Tenrikyo Europe Centre

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2005年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

ただ今は、皆様とともに陽気なおつとめを勤めさせて頂き、誠にありがとうございました。

1月の大祭に当たりまして、一言お話をさせて頂きます。しばらくお耳をお貸し下さいますようお願い申し上げます。

先ほど勤めましたおつとめの冒頭、あるいは、朝夕のおつとめ時冒頭、私たちは「あしきをはろうてたすけたまえ、てんりおうのみこと」と唱えます。天理教には、またはえでのおつとめとか、をびやづとめといったおつとめがあります。歌の文句や鳴り物の叩き方は若干変わりますが、いずれも冒頭の文句は「あしきをはろうて」であります。ということは、神の守護を受ける前提、言い換えるとたすかる前提は「あしき」を払うことであるということであります。

この「あしき」とは何でしょうか。これは、小は、家庭内の諍い、また盗み、詐欺、暴力、強盗、大は戦争まで、およそ人間が平安に暮らすことを妨げるもの全てであると思います。加えて客観的に見れば人間の内に原因がないように見えるもの、不慮の事故、病気、自然災害なども含まれるでしょう。

これらのことが起こって来る原因があります。それが、八つのほこりに代表される人間の心に存在するほこりであります。これが、積もり重なって、こういった諸々の悪しき現象が現れます。今述べましたように、事故、病気、自然災害などは、人間の心とは関係ない、言わば不可抗力のように思いがちですが、決してそうではく、これも人間の心のほこりの集積の結果と考えるのが天理教の教えであります。

八つのほこりは、それ自体は実に些細なものですが、それが大きくなると拭いても掃いても取り除きにくくなります。それが、大きな身上や事情を頂く因となります。従って、日常の生活の中で、絶えまなくそれを払う努力が求められるのです。

そのあしきを払うのは、神でしょうか人でしょうか。おふでさきから考察してみますと、

せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
神がほふけやしかとみでいよ   (III-52)

さらに、

いまのみちほこりだらけであるからに
ほうけをもちてそふぢふしたて  (III-145)

とあります。神が箒であり、箒を持って掃除をせよと説かれておりますから、神を箒として人間があしきを払うということです。つまり、神の教えを箒として、それを実行する人間の努力によって自らのほこりを払うことができるということです。逆に言えば、いくら神の素晴らしい教えを聞いても、それを多少なりとも実行しなければ、ほこりは払えということになります。いくら素晴らしい箒や掃除機があっても、それを使わねば埃は払えない、掃除は出来ないのと同じであります。

このほこりをどうすれば払うことができるのでしょうか。まず、ほこりが立つ原因を考えてみたいと思います。特に「腹立ち」のほこりについて考えてみたいと思います。このほこりは、ほとんど全ての男性にあるのではないでしょうか。もし、男の方に「貴方は短気でしょう」と問えば、私の経験では少なくとも九割の男性が「はい」と答えられます。私も同様であります。腹立ちのほこりは、それほど多くの人が持っております。何故、いつ、腹が立つのでしょうか。

実は神自身も、腹を立てておられるときがあります。おふでさき

なにもかもごふよくつくしそのゆへハ
神のりいふくみへてくるぞや    (II-43)

とあります。強欲を尽す者には、神の立腹が表れると表現されています。このように、人間が余りにも道理を外れた時、神はそれを知らそうと身に障りを見せられたりする。それを、神の立腹と表現されています。これを教典では、「子の行く末を思えばこそ、時には厳しい意見もする」と述べられております。私たちも、子供を教え導くために、きつく叱らねばならないときもあります。あるいは、人が不正をはたらいているとき、それを諫め、糺す時にきつく言わねばならないときもあります。組織の上の方に立つ人であれば、なおさらのことでしょう。こういったものは、確かに腹立ちではありますが、ほこりとは言えないと思います。

