Tenrikyo Europe Centre

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2005年7月月次祭神殿講話

天理教ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

昨日のようぼくの集いに続いて、月次祭に御参拝下さいまして誠に有り難うございます。
ただ今より、さづけの理について、しばらくお話をさせていただきます。よろしくお願いいたします。

私達、ようぼくは、おさづけの理を頂戴しております。教祖は明治7年、1874年、4名の弟子にこのさづけの理をお渡しになります。それ以前にも、扇のさづけなどは渡しておられましたが、身上たすけのさづけを渡されるのは、これが最初であります。

その頃、おふでさきに、教祖は

みえるのもなにの事やらしれまいな
高い山からをふくハんのみち」

このとこへよびにくるのもでてくるも
神のをもハくあるからの事  (第5号 57、59)

と記され、いよいよ本格的に世界布教にかかると予言をされております。続いて2名の弟子に対して、お屋敷の近くにある大和神社へ行き、どういう神か聞いて来るように命じられます。

現在は、日本はどの神社、仏閣もそれぞれ独立した宗教法人ですが、当時、この神社の権勢はかなり大きなものだったようです。そこに、親神の教えを広める意図で弟子を送られるのですから、教祖の決意が感じられると思います。そして、この出来事以降、本教に対する公権力の迫害、干渉が厳しくなって参ります。

続いて、おふでさき

いままでハみすのうぢらにいたるから
なによの事もみへてなけれど

このたびハあかいところいでたるから
とのよな事もすぐに見えるで  (第6号 61、62)

と記されます。これまでは、内に籠っていたが、これからは堂々と表に出ていくという宣言であります。そして、初めて赤衣を召されるのです。公権力の迫害が始まるや、わざわざ目立つように赤衣を召されるのです。通常、我々は、外部との軋轢が始まりますと、少し大人しく、また目立たないようにして、その圧力が弱くなるのを待ちます。しかし、教祖は、全く逆に、相手の神経を逆なでするかのように、敢えて目立つ格好をされて、外に出て本格的な布教に乗り出されたのです。相手は国家権力であります。言わば、嵐の海に手漕ぎボートで航海に出るようなものでしょう。親神の教えを広めるためには、既成宗教、公権力などとの衝突は、避けて通れない道だと思われたのではないでしょうか。

そして、この赤衣着用に続いて、身上たすけのためのさづけの理を初めて渡されるのです。このような、当時の状況を鑑みれば、さづけの理を渡されたのは、世界だすけの道具として、であることは明白です。世界をたすけるという壮大な計画を実現するためには、教祖の手足が必要です。だから、弟子達に、さづけの理を渡され、赤衣を召された教祖と、このようぼく達が一緒になって、勤めてくれるよう願われたのでしょう。私達、ようぼくが頂戴しているさづけの理は、つとめと並んで世界だすけの最大、最強の道具なのです。

しかし、現実に、おさづけを日々取次いでいるようぼくは、何人いるでしょうか。誠に少ないといわざるを得ません。何故でしょうか。一つには、なかなか鮮やかな身上の回復を見る事が出来ないからではないでしょうか。

ここで、共に考えてみたい事は、そもそもご守護をいただくとは、どういうことでしょうか。単に病気が治ることがご守護をいただくということでしょうか。大体、60才くらい以上の方なら、重い軽いの違いはあっても、恐らくどなたでも、一つや二つは病気を持っておられます。もし病気のない状態をご守護いただいたと言うならば、お年寄りは誰もご守護をいただいていないことになります。私は、病気の有無とは関係なく、悲しみから立ち直り、毎日を勇んで通ることが出来るようになった状態を、ご守護いただいたと表現できるのではないかと思っております。もちろん、病気が治るに越したことはありません。しかし、病気そのものは治らなくても、さづけの取り次ぎによって、ご守護をいただいた、つまり悲しみから喜びの生活に心を切り替えることができた方は、大勢おられるのです。

ある信者さんの話しをします。もう随分前の事です。ある朝、彼の一人娘、当時2才でしたが、が少し熱があったそうです。それで風邪でもひいたのかなあと思っておりましたら、その日のうちに、急に熱が42度位まで上がってきて、目の焦点が定まらなくなり、口は開けたままでよだれを垂らすなど、異常な様子になったそうです。意識もなくなりました。慌てて、救急車を呼んで病院に連れていきました。病院では、その様子に驚いたお医者さんから「何があったのですか」と聞かれたらしいのですが、その日まで何もなく、本当に元気だったのです。すぐに、集中治療室に運ばれて、必死の治療が始まりました。そして同時に、彼の所属する教会では、教会の人が皆集まって、神様の前でお願いづとめを始めました。

やがて一日たち、2日経っても、ほとんど病状は変わりません。その間、教会の方々が、入れ替わり立ち替わり、おさづけの取り次ぎに来られたということです。やがて、4日目にその子は、とうとう、回復することなく出直してしまいました。医者の説明によりますと、風邪の菌が脳に入ってこういうことになったそうです。彼等夫婦の悲しみは、想像するに余りあります。

