Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2016年10月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

私たちは、只今、10月の大祭をつとめさせていただきました。

この10月の大祭をつとめる意義としては、毎月の月次祭のように、個々の身上事情の助かり、また世界人類の平和を祈念することに加えて、1838年10月26日の立教の元一日に思いを馳せるということがあります。

今月、立教の日におぢばで、甘露台を囲んでつとめられるおつとめの理を受けたおつとめを、本日、ここヨーロッパでも結構に勤めさせて頂き、皆様と共に親神様の思召し、教祖の親心にお応えするような日々を歩む決意を新たにさせて頂きたいと思います。

「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり、このたび、世界いちれつをたすけるために天下った。みきを神の社に貰い受けたい」

とは、立教の時、親神天理王命様が教祖の口を通して、初めて人間に伝えた言葉です。ご神言の中で、親神とは、この世を作った神ばかりでなく、今も人間を守護している神であり、天下った理由は、「せかいいちれつをたすけるため」、つまり、私も、みなさんがたも含めた、全ての人を助けるためであると宣言されました。 このたすけるとは、我々を「陽気ぐらし」ができるように導くという意味であることはお分かりかと思います。

この言葉を聞き、教祖の夫、中山善兵衛様は、「みきを神の社にもらいうけたい」という親神の申し出を、初めは断固として断ったものの、数日間に亘る親神との問答の末、最後には受け入れました。

さて、この話のように、もし、今、皆さんが善兵衛様のような立場に立たされたとしたら、どのような対応をなさるでしょうか。

答えは人によって、様々なでしょうが、ありがたい親神の申し出なので、直ぐに受け入れるという方もおられるかと思います。

実際、当時の善兵衛様に比べれば、今の私たちには、親神様のこの言葉も信じ易いと思います。なぜなら、天理教の始まりから既に170年以上経った現在、日本をはじめ世界に広がる天理教の発展の姿が、この言葉の真実性を高める働きをもっているように思えるからです。

そう考えると、まだ親神様から何も見せてもらっていない善兵衛様にとってみれば、嘘とも本当とも知れないこの言葉を信じるには、大変な決意が必要であったことが良く分かると思います。

おふでさきに、

なにもかも月日ゆう事しかときけ
心にさだめつけた事なら12号18

それよりもみのうちなやみさらになし
だん々 心いさむばかりや12号19

とあります。

現在、ヨーロッパの教勢は、他の地域と比べても、決して多いとは言えないものがあります。それだけに、このヨーロッパで、確固たる信仰決意をもって歩むまでには、多くの時間が必要だと思いますし、また、たとえ代を重ねた信仰者のなかには、教友の少ない地域で生活されているうちに、周りからの影響に押され、親神様、教祖の存在が遠くなることもあるでしょう。

もしも、今後、皆さんの中で、このような先の不安から、この道を歩み続ける元気がなくなりかけたときには、「今は種々と心配するは無理ないけれど、20年、30年経ったならば、皆の者、成る程と思う日が来る程に。」との親神様のお言葉を聞き、天理教の最初の信者ともいえる善兵衛様のとられた信仰決意を思い返して頂きたいと思います。

さて、親神様は、我々を陽気ぐらしに導くためにお現われくだされ、教祖は、地上における親神として、当時の人々に親が子供へ無条件に注ぐような慈しみ、愛情を掛けながら導いていかれました。

そのなかで、親神の思し召しに沿い、教祖が我々に教えてくださった人間本来の生き方の核となるものとは、何だったのかと考えたとき、私の頭に浮かんだ文字は、「感謝」の一言でした。「恩をしったら難儀ささん、なれど恩を忘れるから落ちんならん」と教祖のお言葉にも教えられている通りです。

親神様に対する「感謝」そして親、兄弟、子供を始め、親神様が引き合せて下さった全ての人に対する「感謝」です。

感謝の気持ちの中にあるときには、必ず 心に「喜び」が生れます。この「喜び」こそが、親神様が人間に「陽気ぐらし」をさせたいと創造した元の因縁に由来する神から人間の特性として与えられた根源的とも言える「喜び」だと思うのです。「陽気ぐらし」の「陽気」はこの喜びのことで、

