Tenrikyo Europe Centre
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内子パリ布教所長 松川高明
只今、3月の月次祭を賑やかにつとめ終えさせていただけましたこと、誠にご同慶に存じます。皆様方にはお寒い中、またお忙しい中を御参拝いただきまして誠に有り難うございます。本日の講話の御命をいただいておりますので、しばらくお付き合いいただけますようお願い申し上げます。
「ふるさと」、「ふるさと」という言葉を聞いて、皆さんは何を想像されるでしょうか。自分が生まれ育った土地、両親や家族の顔が思い浮かび、懐かしい思い出と共に、しばし郷愁にひたるのではないでしょうか。そして「ふるさと」から遠く離れていればいるほど、また、長く帰っていなければいないほど、「ふるさと」に帰りたいという思いにとらわれるのではないかと思うのです。
では、なぜ私たちは自分の生まれ育った土地、「ふるさと」を恋しく思い、その土地に帰りたがるのでしょうか。それは「ふるさと」が、その人にとって、あたかも母親の胎内に居るような生命の安らぎを覚える安住の地だからではないでしょうか。「胎内回帰」という言葉があるように、人は本来、生まれる前の居心地の良かった母親の胎内に、常に帰りたいという潜在的欲求をもっているそうであります。幼児がかくれんぼを好むのも、砂場でトンネルを作ったりするのも、その潜在的胎内回帰への欲求を満たしているからだと言われています。つまり、「ふるさと」へ帰るというのは、常に安全な場所である、この母親の胎内に回帰するというようなことではないかと思うのです。
もちろん、人によっては自分の「ふるさと」という安住の地を持たない人も、中にはおられるでしょう。幼少時代に父親の転勤などで何度も引っ越しを繰り返し、「ふるさと」と呼べる場所を持てなかった人などがそうでしょうし、また、たとえ「ふるさと」を持っていたとしても、その懐かしい山河は、地域開発という名の下に自然が破壊され、子どものころの美しい原風景が消失してしまい、「ふるさと」の喪失感を味わっている人は多勢いらっしゃるのではないかと思います。しかしながら、自分の固有の「ふるさと」を持つ人も持たない人も、共通の「ふるさと」を私たち人間は持っているのであります。それが人類の「ふるさと」と呼ばれる、親里ぢばであります。
すでに、皆様は何度もお聞きになっているかと思いますが、このおぢばは、親神天理王命が紋型無い所より人間をお創め下された元の場所であり、その元なる親である親神天理王命のお鎮まり下さる所であり、ご存命の教祖がお姿はなきながらも、存命で世界だすけのために、日夜お働き下されているやしきであります。
元初まりの話で言えば、九億九万九千九百九十九人の子数を三日三夜に宿し込まれた、いざなみのみことの身の内のほんまん中、へその地点がぢばであります。そして、その後、産みおろしまで、三年三月留まっておられたところが元のやしきであります。
これを整理しますと、ぢばは次の三つの意味を持ち合わせております。
一つには、原初、親神が人間世界を創造された元初りの中心、人間宿し込みの中心地点であるということ。二つには、教祖が親神天理王命の神名を名付けられた地点、すなわち親神天理王命が鎮座されます、天理教礼拝の中心地点であるということ。三つには、その証拠として、かんろだいが据えられる地点であるということです。
つまり、この親里ぢばは、全人類の故郷であると共に、人類の本元の親・真実の親である教祖がご存命でお働き下され、私たち人間を陽気ぐらしへとお導き下さっているところであります。
天理教教典には、次のように説明されております。
『親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。
ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。
実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであって、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理を受けて、初めて成就される。』
