Tenrikyo Europe Centre

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2007年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

さて、ようぼくとは、元々、神様のご用をする人のことを、そう呼んだのだと思います。陽気ぐらしの世界建設のために使われる材木という意味でしょう。しかし、現在では、一般におぢばに帰り、別席を9回運び、おさづけの理を拝戴した人を指します。ようぼくがするべき勤めは、色々あります。まず、病気の人にその救済を願うおさづけを取り次ぐこととが一つ。次に、おつとめを勤めることが一つ。この教えを少しでも広めることが一つ。また事情、つまり人間関係や社会的なことで困難な状況にある人に対して、救済の手を差し伸べることもその使命の一つです。その際は、物質的な救済もあるかも知れませんし、また言葉や行いによる救済も大切だと思います。

中でも、やはりようぼくは、おさづけの取り次ぎを許された人なのですから、躊躇せずに、どんな病気の方であろうともどんどん、取り次いでいくべきだと思います。ところが、現実には、いくらおさづけを取り次いでも、なかなかご守護は現れない場合が多いのです。そういうとき、天理教では、「心定め」と言って、期間を区切って信仰的な実践をして、そのことによって病人の救済を祈ることがままあります。

天理教だけではなく、一般にも、神様に期間を区切って、特別に願いをかけるということはよくいたします。中山みき様が月日のやしろになられる以前、つまり立教以前ということになりますが、近所の乳飲み子を預かられたところ、この子が疱瘡に懸かり、命旦夕に迫ったことがあります。その時、みき様は、近所の氏神に百日間、裸足で参詣をされます。裸足というのは、このような犠牲的行為を通して、自分の真実を神様に見せるということだろうと思います。今でも日本だけではなく、世界中で似たような行為はあると思います。これが、願掛けと言われるものだと思います。

人によっては、例えば、一定期間タバコを吸わないとか、お酒をやめるとか、そういうことをいたします。私の知人で、賭け事が好きな人がおりました。彼は、神様に重大なお願い事があるとき、一定期間、賭け事を止めました。別の人は、大好きなお茶を飲むのを止めました。

私は、こういった行為を決して否定するものではないのですが、こういったものと、お道の心定めは少し違うと思います。心定めというのは、何らかの信仰的実践を神様に誓うものであって、自分の好みなどを絶って願掛けをするのとは違うと思います。なぜならば、タバコやお酒を止めるということは、確かに体には良いですが、天理教の教えの中に、それらを止めなさいという教えはありません。つまり、タバコを止めると言うことは信仰的実践ではありませんので、教えとは直接リンクしません。

誤解のないように聞いて頂きたいのですが、喫煙や過度の飲酒を止めることは体に良いし、行き過ぎた賭け事は時によっては家庭を崩壊させますから、それらを止めることは好ましいことだと思います。私は、大いに賛成でありますし、人にも例えば禁煙などはよく勧めています。それはそれで尊いことですが、しかし、お道で言う心定めとは、そういった一種の戒律を自らに課するものではないと思うのです。もう少し、そこを踏み込んで、例えば賭け事にかけていた時間を布教に歩くとか、タバコを吸っていたのを止めて、そのタバコ代を毎日お供えするとか、そのように教義とリンクさせて、初めて信仰的な心定めと言えると思うのです。私たちの「250人以上をおぢばにお連れする」という心定めも、一人でも多くの未信者の方に天理教の信仰を聞いて貰うということが目的でありました。心定めとは、正確に言うと、何か困難の中にあって、心の成人を期するために、神様に対し信仰的実践を誓うことを言うのだと思います。

私も、特に何か重苦しい身上のおたすけをしている時や、自分自身が事情の最中にあるとき、よく「毎日○○をします」と心定めをいたします。これは神様との約束ですから、人には言いません。言う必要もないと思います。ところが人間ですから、たまにずぼらをして、やらないことがある。そうすると、本当に不思議なんですが、何か身の回りに良くないことが起こってくるのです。

今、私はあることを、心定めをしております。先日、うっかりとそれを実行しませんでした。するとその日、私の一番下の娘が、大けがをいたしました。一番下の娘は、まだ13才であります。お道では、15才までの病み煩いは、親に対する手引きと教えて頂きますから、これは私に対する神様のお手引きに違いないのです。私は、深く反省いたしました。心定めは、破ってはいけないのです。

心定めを完遂したときは、達成感に浸り、非常に心が勇みます。しかし、その最中は、それは大きな精神的負担になります。例えば今まであまりおつとめをしていなかった人が、「毎日おつとめをします」という心定めをするとします。ところが、会社からの帰宅が遅くなる、あるいは友人との語らいが夜遅くまで続く。心の中には、心定めがありますから、常に「今日中におつとめをしないといけない」という思いが支配しております。これは、大きな心の負担になると思います。しかし、私は、信仰を続けるには、若干の心の負担というものは、絶対に必要だと思っております。心の負担がまったくなくなると、確かに心は非常に解放されますが、その時、よほど自分を厳しく律しないと堕落という状態に陥る危険性があると思います。