みかぐらうた10下り目4つにあります

「よくにきりない泥水や こころ澄切れ 極楽や」

とのお歌に関連する「澄切った心」とは、「感謝に満ちた心」とも理解出来ると思います。

感謝から、「低い心」。欲や高慢心に囚われない「慎み」の心が生まれます。

また、感謝から、お互いを思い合う心、「たすけあい」「一手ひとつ」の心が生まれるのです。

ある有名な考古学者リチャード・リーキーは、わたしたちを人間たらしめているものこそ、恩義のルールであり、「我々が人間であるのは、祖先が食べ物や技術を分けあうことを、恩を返すというすばらしいネットワークの中で学んできたからである」と述べています。

天理教の信仰は、何がどう変化していくのが、正しい通り方なのかと問われれば、心のなかに「感謝」の気持ちが増えてきているか、否かが、ポイントになると思うのです。

勿論、その感謝は、何か特別に良いことがあったときにだけに感じる一時的な気持ちを指しているのではなく、いつでも、どのような状況の時にでも、自然と沸き上ってくる状態のことです。

その為に、教祖は、おつとめや元の理、かしものかりものの教えをはじめ、因縁などのご教理を伝えて下さいました。またその教えの真実を我々が納得でき、実行出来るように、不思議なご守護を表し、ひながたを残して下さいました。

また、

水と神とは同じ事、心の汚れを洗いきる5下り目3つ

と、みかぐらうたにあるように、教祖は、私たちに、毎日朝晩には、おつとめをつとめ、神様を帚として、心に積った埃を払うよう教えられました。

これについて、私が、個人的に持っているお働きのイメージは、人間創造を再現するおつとめのなかで、感謝の気持ちで、南無天理王と神名を唱えるとき、親神様より魂に授けられた感謝の泉から神水が噴き出し、心にこびり付いている埃などを徐々に洗い流し、やがて、心の表面には、いつも綺麗な感謝の水が絶えず流れているというものです。

また、頭では分っていても、感謝の心が、なかなか沸かない人に対しては、他人から感謝されたい、自分が喜びたい心というような自己への執着心をまずは、無くすこと。その上で、感謝できる理、喜べる理を作らせてもらうことが大切です。

その理作りの為に一番良いのが、困っている人への「おたすけ」で、とにかく、他の人が喜ぶようなことを進んで実行させてもらわなければなりません。

そうして、人に感謝され、喜んでもらう種を蒔けば、親神様が心に入り込んで。何事にも感謝できる心に立替えてくださるのです。

私たちは、惰性に流された信仰生活を送ることに注意を配り、ときに応じて、自分の心のなかには、今、どの位の感謝の心があるのかを見つめながらこの道を歩むことが大切です。

そして、もし感謝が足りないようであれば、おつとめを感謝の気持ちでつとめ、人を喜ばせる努力の再点検をして下さい。

教祖のひながたを信じ、地道にこの二点を実行していけば、どんな人の心にも変化が訪れ、身体や人間関係も改善され、より豊かな生活が送れるようになると思います。

最後に、本年の1月26日、教祖130年祭が勤められてから、すでに8か月が経ちました。現在、私たちは、教祖がおつけ下さった道の歩みの一つの節目を過ぎたところと言えます。しかし、勿論、これからも私たちが存命の教祖に導かれ歩む陽気ぐらし実践の道。そしてその喜び、ありがたさを人々に伝えていく道、たすけ一条の道も歩みは続きます。

実際、私としては、この節目の通過を2020年の出張所開設50周年に向けての新しいスタートと考え勤めていきたいと考えています。

そのためにも、これから、みなさんとみなさんの所属の教会、出張所、またこちらにあります各教会、布教所が、一手一つにまとまり、信者育成活動もさらに充実発展させていくつもりです。 これからも感謝と喜びを我々の活動の糧として、老いも若きも手に手を取って、歩み続けていきたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願い致します。

短い話になりましたが、これで神殿講話を終らせて頂きます。

ご清聴ありがとうございました。

アーカイブ