問題は、我が身勝手の考えから腹立ちを起こすことであります。物事が自分の思い通りにならないとき、腹が立ちます。また、人にけなされたとき、腹が立ちます。人によっては、物に当たり散らす人もあります。腹立ちのほこりの特徴は、他のほこりと違い、周囲にいる人をも不快にさせることです。当たり散らす人を見て、心地よく思う人は絶対にいません。つまり、このほこりは、他人にもほこりを積ませる原因にもなります。これを防ぐためには、究極的には「たんのう」、つまりいつでも喜べる心になることしかありません。しかし、現実に人はそう簡単にたんのうの境地に至るものではありません。

私は、たんのうの心になる前段階があると思っております。それは、辛抱ではないでしょうか。誤解しないで頂きたいのですが、辛抱とたんのうは違います。教典にも「たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ころうとも、その中に親心を悟って、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである」と記されております。ただ、私は、辛抱はたんのうの境地に至る前の、一つの通過点のようなものではないかと思うのです。ですから、辛抱するということは、非常に大事なことだと思っております。まず辛抱をしてみて、そこからたんのうへの足取りを進めることもできると思うのです。では、辛抱ができるようになるには、どうすればよいのでしょうか。これが殊の外、難しいのであります。

ところで、皆さんはアメリカのニューヨークという町をご存じと思います。この町はかつて世界一治安の悪い大都市でありましたが、今、パリや東京よりも治安が良いのだそうです。なぜ、そんなに変わったのでしょうか。

「窓ガラス理論」というのをご存じでしょうか。ニューヨークはこの「窓ガラス理論」を実行した結果、治安の良い都市になったのでそうです。「窓ガラス理論」とは何でしょうか。窓ガラスに少しひびが入り、そのまま放っておくと、段々広がり、最後にはガラスは粉々になってしまいます。車のフロントガラスなども同様です。粉々になるのを防ぐためには、最初に小さなひびが入った時点ですぐに処置をすることです。

つまり、小さないたずら、犯罪を放っておくと、段々治安も悪くなり、しまいには大きな犯罪が多発するようになるのだそうです。そこで、ニューヨークでは警察官の数を増やし、落書きなど小さな犯罪でも、これを放っておかずに、小さなうちに消していったのだそうです。そうすると、段々街全体の犯罪が減っていき、そして現在のような安全な町になったのでそうです。

これを人間の心に当てはめることができます。腹立ちは、まず激しい言葉になって表れます。そして、その自分が発した言葉にさらに心が乱されて、ますます腹が立ってきます。いわば腹立ちが悪循環してまいります。丁度、ひびの入った窓ガラスが、少しずつ壊れていくようなものです。そこで、小さなところから、予防します。つまり、出来るだけ、普段から、意識してきつい言葉、汚い言葉を避け、優しい言葉を使うように心がける努力をするのです。そうすることによって、私は腹立ちが幾分でも抑えることが出来るのではないかと思っております。

教祖は、「腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」(逸話編137)と、腹立ちを抑え、言葉使い一つで家庭の中が円満に治まることもあると教えられています。あるいは「五つ、いつものはなしかた、六つ、むごいことばをださぬよう」と述べられ、惨い言葉を避けて、いつも変わらぬ丁寧な話し方をせよと言われています。

考えてみれば、私達の周囲でも「ちくしょう」とか「馬鹿野郎」といった乱暴な、汚い言葉を使う人は、腹立ちしやすい人が多いのです。逆に、丁寧にものをいう人は、性質も穏やかであります。その逆、つまり汚い言葉を使うが、性格は温厚で明るいという人は、あまり見かけません。

言葉に気を遣い、誰に対しても優しい言葉を使う。この小さな努力をずっと務めていくことによって、今まで腹を立てていたことでも、少しずつ辛抱ができるようになるのではないかと思います。そして、その辛抱が、やがて辛抱ではなくなり、時としては、教祖の教えられるたんのうの心境にたどり着けることになります。辛抱というトンネルを通り抜けると、たんのうという明るい大らかな境地が待っております。

