Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2015年12月月次祭神殿講話

津留田正昭(ナゴヤ・パリ布教所長)

本年一年を振り返ってみますと、1月7日のパリのシャルルエブド社の襲撃という衝撃的な事件が起こり、その後スーパーでの銃撃戦へと発展、フランス社会が大きく揺れる事件で幕を開けました。そして、一ヶ月前の11月13日には、パリ市内の7ヶ所で同時多発テロ事件が発生し、自爆テロや銃撃戦が起こり、フランスは今も、非常事態宣言が続いております。私は今年で35年のフランス滞在となりますが、これほどまでに大きな事件が連続して、しかもどちらもパリとその近郊で起こったということは記憶にありません。今年、2015年という年は、私の人生の上でも大変記憶に残る一年となるだろうと思います。

現在の状況はというますと、皆様も御存知の通り、報復措置として、Daeche、すなわちイスラム国と称する巨大な組織を壊滅すべく、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスなどがシリアを中心に活動している組織を攻撃、市民をも巻き込んだ爆撃が続いております。やられたらやり返すという負の連鎖が今の情勢です。

それ以外にも、テロ事件と言われる事件が世界のあちこちで起こり、また世界各地の紛争は収まる気配すらありません。

先日、今回のパリの同時多発テロに関してドイツの放送局のインタビューを受けたダライ・ラマは、以下のように発言でしていたのが非常に印象的でした。

「人々は平和を欲しているが、テロリストは近視眼的であり、それ故に彼らは自爆テロを行う。我々は、祈るだけではこの問題は解決できない。私は仏教徒であり、信仰を信じている。問題を作り出したのは人間なのにも関わらず、問題の解決を神に委ねることは論理的なこととは言えない。神ならばこういうかもしれない「問題を作り出したのは人間なのだから、自分たちで解決しなさい」と。

我々は、人間性と協調心を育て上げるためにシステマチックなアプローチを行う必要がある。今からこれらを始めるならば今世紀は前の世紀とは異なるものとなるだろう。それを始めるかどうかは、全ての人々、一人一人の考え方にかかっている。それを成すためには、神や政府に頼るのではなく家族や社会のなかから平和のために働くことを行うべきである。」

ダライ・ラマのこの発言は、決して祈りを否定しているものではなく、これまでの歴史のなかでうまれた様々な問題が、今の世界で起こっている争いの元なのだから、まずそれを反省し、問題の糸口を自分たちで見つけ、解決する努力をする必要があると警告しているのだと思います。そして、それには政府などの力ではなく、社会、ひとつの家庭から考え、実行していくべきである、ということであると思うのです。

私もこの考えについて、同感するところは大いにあります。祈ることだけでは、解決はできないのです。そこには相手を尊重し、お互いが助けあって生きていくという本来の姿に目覚め、私達が努力しなければなりません。このような事件が起こるたびに「神はいないのか」などという言葉を目にしますが、それはあまりにも人間の勝手な考えだと思うのです。

また、去る11月29日からパリの郊外でCOP21という国際会議が行われ、昨日で幕を閉じました。これは、「地球温暖化防止条約第21回締約国会議」というもので、地球の温暖化を防止するための策を世界の国の代表者が協議し、お互いの約束事、具体的な数値目標を定めるものです。

数値目標とは、自国から出る温室効果ガスを減らすことです。これは、生産量を減らすことですが、経済活動に直接影響を及ぼすします。利益を重視する企業からすれば大きな打撃になるわけで、そう簡単には生産を減らすわけにはいきません。この辺りが各国の代表者の駆け引きになるわけです。

このような地球環境の問題の元となっているのは、産業革命以来、物の豊かさが暮らしを豊かにすると思い誤り、しかも利益を優先してきたこれまでの人々の欲望の結果であるということです。この現状を顧みて、自分の利益のみを追求する時代からの脱却を図り、地球全体としてみんなで助け合いながら、この危機的な現状を変えていこうとする努力が求められていると私は思っています。そして、各国が目標数値を掲げるだけでなく、それと同時に、自分たちの心のあり方についても考えなければ何の解決にもならないと思います。

