Tenrikyo Europe Centre

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2013年12月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所役員 藤原理人

本日は立教176年12月のヨーロッパ出張所月次祭を皆様と共に勤めさせて頂き、大変嬉しく思います。今日は教祖130年祭に向けて私たちがすべきことについて、思うところをお話しさせて頂きたいと思います。

今拝読しました諭達第三号はおたすけを強く促された内容になっていますが、年祭の意義が次のように記されています。

「以来、『今からたすけするのやで』とのお言葉通り、存命の理を以て、今も変わることなく、世界たすけの先頭に立って私たちをお導き下されいている。
この限りない親心に仕切ってお応えすることこそ、教祖の年祭を勤める意義である。」

世界たすけこそが、私たちに課せられた課題です。しかしながら、目に見えるおたすけに集中してしまうと、本来の信仰の途上で過ちを犯してしまうかもしれません。

おふでさき

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないのでXII-90

とあります。

先ず第一に、他人のことを考える。これは真っ先にしなければならないことです。おたすけを行う方法は数えきれないほどあります。思うに、既に皆さま方は何らかの形でおたすけを実践しており、多くの人はごく自然に、仕事場であっても日常生活の場においても、たすけあいを意識して生活されていると思います。自分のためだけでなく、他人様の為に仕事をしているのであれば、親神様はそれを受け取ってくださいます。お隣さんが喜ぶようなことをすれば、それも神様に受け取ってもらえます。教祖の年祭の旬に、世界たすけを促される諭達を常に念頭に置いて、こうした利他的な行動を増やしていきましょう。

ここに、出典ははっきりしませんが、天理教の高名な歴史家である高野友治先生の『草の中の聖たち』で紹介されている教祖の逸話があります。

昔、大阪の道修町に慈悲深い薬問屋の主人がいた。いつも店の前を通る難渋人に施しをしていたので、のちには難渋人が朝早くから店の戸の開くのを待って並んでいたという。
あるとき、この人船旅の途中で難船して、人の住まぬ島にたどりつき、露命をつなぐこととなった。ところが、ふしぎに、朝ごとに魚が足もとの水だまりに入っていて、それで命をつなぐ糧として過ごしたというのだ。
そののち救助船にすくわれたというのだが、その後まもなく入信し、教祖にお会いしたところ、教祖の仰せには、「いつもは、私の子供を大切に扱うてくだされて有難う。神はお礼を申しますで」と申され、そのあとで、「そのお礼は、このあいだ一寸さしてもらいましたな」(高野友治『草の中の聖たち』262頁)

この話からも、教祖はそれぞれの信心に関係なく、人々に救いの手を差し伸べることを喜んでおられることが分かります。今晩から青年会はホットミール活動を開始します。これもまたこの薬問屋の主人のように、おたすけを実践する機会になろうかと思います。

しかしながら、ここまでのところは言うなれば普通のおたすけです。信者でなくてもできることです。では天理教の信者として、何が大事になってくるのでしょうか。おたすけを実践することが大事であることは分かっています。しかし、もう一つ、より大切なことがあります。それはおつとめの実践です。もしおつとめを実践することなくおたすけを行ったとしたら、それは残念ながら天理教信者としての信仰的な値打ちはないと言えるでしょう。

おふでさき

このつとめなんの事やとをもている
よろづたすけのもよふばかりをII-9

このさきハたん/\つとめせきこんで
よろづたすけのもよふばかりをII-21

このつとめなにの事やとをもている
せかいをさめてたすけばかりをIV-93

とあります。

諭達第三号がおたすけを促されているのであれば、それはおたすけの実践の前におつとめの勤め方を見直さなければならないということだと思います。私たちの救済はおつとめにかかっているのであって、人助けや助け合いの行動によるものではありません。

たすけでもあしきなをするまてやない
めづらしたすけをもているからXVII-52

つまり、目に見える現実に目がくらんではいけないということです。目に見える現実ははかないものです。素晴らしい行動に結果が伴う、そしてそれを嬉しく思う。それはそれで良いことです。しかし、おつとめがないのであれば、それは一過性のものにすぎません。

天理教事典には、「このたすけは、人間の思慮によって成立し、あるいはもたらされるものではなく、親神の摂理による究極的な賜物(たまもの)と言うべきものである」とあります。

