Tenrikyo Europe Centre

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2015年10月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

さて、10月の大祭をつとめる意義は、世界人類の平和を祈念することと同時に、我々信者が立教の元一日に思いを馳せることにあるとお聞かせ頂きます。

信者ひとり一人が、この教えが何のために開かれたのかを深く問い直し、その目的に向かって新たなる一歩を踏みだす日とするようにすることが大切です。

おふでさき

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ十四号 24

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから十四号 25

せかいにハこのしんぢつをしらんから
みなどこまでもいつむはかりで十四号 26

とあります。

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから十四号 25

親神様は、いずんだ心で暮している我々が、陽気尽くめの心になるように、教祖を社として、1838年10月26日にこの教えをおはじめ下さいました。今から178年まえのことであります。

教祖、中山みき様は、地上に於ける親神様として、人類の母というお立場で、人生の様々な悩みに苦しむ人々に真の幸福へと向かう道を伝えられました。教祖は、あらゆる困難を乗り越え、親神がその身体に入込まれて後、50年もの年月の間、口で伝え、自ら書物を残され、また何よりもご自身の人生を通して教えを体現して下さりました。これを「ひながた」と呼びます。

教祖のひながたに一貫していることは、自分以外の人々全てに向けられた分け隔てのない愛情です。その愛情とは、通常、親が子に対して持つ無条件かつ限りの無いものでありました。ですから、「ひながた」を辿るとは、ひとつには、家族も含めた他人に対して、限り無い愛情を注ぐことだとも言えると思います。

ひながたの道として教祖はまず、貧のどん底への道を通られました。

難義不自由からやなけにゃ人の難義不自由はわからん (明治23年6月12日)

と、この事についてのおさしづがありますが、教祖は、まずは相手の立場に立つことの大切さを示されたのです。

かしものかりものや、十全の御守護などの様々な教えを伝える何よりも前に教えられた事と言えます。私達には、自分が気づかないうちに、この相手の気持ちを分ろうとしない自己中心的な考え、または他者への愛情の範囲が狭い人に陥ってしまう傾向があります。

そのことを、親神も嘆かれ、おふでさきのなかで、

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので十二号 90

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ十二号 91

と、我々に、人を助ける心がないことをなさけなく思われて、早くその心を入れかえるようにと仰っています。

しかし、一方で、比較的、自己中心的な考えで生きている人が、周りの人には思いもよらず、自分のことを忘れて、他人を助けることに熱中するという場合があるのも事実です。

自己中心的な心の状態というのは、いわば、人間の浅はかな智慧が行動を支配している状態であり、反対に他者を思いやる気持ちが心に溢れている状態は、陽気ぐらしが出来るという元のいんねんを供えた魂がしっかりと心にその原生の輝きを映し出している状態だと思います。

それで、いざというときには、人は、頭での考えた行動よりも、元の因縁から来る衝動が勝って行動してしまうのです。

教祖は、おふでさきの中で、人間に根源的に悪い者はいないと仰りました。

よろづよにせかいのところみハたせど
あしきのものハさらにないぞや一号 52

一れつにあしきとゆうてないけれど
一寸のほこりがついたゆへなり一号 53

親神様が私達に望まれていることは、陽気ぐらしができる元の因縁ある魂の状態に立ち返るということです。

それが為に、私達は、日々から「あしきをはろうとたすけたまえ てんりおうのみこと」と親神様に唱え、埃が払われた私達の陽気で勇んだ心に親神様の心が映るようおつとめをつとめるのです。また教祖の道具衆として、人だすけにお使い頂くようお願いさせて頂くのです。

天理教の信仰実践で重要なことは、おつとめをつとめることと人だすけであります。なぜなら、私達は、人だすけを通して因縁を切って頂くからです。もし今、あなたが喜びの少ない人生を送っているとすれば、その根源的な理由は、前世より積んできた埃により出来た因縁によるものと考えられます。その因縁を切替えるための手段が、おつとめをつとめることと、人をたすけることだと教えられているのです

真剣に人を助ける行いの中では、自分の事を忘れることが多々あります。言わば、ほこりの心遣いから解放されている状態が作られ、それにより、ほこりが浮上り、払いやすくなる状態となるのかもしれません。

人をたすけるといえども、様々な形があります。大きなことを考えて立止ってしまうよりも、自分が得意なこと、できること、明るい笑顔、やさしい一言、相手の話をとことん聞くことなどから始めることも一案です。

自分一人ですることだと考えると二の足を踏んでしまいます。

そもそも、ひとだすけもにおいがけも、自分の力だけで、やり遂げようと思ってできる事ではありません。どのような些細に見えることであっても、全ては、教祖がお働きくださっての事です。

二代真柱様はようぼくと教祖の関係について次のようにお諭し下されています。

「皆さんは、教祖の道具衆なのであります。教祖の心に入り込んで頂いて、教祖おつとめ、世界一列に陽気ぐらしを味わって頂くにをいがけの道具となり、陽気ふしんの用材となって、持ち場、持ち場を固めて頂きたいのであります。」さらに、「皆さんはおさづけを取り次がして頂く。それによって陽気ぐらしの理を教祖の思し召しを未だ道を知らない人に伝える事ができる。皆さんは人をたすけさせて頂く、というよりも、教祖に代わって理(その人がたすかる道筋)を取り次がせていただくのである。教祖に代わって理を取り次がして頂く事。すなわち、教祖の道具衆なのであります。」とお教え下されました。

2016年1月26日には、いよいよ、おぢば教祖130年祭がつとめられます。この年祭は、私たち信仰者にとってまたとない「旬」だと言われています。

旬とは、普段頂戴している神様の御守護、親神様の救いの働きが最も盛んな時期のことで、我々がそれにふさわしい努力を重ねれば、無理だと思うようなことでも、不思議な御守護も頂けるとお教えいただいております。

この「旬」について、おさしづには以下ように説明されています。

旬が来る。旬と見たら運ばねばならんで。(明治23年7月22日)

旬ならば、ならんと思えることでも成ってくる。どんな反対があっても成る。(明治34年4月16日)

しかしながら、そのような旬が旬として働くのは、勿論私たちの心の持ちよう一つであります。

心一つの理を以て、ひとつの旬という。(明治22年10月4日)

というおさしづがある通りです。

年祭は、それを目標に全教が一手一つになって年祭活動に取り組み、そしてその成果や成人した姿を御存命の教祖にご覧頂き、お喜び頂こうという節目であります。

勿論、親神様の教えを伝える事はようぼくでなければ、出来ない事ではありません。まだおさづけを頂かれてない人も、一言の教祖のお話を積極的に取り次ぐことが、他に無く教祖に喜んで頂くことになります。

最後になりますが、先月、お蔭様を持ちまして、青年会総会、ヨーロッパ天理教の集いにそれぞれ、91名、124名もの方々にお集まり頂き、大きな問題もなく、盛大に開催させて頂けました。ここに改めまして篤く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

青年会長、真柱後継者の中山大亮様は、ご本部での年祭を目前に控えた大変お忙しい中にもかかわらず、ヨーロッパまでお越し下さりました。

そして、お話下された一人ひとりに、1月26日の教祖の年祭、また青年会員には、7月インターナショナルひのきしん隊にも是非とも帰って来て頂きたいとお声をかけてくださいました。年祭前に教祖から我々を勇ますために頂戴したこの親心にお応えする道は、やはり年祭に一人でも多くの人をお連れすることにあると思います。

年祭までの残りの日数、ともどもに最後まで努力を続けていくことをお願い致しまして、私の講話を終えさせて頂きます。

ご静聴ありがとうございました。

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