を再び持ち出すと、ピザ屋へ行きましたが、あいにく満席だったということも考えられます。そこで、昼は隣のカフェで食べることにしました。ピザ屋へ行くのと、カフェに行くのでは、選択肢は異なります。そして、そこで食べたものは、その日の夕食にも影響を与えます。では、ピザ屋の客のだれかが違う店に行っていたらどうでしょうか。あるいは、席が空くまで待つという決断をした場合はどうだったしょうか。
昼をピザ屋で食べても、カフェで食べても、それ自体は人生には大きな影響はないように思われます。しかし、そのような些細な決断の蓄積で人生が方向づけられることもないとは言えないのではないでしょうか。
人生には、大きな決断を迫られることがあります。では、その決断を迫られるに至った経緯はどうだったでしょうか。例えば、結婚。最初の出会いは、レストランやバーだったという方もいるのではないでしょうか。では、なぜその時、その場に行ったのでしょうか。このように過去を辿っていけば、無数の自分と他者の決断があったことがわかります。
私が幼いころ、何度か引越しをしました。理由は詳しくは知りませんが、いずれも両親の決断であったことは間違いありません。引越しした場所はいずれも同じ町内で、祖母が通っていた天理教の教会まで歩いて行けるところでした。私が幼いころから教会へ足を運ぶことができたのはそのおかげだと思います。もし、教会から遠く離れた町に引っ越していたら、今私はここにいないかもしれません。では、両親が引越しを決断した理由は何だったのでしょうか。このように選択肢と決断を考えていけばきりがありません。
また、よく言われることですが、私たちはいつ、どこで生まれるかということは自分自身では決断できません。生まれたところがどんなところかで、私たちの選択肢は大きく異なります。生まれた時がどんな時代、社会であったかによっても、選択肢は限定されます。また、たとえ同時代に生まれたとしても、どのような両親のもとに生まれるかにもよるでしょう。
私には3人の息子がいます。いずれもフランスで生まれました。3人の息子がフランスで生まれたということは、私と家内の決断による影響を大きく受けていると言えます。そして、それぞれの決断は多くの方の決断の影響を受けています。また、私たちそれぞれの両親、祖父母から先祖代々にわたり、それは同様です。
このように考えると、一人の些細な決断は、時と時間を超えて大きな影響を及ぼす可能性を秘めているということが言えます。今行った小さな一つの決断、今発した一言が、100年後の世界を大きく変えることもある、というと言いすぎでしょうか。
ここまでお話ししたことは、信仰の有る無しによらず、皆さんにご理解いただけると思います。ここからは、信仰を中心にした話に移らせていただきます。
親神様はおやさまを通して、なぜこの世人間を始めたのかをお教えくださいました。「人間が陽気に暮らすのを見て神もともに楽しみたい」というのが、その思し召しです。ですから、私たちの信仰の目的は、その思し召しに沿うというところにあります。
人は何のために生きているのでしょうか。言いかえれば、私たちの存在意義は何でしょうか。
多くの人がこの問いに対する答えを求めてきました。しかし、この教えを信仰する私たちには、その答えは既に出されています。それは、この世人間をお始めくださった親神様の思し召しである「神人和楽の陽気ぐらし」を実現することです。
しかし、答えが出されていても、即座にそれが実現されるわけではありません。そこに到達するには、「陽気ぐらしへの決断」が不可欠であるということになります。
では、「陽気ぐらしへの決断」とは、どのようなことなのでしょうか。この点について考えてみたいと思います。
「陽気ぐらし」を支えるのに不可欠な三本の柱は、「感謝」「慎み」「たすけあい」です。結論を申せば、この3つの要素が含まれている決断が、「陽気ぐらしへの決断」ということになります。
私の住むアパートは国道沿いにあります。交通量が多いので、車の騒音も激しいです。 でも、それには慣れているので特に問題はありません。しかし、どうしても慣れないのがクラクションの音です。平日の朝は、渋滞しているときがよくあります。窓から眺めていても気の毒になることがあります。そんな時に、あちらこちらからクラクションの音が鳴り響きます。気持ちはわかりますが、決して心地よいものではありません。
この場合、クラクションを鳴らすのは、渋滞に巻き込まれた苛立ちや、腹立ちからでしょう。前の車に早く進めとばかりに急かしているのかもしれません。そこには、「感謝」の気持ちも「たすけあい」の気持ちも感じられません。朝食を取っている私たち家族にも、その苛立ちが伝わります。家族全員が理由もなく苛立っているようにも感じられます。
