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2014年11月月次祭神殿講話

内子・パリ布教所長夫人 松川こひな

先日、日本のテレビで、東日本大震災で甚大な被害を受けられ、仮設住宅での生活を余儀なくされている地域の「集団移転、3年半の記録」という特集をしていましたので、少しご紹介させていただきたいと思います。

震災から3年半、集団移転のトップを切って、人口千人を超える新しい町が誕生しようとしています。仙台空港のある、宮城県岩沼市です。震災で8メートルの津波に襲われ、沿岸部が壊滅し、現在海岸から3キロ内陸に入った20ヘクタールの農地を造成し、仮設住宅からの引っ越しが始まっています。

各地で集団移転事業が滞る中、なぜ岩沼市はトップを切れたのでしょうか? この3年間の歩みをひもとくとよく解ります。行政がコミュニティーの維持を大切にして話し合いを重ねたことによって、住民と行政の間に大きな対立が生まれず、住民には「自分たちの町を作る」という意識が高まりました。3年間で実に120回という会合を持ったそうです。徹底的な話し合いをする間に何度も衝突があったようですが、どれだけ壁にぶつかっても岩沼市の住民たちは、町づくりをあきらめませんでした。

岩沼市では、震災の年の2011年秋、最初の話し合いがもたれました。まず移転先の周辺を歩いてまわることから始まり、公民館で町づくりについて話し合いました。話し合いには、都市計画の専門家も加わり、それぞれグループに分かれて、大きな白い紙にどんな町を作りたいか話し合いました。話し合いに当たり、専門家からは、次の二つの提案がなされました。それは、思ったことを自由に発言すること、人の意見を非難しないこと、でした。それは、だれもが本音で話せるようにするためです。本音を出さない限り、何も見えてこないからです。

他の多くの地域では、自治体が町づくりの青写真を作り、住民に意見を求めますが、岩沼市では、まず白紙からスタートし、しかも自治体は最初話し合いに加わらず、住民同士の意見にゆだねました。しかし、この日の意見はてんでばらばら、とても一つにはまとまるとは思えないものでした。

町づくりの議論はスタートしたものの、当初は、雰囲気はあまり盛り上がらず、話し合いに参加する住民はごく一部だったようです。住民の中には、町づくりの理想を語っても所詮夢物語だという声もありましたが、一方で、もう一度家を建てたいという声もありました。次の話し合いでは、自由に意見を出し合った後、グループごとにキーワードを出し、キーワードに共通するものはないか、と議論を重ねました。

そして、「地域・コミュニティーを大事にする新しい町」という共通したキーワードを元に、子供やお年寄りが集まれる芝生に囲まれた広場がほしい、という意見がまとまりました。集団移転の話が出てから、7ヶ月という異例の早さです。震災直後の岩沼市の行政の対応が大きな役割を果たしたのです。

突然起きた地震と津波で29ヶ所の避難所にばらばらに逃れた方々に、集落ごとに同じ避難所に集まるよう指示を出した当時の岩沼市の市長さんは、阪神淡路大震災で支援に関わった経験がある方だったそうです。災害を熟知した人が行政のトップにいることは心強いことに違いありません。市長さんはコミュニティー単位で助け合い、励まし合い、語り合うことが非常にいい結果を生むと思われていたようです。その結果、地域でまとまって仮設住宅に入居することになり、コミュニティーの団結力を保つことができたようです。これが後で住民合意の大きな力になったのです。

2012年6月、岩沼市は町づくり検討委員会を設置し、各地域から3人ずつ代表が集まり、住民と市が初めて同じテーブルにつき、話し合いが始まりました。ここから1年半をかけ、毎回テーマを決めて、話し合っていきました。そして、それらの意見を元に、市が一つの町の模型を作っていきました。

かつて住んでいた町の記憶をとどめる新しい町の構想が出来上がりました。町の四ヶ所に芝生の公園を配置し、町を取り囲むように防風林(イグネの木)を植えていくというものです。回を重ねていくうちに、「私たちが作り上げる町」という意識が生まれてきました。そして、2012年8月、工事が開始されました。移転事業の中で岩沼市はトップランナーになりました。

それにはいくつかの要因が考えられます。まず岩沼市が震災直後に避難所を再編し、過去の集落ごとにコミュニティーを造り、住民の意見集約をスムーズに行い、移転先をどこにするか決めたことがあげられます。また、専門家のサポートを受けながら住民が徹底的に議論を重ねたことや、住民が白紙から議論を始めた後に行政がその議論に加わったことも要因の一つです。一見、遠回りに見える、このやり方が結果的に住民の合意を早めたことにつながりました。

しかし、まとまったかのように思われた結論でしたが、新たな壁にぶつかりました。公園は市の税金で整備するために、特定の地域だけを芝生に出来ないという行政上の問題が出て来たのです。防風林や芝生の管理を地域住民でやってもらいたいということでした。それに対して、住民たちは、市ができないなら自分たちでやろうと考えました。自分たちが住みやすい町を作るには、何をしなければいけないかを考えました。今だけ良ければいいのではなく、10年後、20年後のためを考えながら町づくりを検討しなければいけないと、意見がまとまりました。自己負担を覚悟で芝を植えることを決めました。

そんなある日、住民の方々は地域の墓地に集合しました。年に数回、共同で行われる墓掃除をするためです。この町では、昔から様々な共同作業が行われていました。作業が終わった後は、町の広場にみんなで集まり、お年寄りや子供たちも一緒になって過ごしました。新しい町でも、みんなで作業し、みんなで集まる場所があればいいなあと住民たちは言いました。

2014年8月、新しい町の公園予定地に150人の住民が集まりました。そして住民たちの手で芝を植えました。最初は、一部の住民から始まった町づくりが、いつしかここに住む人全員が関わる自分たちの町づくりになっていました。津波ですべてを失ってから3年半、被災地にゼロから積み上げてきた自分たちの町が生まれようとしています。

私は岩沼市の取り組みから、忘れかけていた様々なことを教えられました。岩沼市の住民は、東日本大震災で肉親を失ったり、家の再建のために多額のローンをかかえたり、言うに言えない困難な中を通って来られた方々ばかりだと思います。被災地全体を見ると、未だに多くの方々が仮設住宅での生活を余儀なくされています。また、様々な理由から集団移転も遅れています。しかし、岩沼市の方々は、どんな壁にぶつかっても、ふるさとを作り直したいという強い思いと、将来への希望を持っています。わたしはそのことをはっきり感じることができました。

昔は、岩沼市だけに限らず日本中で、また世界中で、地域単位で様々な共同作業が行われ、たすけ合って暮らしていました。真柱様は諭達第3号の中で、人と人との関わり合いが希薄になってきている現在、「今こそ、道の子お互いは挙って立ち上がり、人々に心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽くすべき時である。」と仰ってくださっています。

改めて、家庭、地域、職場、布教所、教会での人と人との関わり合いを見直し、お互い歩み寄る努力をし、たすけ合いを実行して、足元から陽気ぐらしの輪を広げていけたなら、やがて親神様の望まれる神人和楽の陽気ぐらし世界に、一歩でも近づくことができ、また、親神様にもお喜びいただけるものと確信しています。

ご清聴、ありがとうございました。

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