親神様は、この世界と人間創造の時、このように思し召されました。

「この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」こうして、私達はこの世に生を享け、今も変わることなく親神様のご守護をいただきながら暮らすことができるわけであります。しかしながら、親神様の親心とお働きを知らず、元の親を知らずにお互いに自分勝手に暮らしている姿をご覧になってそれを残念に思われて、教祖をやしろとしてこの世に現れられ、人間が陽気ぐらしへの道を歩めるように教えてくださったのです。

よろづよのせかい一れつみはらせど
むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない
しらぬがむりでハないわいな

このたびはかみがおもてへあらハれて
なにかいさいをときゝかす

よろづよ八首にはこのような表現で親神様が教祖をやしろとしてこの世に現れられた思いを教えていただいております。今回のテロ事件を受けて、またCOP21の開催に際して、第一番に浮かんできたのがこのよろづよ八首の冒頭のお言葉です。人間は一列兄弟という自覚に目覚めることなく、いつまで争いを続けるのだろうか、自分さえ良ければという利己的な考えがいかに世界を混乱に落としているのであろうかと、とても残念な気持ちになりました。

さらには、先ほど拝読しました諭達にもそのことが明確に記されております。

よくにきりないどろみづや
こころすみきれごくらくや(十下り目 四ツ)

心さいすきやかすんだ事ならば
どんな事てもたのしみばかり(十四 50)

と仰せられるように、陽気ぐらしは心を澄ます生き方でもある。

慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである。 (諭達三号R175.10.26)

とありますように、欲望にまみれた心が世界の混乱のもとである、そして、自分の心を澄ますことが陽気ぐらしへの道筋であると教えていただいております。

そして、心を澄ますためにはどのような心遣いをすればいいのか、このことを、教祖は自らがお通りになりながら、具体的に私達に教えてくださっております。

教典に、

「人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。」

とありますように、自分だけ良ければそれでいいという、我が身勝手な心遣いを掃除することが、心を澄ますことと教えていただいています。それが正しく今の世界の問題の根本であります。

逸話篇に

三九 もっと結構

明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。

お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。

弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。

弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました。」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」

と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

このようなお話があります。

このお話は一読しただけではその真意はすぐには理解しにくいお話です。現在の一般の常識とは全く逆の価値観を提示しておられます。「人に自分のものを取られて喜ぶ」、皆さんはできますか。このような考え方は、私達には到底できそうになありません。しかしながら、このお話を通して、教祖が教えられていることは、自分が助かったことだけを喜んでいるようではいけない、もっと広い心になることが大切なのだと。「自分がたすかる」ことを願うのは当然ですが、そこで留まってしまうのではなく、そこから今度は「人がたすかる」ことを考えられるように、成人しなければならないと教えていただいていると思うのです。

教祖は常に世界たすけ、人間全体の救済を視野に入れておられます。それは、先ほどの「よろづよ八首」にもはっきりと書かれています。そして、この世のすべてのもの、それはお金や物、そしてこの身体、命も、決して自分のものではなく、親神様からのお与えであり、お貸しくださっているものと教えられています。その大きなご守護に私達一人ひとりが気が付くことが大切であり、そして広く大きな心になることが肝心であると思うのです。

そして、自分がたすかることを考えるのは、子供の心です。子供は親からもらって喜びます。そして、親は子供に与えて喜ぶのです。これは皆様も親ならば経験されていると思います。その心と同じことを周りの人に対しても実行していくことが、世界たすけを望まれる教祖の真の道具衆たる「ようぼく」なのではないでしょうか。

教典

「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(明治三〇・一二・一一)

人は、ややもすれば、我が身勝手な心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。」

自分だけがいいという心では、平和な世界は築けません。今よりももっと大きな心で、「人に助かってもらいたい」という心になることが、教祖の望まれている最も肝心なことではないでしょうか。

ご清聴ありがとうございました。

アーカイブ