ここで、先程の「ふるさと」の話に戻りますが、「ふるさと」に"帰る"ためには、いったん"出る"ことを強いられます。そして"出た"ものにとって、"帰りたい"という本能は、やはり安全の地を求めるからに他なりません。極端な例を挙げれば、宇宙飛行士などはもっとも分かりやすい例になるでしょう。宇宙空間を旅する宇宙飛行士の目には、この母なる大地である地球はどのように映るのでしょうか。無事に任務を終えて、地球に帰還する宇宙飛行士にとって、この星は、まさに中空にポッカリ浮いた、懐かしい「ふるさと」であったに違いありません。彼らの場合は、この「ふるさと」に帰れないということは、すなわち「死」を意味するので、その胸中には常に「死」への不安が付きまとっていたはずです。ですから、事故もなく無事に地球に帰還できたときの喜びは計り知れず、正に生きているということを肌身に沁みて実感したことだろうと思います。
このように"帰る"という言葉は、"出る"という行為があって、はじめて意味を持つのものでありますから、ただ単に「ふるさと」に"居る"ということだけでは、「ふるさと」に"帰る"という本当の意味は実感できないと思います。
私事で恐縮ですが、私は15才の時、高校進学のため初めて自分の生まれ育った「ふるさと」を"出"ました。それから、約12年間は自分の故郷から離れて生活しておりました。といっても、この間まったく故郷に帰らなかったわけではなく、年に何回かは帰っておりましたので、それほど寂しいと思ったことはありませんでした。それでもまだ「ふるさと」を"出た"ばかりのころは、若かったせいもあり、故郷が恋しく、家族や友人に会いたいと思ったものでした。このときに私が強く感じたことは、帰るべき自分の「ふるさと」があるという有難さ、そしてそこには自分の帰りをいつも楽しみに待っていてくれる人がいるという喜びでありました。今はこうして遠く離れて住んでおりますので、なかなか頻繁に帰るということはかないませんが、それでもたまに帰った折りには、教会の皆さんや、家族や友人が大変喜んでくれ、帰ってよかったといつも思います。
同じように、人類の「ふるさと」であるおぢばには、私たちの帰りをいつも楽しみにお待ち下さっている方がいらっしゃいます。それが私たち人間の真実の親であるご存命の教祖であります。教祖は世界中の人間が、人類の「ふるさと」である、このおぢばに帰って来る日を、いまかいまかと楽しみに待ち望んでおられるのであります。
私たちの祖先はすべてこのぢばで宿し込まれ、等しく産みおろされた兄弟であります。そしてだんだん成人していくと共に、この「ふるさと」を出て、私たち人間は何代も何代も代を重ねてまいりました。この間、親神様のご守護によって、私たちは知恵を授けていただき、そのおかげで科学技術の発達をはじめ、人類社会は目覚ましい発展を遂げてまいりました。しかし、一方では知恵の使い方を誤り、環境破壊や、戦争などといった、親神の思召に反する行いを繰り返してきたことも事実であります。これから、いったい人類はどこへ向かおうとしているのか。私たち人間の本元の親・真実の親を知らない人たちは、いたずらに闇路の中をあちこちさまよわざるを得ない気がしてなりません。今こそ、私たちは母親の胎内ともいうべき安住の地である、人類の「ふるさと」、おぢばに帰る時が来ているのではないでしょうか。
おぢばに"帰る"ということは、人類生命の源に帰るということを意味します。枯渇しそうになった魂は、このおぢばで元の親・実の親である親神天理王命とご存命の教祖に直接に出会うことによって、まるで充電されたかのごとく、新たなる生命力を与えていただき、勇みの実感を得ることができるのであります。それはちょうど、植物が根から養分をもらって、生き生きと躍動する姿に似ているかもしれません。
そして、このおぢばでつとめられるかぐらづとめを拝することによって、私たちは生きながらにして生まれ替わらせていただけるのであります。このかぐらづとめは、十人のつとめ人衆が、ぢばの中心に据えられた「かんろだい」を囲んで、元初まりの人間世界創造に際しての親神様のお働きを手振りに表して勤めることによって、元初まりの親神様のご守護を今に頂き、よろづたすけの成就と陽気ぐらしへの世の立て替えを祈念するものであります。人間を宿し込まれ、育てられ、教祖の子供として産みおろされた「ぢば」であるからこそ、勤められるつとめであります。私たちはこのつとめによって、いかなる身上や事情もたすけていただけるのであります。