教祖は、子供にも丁寧な言葉を使われたといいます。また教祖伝や逸話編を読むと、懇切に説明しておられるのがよく分かります。教祖は、拘引に来た警察官にさえも、優しい言葉を掛けておられます。痛快なのは、拘引に来た警察官に、今自分は食事中であるからとて、警察官にも勧めておられる場面があります。この場面を教祖伝に読んでみます。

教祖は、拘引にきた巡査に向い、「私、何ぞ悪い事したのでありますか」と、仰せられた。巡査は、お前は何も知らぬが、側について居る者が悪いから、お前も連れて行くのである。と言った。教祖は「左様ですか。それでは御飯を食べて参ります。ひさやこのお方にも御飯をお上げ」と言いつけなされ、御飯を召し上がり着物を着替え、にこ/\として巡査に伴われて出掛けられた。

と記されております。この巡査が勧められて食事をしたかどうかは記されておりませんが、恐らく、彼はこの教祖の態度に面食らったことでありましょう。拘引に来た警察官に向かって、一緒に食事を食べませんかと言われ、食後は笑顔で出掛けられたのですから、尋常な人間の態度ではありません。これは、私の想像ですが、こういった態度に感化されて信仰の道に入った警察官もたくさんいたのではないでしょうか。

おさしづに「言葉一つがようぼくの力」と教えられます。また逸話編には次のように記されております。

やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家に帰って、女房が、貴方おかえりなさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆というけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。

女性だけではありません。言葉使いは男性にとっても、大事なことであります。「おさしづには、「皆来る者優しい言葉掛けてくれ/\。道には言葉掛けてくれば、第一やしきには優しい言葉第一。・・・年取れる者も又若き者も言葉第一。・・・男という女という男女に限りない/\」とあります。優しい言葉を掛けることは、老若男女を問わず最も大切であると述べられております。

このように、言葉一つで、人を生かすことも大いにあるのです。もし、言葉で人を生かすことが出来たなら、それはおたすけとなります。みかぐら歌には、「ひとことはなしは、ひのきしん」とあります。優しい言葉を掛けることは、ひのきしんでもあります。無論、逆に言葉は人を殺すこともあるし、同時に、自分自身も自分の言葉によって、殺されてしまうこともあるのです。これは厳に慎むべきことでしょう。

ところで、おつとめを奉仕するとき、通常、私達は、着替えます。本日もこうして着替えておつとめをしております。それはこの着物に特別な意味があるわけではありません。それは、いわゆる正装をすることによって、緊張感に包まれて、日常とは心が変わり、聖なる気分になるからでありましょう。着物を着替えることによって、聖なる心でおつとめを勤めることが出来るのです。日本人は、正月に服を着替えます。これも、服を着替えることによって心が清々しくなり、その澄んだ心で新しい年を迎え、さらに、そのことにより、今年一年が良い年であってほしいと念願するからであります。逆に、汚い乱れた服装をしていると、緊張感に欠け、心も乱れます。誰しも同じではないでしょうか。従って、普段の汚い恰好のまま、おつとめをすると必ず、手を間違えたり、鳴り物を間違えます。

言葉もこれに似てはいないでしょうか。汚い言葉を使っているとき、決して心は清くありません。いわば、言葉は心の着物のようなものでしょう。務めて、きれいな言葉、優しい言葉を使うよう心がけたいものです。「人をほめる話は、人に錦を着せたも同じ事」とも教えられます。

心のほこりを払うことは、誠に難しいと思います。しかし、常の言葉使いという小さなところから努力して、腹立ちを抑えていきたいものです。小さなほこりを放っておくと、ひびの入った窓ガラスのように、段々ひびが広がっていき、最後には完全に壊れてしまいます。

ご静聴ありがとうございました。

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