めずらしたすけとは、必ずしも私たちの期待通りの結果になるわけではありません。それは親神の為せる業たる勤めによってもたらされるのです。なぜならば、おつとめ親神による人間創造の元の理を体現するものだからです。そしてそれこそが救けの源泉なのです。

おふでさき

このよふをはじめかけたもをなぢ事
めづらし事をしてみせるでなVI-7

このよふをはじめてからにないつとめ
またはじめかけたしかをさめるVI-8

とあります。

ここで改めてそう申しますのは、この諭達を受けて、私たちは深くおつとめの意義とその実践方法について考え直す必要があると思うからです。ただ毎日機械的に何も考えずにこなすだけになっていないか、今一度自身に問い直す必要があるように思います。

毎日おつとめを勤めていない方は、もちろんそうするようにお勧めします。僅か五分のおつとめです。この現代において、誰もが忙しく、時間のない中とはいえ、心を鎮めるための五分を取れないことはないでしょう。おつとめによって心が開かれ、親神がそこから埃を取り除いてくれます。言い換えれば、おつとめが心を世界に開かせてくれるのです。心が開くことによって、自然に他人へと心が向かうようになります。つまり心の向きがおたすけへと向いていくのです。まず心を落ち着かせ、心の埃を心の下の方に沈め、そしておつとめでそれを取り除きましょう。

おふでさきには

このほこりそふぢするのハむつかしい
つとめなりともかゝりたるならXIII-22

とあります。

おつとめが出来なくても掃除は「難しい」のであって、「不可能」ではありません。もし手振りができないのであれば、お歌を歌ったり、繰り返してみてください。十二下りまでできなくても座りづとめだけでも勤めましょう。座りづとめがおつとめの中でも最も重要です。

毎日おつとめを勤めている人は、間違いなく勤めていると思わないようにしましょう。これは私自身にも言えることです。座りづとめでさえ、見直す必要があると思います。どのような態度で、どのような条件で、どのような心積もりで勤めているのか。上手い下手の話ではありません。きれいな手振りなのか、正しい手振りなのか、今はそんな話ではありません。心の問題についてです。

天理教事典に、「『つとめ』を中核とするたすけは、決して単なる儀式ないし形式的なものではない」とあります。
教典にも、「人間心のはかなさは、時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち」とあります。

形の問題ではなく、内容の問題です。私たちが陥りやすいのは、「おつとめはできる」と考えもなく思い込んでしまっていることです。陽気ぐらしはまだ実現していないのですから、おつとめは未完成なのです。改善点はいくらでもあるのです。おたすけがこの諭達第三号でこれまで以上に強調されているのは、より良いおつとめを勤めることができるよう強く促されているとも言えると思います。月次祭は月に一度のことですから、心を込めるのは比較的やさしいと思います。毎日のおつとめを見直してましょう。心の緩みがないか、自発的に勤める意欲が欠けていないか。そして次のお言葉を常に頭に置いておきましょう。

しんちつの心したいにとのよふな
つとめするのもみなたすけやでVIII-3

具体的なおたすけの行動に満足してはいけません。それに加えておつとめに込められた誠真実が重要なのです。おつとめは単なる日課ではありません。おつとめは心の入れ替えであり、常に心に新しい感性を生み出すものなのです。もし毎日そういう感覚にならないのであれば、日々のおつとめがきっちりと勤められていないということです。

みかぐらうたの地歌に力を、手振りや動きの中に活力を、みずみずしい新鮮な感覚を、そして生まれ変わる自分をおつとめの中に感じてみようではありませんか。そうすることで、私たちのおたすけ活動がめずらしたすけへと変わっていくはずです。

最後に以下のおふでさきのお歌をもって本日の勤めを終えさせて頂きます。

とのよふなむつかしくなるやまいでも
つとめ一ぢよてみなたすかるでX-20

どのよふにむつかしくよふみへたとて
よふきつとめてみなたすけるでXII-61

はや/\と心そろをてしいかりと
つとめするならせかいをさまるXIV-92

つとめてもほかの事とわをもうなよ
たすけたいのが一ちよばかりでXVI-65

ご清聴ありがとうございました。

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