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2024年4月月次祭神殿講話

明和パリ布教の家担当 小林弘典

本日は、「水のご守護」についてお話をさせていただきます。

先月の月次祭が終わり、そろそろ今月の講話の原稿を書き始めようと思っていたときのことです。夜帰宅したら自宅のトイレが詰まって水が流れなくなっていました。このままではトイレが使えません。

実は、これは我が家ではよくあることで、いつものようにラバーカップで対処しました。しかし、どういうわけか、いくらやっても今回は全く効き目がありません。

我が家は5人家族です。アパートにはトイレは一つしかありません。トイレが使えなくなればどうなるか、皆さんも容易にご想像できると思います。昼食の前でもありますので、その状況の詳細をお伝えするのは遠慮させていただきます。

翌朝になっても状況は変わりません。家内や子供達には、トイレは極力学校か職場で済ませてくるように言いました。幸い我が家はこの出張所から徒歩5分のところにあります。ですから、緊急時には出張所のトイレを貸してもらうようにも言いました。

とはいえ、そんなことで問題が済まされるはずがありません。どうにかしなければと、家族が出かけてからも、あの手この手を試してみました。しかし、全く効果はありません。こうなったら、もう業者を呼ぶしかないかとも思われました。

しかし、その前に何かいい方法はないかとインターネットで調べてみました。すると、「真空式パイプクリーナー」というものがあることがわかりました。早速、ホームセンターに行き、それらしきものを30ユーロ前後で購入しました。

最初は全く効果が見られませんでしたが、根気強くやっていると約10分後にトイレは流れてくれました。そして、再びいつものように使えるようになりました。

これで一件落着です。私はほっと胸を撫でおろしました。と同時に、父親としての威厳も少しは保てたかなと、ちょっとした達成感も味わっていました。さらに、情報を提供してくれたインターネット、問題解決の決め手となった「真空式パイプクリーナー」に心から感謝しました。

その後、確認のため何度もトイレの水を流していました。水の流れる様子を見ているうちに、ふとあることに気づいたのです。目の前を流れる「水」には全く感謝していなかったのです。

親神様の火・水・風のご守護は人間だけでなく、全ての植物、生物の源です。そのご守護に感謝するのは私たちの信仰の基本です。もう何百回と聞いた教えです。しかし、目の前の事情に心を奪われていると、ついそのことを忘れてしまうのです。

今回の場合は、トイレの問題の方に心が奪われていました。流れる水を目の前にしながら、危うく「水」への感謝を怠るところでした。同時に自分ではよくわかっているつもりでも、まだまだ教えが心に修まっていないな、とも感じていました。

この出来事を通じて改めて気づかせられたことがあります。親神様の水のご守護に感謝しましょうと言いながら、感謝するのは自分にとって都合のいいときだけだということです。被害や損害がないから感謝しているのです。

そんなことは、当たり前ではないかと思われるかもしれません。水による被害や損害を被って困っているときに、水に感謝する人はいないでしょう。しかし、親神様の水のご守護に感謝するというのは、そういうことではありません。

この世界も私たちの体も火、水、風によって成り立っています。これは全人類に共通の不変の真理です。ところが、感謝するのは都合がいいときだけなのです。あるいは、不都合なことが解決されたときだけです。

自分にとって都合のいいことに感謝する、自分にとって都合のいい人に感謝する。これは難しいことではありません。一方、何も問題なく日常生活を送っているときは、親神様の火、水、風のご守護を絶え間なく受け取っているのです。私たちは何か事が起こって初めてそれに気づかされるのです。

では、親神様の火、水、風に感謝すると、どうなるのでしょうか。火、水、風のご守護に感謝したら、何かいいことが起こるのでしょうか。

感謝しなくても日は昇ります。雨も降ります。風も吹きます。

そこで、まずは「感謝」という言葉の意味について考えてみたいと思います。

一般的に、私たちが人や状況に感謝するときは、それが自分にとって有益であったり、自分の欲求が満たされたりした場合です。確かに、のどが渇いたときに水を飲めば、水に対する感謝の気持ちが湧くでしょう。しかし、それは、自分の欲求が満たされた場合の感謝です。

水のご守護への感謝の第一歩は、物事の順序と本質を意識することではないかと思います。

おやさまが、お姿をお隠しになる直前に言われたお言葉に次のようなものがあります。

さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

さあ/\實があれば實があるで、實と言えば知ろうまい。眞實というは火、水、風。

さあ/\實を買うのやで價を以て實を買うのやで。

物事の順序と本質が見事に言い表されていると思います。

このお言葉は平時ではなく、事態が非常に差し迫ったときに発せられたものです。いついかなるときにおいても、物事の本質と順序を崩さないおやさまのご態度がよく見て取れます。こうしたご態度もおやさまの雛型の一つと言えるのではないでしょうか。自分のこと、目の前のことに心を奪われやすい私たちへの警告であるとも思われます。

では、水のご守護への感謝の気持ちを失った場合はどうなるでしょうか。

先ほど「輸達第四号」を拝読させていただきました。そこにその答えの手がかりがあると思われる一節がございます。その部分を引用させていただきたいと思います。

今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張や、刹那的行動があふれ、人々は、己が力を過信し、わが身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。

人はだれしも「癖」というものを持っています。日常生活のほとんど全ての行為はこの「癖」の連続と言ってもいいでしょう。「癖」は行為だけではありません。話し方にも「癖」はあります。気分や心遣いにも「癖」はあります。

最近、自分自身の「癖」について考えていると、一つ気づいたことがありました。それは、何かしているときに、その行為自体に集中していないということです。今自分が行っている言動に心を使うのではなく、他のことに心を奪われているのです。

何事も初めは注意して行います。しかし、日々同じようなことが繰り返されるとだんだん慣れてきます。親神様の水のご守護への感謝も同じではないかと思いました。「水」を使っているときに、「水」に集中できていないのです。

そこで、私は最近「水」を使うときには、どうすれば少量で効果的に使えるか考えるようにしています。目的は水道代を節約するためではありません。今、使っている「水のご守護」に集中するためです。一日中絶えず感謝するのは難しいにせよ、せめて水を使っているときぐらいは、水のご守護に感謝しようという試みです。

しかし、これがなかなか難しいのです。時間に追われているとき、何か考え事をしているとき、これまで積み上げてきた自分の「癖」によって、つい無駄な使い方をしてしまいます。しようとしたことが、自分自身の「癖」に阻まれてしまうのです。

意識しなくても、親神様の水のご守護にいつも感謝できる、そんな「心の癖」を身につけることは、信仰の基礎であると同時に、目的の一つではないでしょうか。

おやさまは、「水を飲めば水の味がする」とも言われました。

水を飲めば水の味がするのは当たり前だと思われるかもしれません。しかし、意識が集中できていないと、それが感じられなくなるのです。

意識の集中こそ、感謝の源と言えるのではないでしょうか。

本日は親神様の水のご守護への感謝についてお話をさせていただきました。皆さんの日々の生活、信仰において何かご参考になるようなことがあれば、幸いに存じます。

最後までご清聴くださり、ありがとうございました。

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