さて、ここで少し話は変わりますが、世界には多くの宗教が存在し、それぞれに大なり小なり聖地や霊場と呼ばれる聖なる場所を持っております。たとえば、キリスト教においては、エルサレム、バチカン市国、サンティアゴ・デ・コンポステラが世界三大聖地と呼ばれております。そして、同じくイスラム教のそれは、メッカ、メジナ、エルサレムであり、インド仏教では、ルンベニ、ブッタガヤ、サールナート、クシーナガラなどがそれにあたります。皆、神・仏・聖人などに縁のある神聖なる土地であります。
古来、人々は祈りを捧げるために、これらの聖地や霊場を巡る巡礼の旅を繰り返してきました。それはある意味で、いつ帰れるかわからない死出の旅立ちであり、また苦行、修業の旅でありました。あの交易・経済の道として有名なシルクロードも、もともとは巡礼の道であったそうです。東と西からそれぞれ、聖地巡礼のために砂漠の過酷な道を旅してきた人々がオアシスで出会い、そこに都市が誕生し、物々交換のための市場が栄え、結果的に交易の道となっただけなのです。
おもしろいことに、この聖地巡礼という行為は次の二つに分類することができます。それは、直線型と円周型であります。たとえば一神教と呼ばれる、キリスト教やイスラム教などは、エルサレムやメッカという聖地を直線的にめざします。それに対して、多神教宗教である仏教やヒンズー教などは、聖地や霊場を円を描くように巡り歩くのです。フランスには、南仏にルルドーというカトリックの有名な聖地がありますが、この巡礼方式は明らかに前者の直線型であります。日本でも西国33ヶ所巡りや四国八十八ヶ所の遍路という有名な巡礼がありますが、これは後者の円周型であります。
さて、人類の「ふるさと」であるおぢばも、たしかに聖地には違いありません。先の分類で言えば、完全な直線型でありましょう。ただ一つ違う点は、ぢばは人間を創造され、十全の守護をもって今なおご守護下さっている元の神・実の神である親神天理王命がお鎮まり下さるところ、そして私たち人間の真実の親である教祖がご存命でいらっしゃるところであります。ですから、私たちがおぢばに帰るということは、教祖の子供として、親を慕って、親にお会いするために帰るということであります。教祖に私たちの成人した姿をご覧いただくために、おぢばに帰らせてもらうのであります。教祖は子供たちみんながこのおぢばに帰って来るのを、いつも楽しみにお待ちくださっているのです。
毎月26日には、このぢばで世界だすけのためのかぐらづとめが勤められます。この日には、日本国内はもとより遠く外国からも大勢の子供たちが親を慕って帰って来ます。日本から約5700キロメートル離れたハワイに住んでいる私の知人も、もう何年も毎月欠かさずおぢば帰りを続けております。親に会いたい一心で、そしてつとめの理を受けて生まれ替わらせていただくために、あるいは身上や事情をたすけていただくために、みんな帰らせていただくのであります。
皆様もご承知のように、来年は教祖が現身を隠されてより120年目に当たり、大きな節目の年を迎えます。教祖は子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて御身をお隠し遊ばされましたが、存命のまま恆に元のやしきに留まり、扉を開いて日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に尽きぬ親心をそそがれているのであります。
おさしづのお言葉に、
『さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで/\。
日々の道を見て思やんしてくれねばならん。』(明治23年3月17日)
とあるように、教祖は御在世当時同様、変わらず、世界たすけにお働き下さっているのであります。
この年祭の大きな慶びの時旬に、ここヨーロッパから一人でも多くの人が、家族・友人・知人を誘って、人類の「ふるさと」であるおぢばに帰らせていただきましょう。そして、ご存命の教祖にお会いし、私たちの成人した姿をご覧いただき、お喜びいただけるよう、共々に努めさせていただこうではありませんか。
ご静聴、誠にありがとうございました。