もちろん、渋滞に巻き込まれている方が全員クラクションを鳴らしているわけではありません。おそらく「慎み」の心のないほんの一部の方でしょう。自分のクラクションの音が周囲にどんな影響を与えているのか、道沿いに住む多くの住民にも苛立ちを与えているところまでは、考えが及んでいないでしょう。
一方で「感謝」「慎み」「たすけあい」にもとづく決断ができたらどうでしょうか。渋滞という好まざる状況の中においても、お互いが譲り合えば状況は変わります。無用なクラクションを鳴らすこともなくなるでしょう。周囲に不要な苛立ちを与えることもなくなるでしょう。こういった些細なことが、「陽気ぐらしへの決断」ではないかと思います。
おやさまは大勢の方々の身上や事情をおたすけになりました。ところが、そのたすけと教えが広まるにつれ、周囲から多くの妨害を受けることになりました。ついには、国家からも弾圧されることになり、何度も警察に拘引されました。
しかし、そういった中においても怒りを露わにすることはありませんでした。警察がおやさまを拘引に来ても「節から芽が出る」とか、「埋もれた宝を掘り出しに来た」と言って、いそいそと警察へ出かけられたと伝えられています。
ある時は、拘引に来た警官に食事をお出しするように、側にいる人に言われたこともありました。またある時は、おやさまが監獄の中に入れられているとき、見張りの警官にお菓子を買ってあげようと申し出られたこともありました。
これらは、私たちにお示しくださった「陽気ぐらし」の雛型の一つではないかと思います。もしおやさまが警官への怒りを露わにしていたら、どうなっていたでしょうか。
冒頭にも申しましたが、今日お話ししているのは、人生を左右するような大きな決断ではありません。日常生活の中の些細な決断です。私たちは限られた選択肢の中で日々無数の些細な決断をしています。その積み重ねによって、今この瞬間があります。
一つの決断は、時間と空間を超えて多くの方に与える可能性を秘めています。「感謝」 「慎み」「たすけあい」にもとづく「陽気ぐらしへの決断」は、種まきとも言えます。小さなをごみを一つを拾っても「陽気ぐらしへの決断」となり得る場合もあります。一方で、大きな石を動かしても、そこに「感謝」「慎み」「たすけあい」の心がなければ、「陽気ぐらしへの決断」とは言えません。
過去を変えることはできません。しかし、一つの些細な決断により未来を変えることは大いに可能です。陽気ぐらしは、目的地であると同時に、そこに向かう行程でもあります。「今がこの世のはじまり」ともお教えいただいています。今がどうであれ、「陽気ぐらしへの決断」ができれば、そこは、既に陽気ぐらしであるとも言えます。そうなると、 全ての過去は陽気ぐらしへ向かうための礎へと変わっていきます。
決断については、もう一つ大切なことがあります。日常生活の中の些細な決断は習慣化する傾向があります。つまり、同じ状況の中では常に同じ決断を下すようになるということです。そうなると、言動が決断に先行するようになります。これが、長い時間と繰り返しを経て、いわゆる「癖」とか、「性分」というものを形成します。
先ほどの車のクラクションの話もそうではないかと思います。おそらく、クラクションを鳴らす方は、渋滞に巻き込まれたときに、そうすることが習慣化しているのでしょう。自分もこのようにして、「癖」や「性分」で人を苛立たせたり、人に不快感を与えていることがあるのではないかと、クラクションの音を聞きながら、ふと考えさせられることがあります。
この「癖」「性分」が「陽気ぐらし」へ向かうものであれば、理想的です。しかし、もしそうではない場合は、教えに照らし合わせて改善する必要があります。あるいは、親神様の思し召しに、より近づけるように修正していかなければならないと思います。
今下そうとしている決断の中には、「感謝」「慎み」「たすけあい」の気持ちがあるでしょうか。今、発しようとしている言葉の中には、「感謝」「慎み」「たすけあい」の気持ちがあるでしょか。
月に一度の月次祭は、平素「陽気ぐらしへの決断」ができているかどうか再確認する場であるとも言えるのではないでしょうか。
この夏は、ヨーロッパ出張所において天理教の集いが開かれます。また、7月の月次祭の翌日からはヨーロッパセミナーが開催されます。こういった機会は「陽気ぐらしへの決断」ができるようになるための絶好の学びの場ではないかとも思います。
さらに、来週はチャリティーバザーが開催されます。「陽気ぐらしへの決断」を実践するまたとない機会だと思います。
私たち一人一人が、小さな「陽気ぐらしへの決断」積み重ね、社会や後世に「陽気ぐらし」の種がたくさん蒔けることを願いつつ、本日のお話を終えたいと思います。
ご清聴、ありがとうございました。