彼の奥さんは、元々、天理教の信者ではありませんでした。天理教の信者である彼と結婚してからも、奥さん自身は信仰はされませんでした。ところが、子供さんの出直しがあってから、奥さんは天理教の信仰を求めて、おぢばで別席を運ばれました。彼は、そのことについて、私にこう言いました。「娘の容態がおかしくなったとき、教会では、皆さんが一生懸命、娘のために何度もお願いづとめをして下さった。それだけではありません。入院中は、多くの人がおさづけの取り次ぎに来て下さった。考えてみれば、皆、兄弟でも親戚でもない、何の関係もない私の娘のために、本当に心を尽くして下さった。さらに、娘が出直した後は、会長さんや教会の人達が、今も心から私達を励まして下さっています。本当にありがたいことだと思っています。家内も、この皆さんの真実を知って、自分から天理教の信仰をする気持ちになってくれました。娘が出直したことは、悲しいけれど、家内が信仰を求めてくれるようになったことは、嬉しいことでした。まだまだ私も家内も辛い日々ですが、こうして皆さんに支えて貰っているおかげで、きっと立ち直ることが出来ると思います。」こえこそ、病気は治らなかったけれど、ご守護をいただいた例ではないでしょうか。さづけを取り次ぐ人の真実が、難儀の中にある人の心を助けたのです。

先日、ある大学で天理教の講演をした時、ある学生がこういう質問をしてきました。「もし、さづけで病気が治るのなら、医者や病院は必要ないではないですか」と言います。私は、病気が治るというのは、一つの手段であって、目的ではないと思います。さづけの目的は、悲しみから喜びへと心の転換をしてもらうことであると思います。だから、今紹介した信者さんのように、病気そのものは治らなくても、悲しみから立ち直ることが出来た、これは大きなご守護ではないでしょうか。そのために、絶対に必要なことは、取次ぐ者の真実でしょう。さづけを渡された直後に書かれたおふでさきには、

これからハいたみなやみのてきものも
いきてをどりでみなたすけるで

どのようなむつかしくなるやまいでも
しんぢつなるのいきでたすける   (第6号 106、108)

とあります。さづけの取り次ぎには、真実がなければいけないのです。

さづけを余り取り次がなくなった二つ目の理由は、時間的なこともあると思います。現代に生きる我々は、色々なことで時間に追われています。この中に、朝から晩迄、ただ布教さえしていればよいという立場の方は、恐らく、あまりおられないと思います。自分の仕事や雑事につい心が囚われて、さづけの取り次ぎがおろそかになるというのは、人の常です。

教祖伝逸話遍の中に、こういう話があります。

ある時、教祖は…「幻を見せてやろう」と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が、見えるようになされた。幸三郎が仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えた。それで、幸三郎は、お屋敷から自分の村へ戻ると、早速煙草畑に行ってみた。すると、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていた。それを見て、幸三郎は、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏した。
というのは、おたすけに専念する余り、田畑の仕事は、作男に任せきりだった。…が、気にかからない筈はなく、いつも心の片隅に、煙草畑が気がかりになっていた。そういう中から、おぢばに帰らせていただいた時のことだったのである。…(97 煙草畑)

幸三郎さんは、煙草畑の栽培という仕事を持っていた。しかし、おたすけに忙しくて、そちらはおろそかになっていた。もちろん、ずっと自分の畑が気になっていたところ、教祖が幻で煙草が生い茂っている状態を見せて下さり、事実もそうなっていたということです。この逸話から分かることは、仮におたすけに専念していても、個人の生活の上も神様はしっかりと請け負って下さり、心配はないと言うことでしょう。とは言うものの、現実には、なかなか仕事とおたすけの両立は、難しいと思います。しかし、どちらかと言えば、仕事の忙しさをさづけを取り次がない口実にしている場合も、決して少なくありません。神のご用と自分の用事のたてあう中を勇んで通ってこそ、信仰者と言えるのではないでしょうか。

さづけを取り次がない3つ目の理由は、現代は病院や薬が非常に充実しているからでしょう。コンゴなどの貧しい国では、今でも大勢の人がさづけの取り次ぎを求めて来る姿を見ても、そのことは明白であります。

しかし、例え病院や薬で病気が治っても、全く神様のご守護だとは思わない人もいれば、病気が治らなくても、ご守護に感謝している人はいます。先ほど言ったように、病気の回復というのは、陽気ぐらしに向かうための一つの手段であって、それ自体が目的ではありません。病状に何らの変化がなかったとしても、ようぼくが病院へ足を運ぶ、その真実は病人の心を打ちます。およそ世界中の人で、自分のために祈ってくれる人を快く思わない人はいないでしょう。人を信仰に導くのは、この感動だと思うのです。

この出張所でも、膝の痛みをご守護いただかれた方、ガンをご守護いただかれた方もおいでになります。教祖たった一人から始まったこの道が、今では、ここまで大きくなりました。その最大の理由は、先人達が、おさづけの取り次ぎをどんどんやっていかれたからです。では、さづけは、先人の時代には、よく効いて、今は効かないのかと言うとそうでもないようです。どの先人の伝記を読んでも、大概は「いくらさづけを取り次いでも、なかなか不思議は現れない」と、みな、異口同音に書かれてあります。にもかかわらず道は広まっていった。なぜならば、現在の我々よりも、遥かに多くの回数を取り次いでいかれたこと。また、取り次ぐ人たちの真実があったからではないでしょうか。

楽器を演奏できても、普段、演奏活動をしない人を音楽家とは言いません。うまく絵が描けても、普段、絵を描かない人を絵書きさんとは呼びません。ようぼくも同様だと思います。さづけの理を頂戴していても、それを取り次がなければ「ようぼく」とは呼ぶことはできないのです。

さづけの取り次ぎ、おつとめ、ひのきしん、においがけ、何でも良いですから、ようぼくは、ようぼくのするべきことを、例え少しでもさせていただきたいものです。

いよいよ来年、教祖120年祭がつとめられます。現在、在欧ようぼくの心定めである「250名以上の別席帰参者」は、半分弱迄伸びて参りました。何とか、皆さんのご協力をいただいて、この心定めを完遂させていただきたいものと思っております。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

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