1887年(日本の年号で明治20年)1月、教祖のご身上が迫ってきたとき、「つとめをせよ」と命じられる教祖に対して、初代真柱様を始めとする先生方は、おつとめに踏み切れませんでした。それは、当時の法律が許さなかったからであります。その際の「おさしづ

「さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで」

とあります。これの意味は、世界国々があって、人間がおり、その人間が住みやすいように申し合わせて作ったのが法律である。しかし、そもそも月日親神がいるからすべては存在するのである。だから、最も大事なことは、親神に対する奉仕、つまりつとめをすることであり、その心を定めよということであります。法律と神様のお言葉の間に挟まって、先生方の心の負担は推して知るべしと言えるでしょう。しかし、負担はあるけれども、心定めがなければつとめの実践に踏み切れなかったのであり、それを神様は求められたのです。

今ひとつは、心定めには、軽い恐怖感を伴うということです。先ほど申しましたように、心定めを何らかの理由で実行できなかったとき、私はよく自分自身や家族に何か障りを見せられます。心定めをする人は誰でも、もしそれをうっかり実行しなかったら何か罰が当たるのではないかという恐怖感にかられます。本来、天理教には「罰」とか「罪」の概念はありませんから、この悟り方はおかしいのですが、誰でもそういう感情は持ちます。私は、信仰生活を続ける上で、この軽い恐怖感というものも必要なものではないかと思っているのです。おつとめをするのも、ひのきしんをするのも、それをしなかったら、悪いことが起こるのではないかという少しの恐怖感があるからこそ、実行するように思うのです。もちろん、これも本来の信仰の境地とは少し離れております。ただし、信仰というものは、実践を続けていくうちに心の負担を感じることが軽減していき、あるいは恐怖感を越えていくことができます。つまり信仰の継続によって、もっと積極的な心で実践ができるようになると思います。これが重要なんだと思うのです。その時、信仰生活は、苦しみよりもむしろ楽しみになります。

ところで、地面に種を蒔くと芽が出て、やがて花が咲き実がなります。しかし、芽が出て花が咲くのは、必ずしも、種を蒔いた場所とは限りません。地面に蒔いた種が鳥や風によって運ばれて、とんでもない所に芽が出て花が咲くということも珍しいことではありません。またすぐに芽が出るとも限りません。場合によったら、種を蒔いたのを忘れた頃に芽生えるということも、よくあります。

信仰も同じことが言えると思うのです。空間的に、あるいは時間的にかけ離れて、蒔かれた種が芽生えることはあるのではないでしょうか。

助かりたいと願い、一生懸命神様に祈っても、なかなか目に見えたご守護が現れないことは、ままあります。しかし、今救われなくても、2年後3年後、場合によっては10年後にご守護に浴するということがあります。

また、ある病気の方を救けさせていただこうと、心定めをして神様にお願いする。その心定めを見事完遂してもなお、一向に効を見せて頂けない場合があります。しかし、確かにそのご本人には、はっきりとした効は見えなくても、そこから別の人をたすけることができ、結果的にその人が救かるということもあります。

私たち人間ができる人助けは、すべて根本的な救けではなく、一時的な救けです。例えば貧しい国々の人たちへの物質的な救済も、根本的な救済ではありえません。根本的な救済とは、どんな場合であれ、本人が立ち上がることしかありません。しかし、私たち人間が、一人の人間の意識や、それに伴う生き方を根本的に変えるということはなかなかできることではありません。これは神の領域なのかも知れません。そういうことを考えて、私たちは、しばしば、根本的な救済ではないならやっても意味がないと考えがちです。オールオアナッシング、つまり「ゼロか百か」の考え方に陥ることが多いのです。しかし、本当にそうでしょうか。例え一時的な救済であっても、それをするということは大変尊いことですし、やるべきだと思います。仮に世界中の多くの人が、ほんの少しの救済でもすれば、世の中は本当に変わります。

みかぐらうたに

「まいたるたねハみなはへる」とあります。伏せ込んだ種は、いつ、どこかは分からないけれども、必ず生えてきて実りとなるということです。教祖は、自分が助かりたかったら、人を助けよと仰せになりました。しっかりと真実の種を蒔いて、人を助け、その結果、自分も助けて頂けるという実りを見せて頂きたいと思います。

最後になりましたが、今年も一年、共々に健康で勇んで勤めさせて頂きたいと存じます。ご静聴ありがとうございました。

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