Tenrikyo Europe Centre
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天理教海外部長 宮森与一郎
本日は、ヨーロッパ出張所の3月の月次祭並びに7代所長就任の奉告祭に参拝する機会を頂きましたので、時間を頂戴して、考えますところをお話したいと存じます。少しの間おつきあい下さいます様にお願い致します。
さて、先程はヨーロッパ各地からお集まり頂いた皆さんが、心を合わせ、陽気に、一心に「おつとめ」を勤めてくださいましたのだろうと思います。
いま、「だろうと思います」と言いましたが、それは、「心をあわせ」「陽気に」「一心」と表現した事柄は、全て皆さんの心の中の事であり、私には計り知れないからであります。目には見えていない事柄であります。
ところが、「おつとめ」を勤める時には、この心の持ち方が一番大切ではないかと思うのであります。
本当のところは、手おどりの姿や、鳴り物の音などといった形に見えたものよりも、もっともっと大切ではないでしょうか?
つとめでもどうゆうつとめするならば
かんろふだいのつとめいちぢよ(おふでさき 十号21)
と教えられるように、「つとめ」とは、人間創造の親神様の働きの姿を「ぢば」かんろだいを囲んで勤めるおつとめで、「世界だすけ」のために勤めるものであります。
それでは、今、皆さんがつとめて下さったヨーロッパ出張所での「おつとめ」は何なんでしょうか?
おぢばで勤められる「おつとめ」の理を受けて勤めるおつとめであります。
では、「理をうけて」とはどういうことでしょうか?
それは、おぢばでの「おつとめ」を勤めるのと同じ思いになって、と言う事であります。
私達の心を受け取ってくだされるから、「理」すなわち神様の御守護が現れるのであります。
このつとめせかいぢううのたすけみち
をしでもものをゆはす事なり(おふでさき 四号91)神がでてせかいぢううをはたらけば
どんなつとめもこはみないぞや(おふでさき 十三号55)
との、お言葉通りの御守護を信じ、一手一つにみんな揃って、澄み切った誠真実の心となって、陽気に勇んで勤められるかどうかにかかっているのであります。
それでは、まず最初に、澄み切った誠真実の心とはどんな心でしょう?
どなたか答えはありますか?
1887年1月26日、初代真柱様は、その時居合わせた人々に、「おつとめのとき、警察からいかなる干渉あっても、命捨てても、という心の者のみつとめせよ」との話がありました。
何故この様に言われたのか?修養科を修了した人や、ヨーロッパセミナーを受講した人ならわかりますよね。
どなたか答えてください。
簡単に言えば、
数々の困難の中も、教祖は一貫して「つとめ」をつとめることを急き込まれたのでありますが、終始「おつとめ」を勤める事を禁じ、妨害する政府警察権力は教祖を拘引し投獄する日々が続いたのであります。
初代真柱様始め信者の方々にとっては、教祖の仰せ通りにしたくても出来ない苦悩の日々でありました。
「おつとめ」をすれば、また警察が教祖始め「おつとめ」を勤めたもの皆を投獄監禁するのはわかっている。それでも教祖は「おつとめ」をせよと迫られる。
皆さんだったらどうしますか?
何度も、教祖と初代真柱様の間で押し問答がありました。
政府から認められる様になったら「おつとめ」をします、と答えられる真柱様に対し、親神様の御守護あってのこの世界であり、この世界あっての政府や法律なのだと説かれる教祖は、皆のおつとめを勤めるという「心定め」が第一であると仰せになります。
いよいよ、1月26日教祖のお身体の様子がすぐれない状態となり、冒頭の真柱様の言葉となったのであります。
この時、おつとめに出た人々は、二度と家には帰れない覚悟であったのでしょう。着物を重ねて、足袋を重ねて身につけておつとめに臨まれました。
この時の役割が記録に残ってあります。
かぐらづとめは、男9人で、女は上田いそさん一人でした。
教祖は男5人、女5人でと教えられたはずです。
当時、このメンバーの中で比較的年齢の若かった私の曽祖父は、この日女性の着物を着て、女面をつけていました。
ておどりは6人すべて男でした。男3人、女3人と教えられていたはずです。
鳴り物は、琴中山たまえ様、三味線飯降よしえ様、小鼓橋本清と3つだけであります。9つの内の3つしか記録にないのです。
小鼓の役の橋本清はこの後、おぢばを離れ、東京で天理教反対運動をする人です。そんな人まで記録に残し、稿本天理教教祖伝に名前を記しているのに、他の鳴り物の役の名前がないのです。
おつとめの役は不揃いでした。
教祖は50年かかって、みかぐらうたを教え、手振りを教え、鳴り物を教え、おつとめを勤める場所であるぢばを明かし、かぐら面をととのえ、かんろだいを教え、勤めの人衆を定めていかれました。
このよふをはじめかけたもをなぢ事
めづらし事をしてみせるでな(おふでさき 六号7)このよふをはじめてからにないつとめ
またはじめかけたしかをさめる(おふでさき 六号8)
全ては、世界だすけのためであります。
あれだけ教祖が急き込まれて、やっと勤めたおつとめが不揃いでした。人が居なかった訳ではありません。50年もかかって完成を急き込まれたのに、であります。
ところが、稿本教祖伝を見ると、「教祖は満足げに鳴り物の音を聞いておられた」とあります。
いったい、何に満足されておられたのでしょう。
それは、「どんな中でも、私がつとめさせていただく」という心に満足されたのではないでしょうか。
これが「澄み切った心」であります。
ただ単に、よく出来た人だとか、欲のない人だとかだけではなく、「どんな中でも」神様の御用をつとめる心が「澄み切った」であります。条件を付けては「澄み切った」とは言えません。
そして、「誠真実」とは人をたすける心であります。
最初に言いました、「澄み切った誠真実の心」とは、どんな中でも、人だすけの御用は私が勤めさせて頂くという心であります。
まず第一に、澄み切ったこころでおつとめに臨んで頂きたい。
そして、その心のまま「おさづけ」の取り次ぎにかかっていただきたいのであります。
さて、天理教教典の94ページに
「一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集まっても、一手一つの理を書くならば、親神に受取って頂けない。人皆、相互いに一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける」
と述べられてあります。
一手一つとは、一人一人が親神様の教えに合わせるのであり、誰か一人の人に他の人が合わせるというものではありません。
このさきはかぐらづとめのてをつけて
みんなそろふてつとめまつなり(おふでさき 一号10)
おつとめに臨む心が、皆揃っていなければ「おつとめ」にはなりません。一人では勤められないのが「おつとめ」であり、いくら大人数の人が集まっていても、心が揃っていなければ何の意味もありません。
また、心がバラバラなおつとめは、現われた姿もバラバラなおつとめになってしまっています。
くわえて、自らが親神様にたすけられていることの自覚なしには行えないのが、おつとめであります。お互いに、親神様によってたすけられていることの喜びを分ちあうのがおつとめであります。
以前に、このヨーロッパ出張所でも少しお世話になった事があるKさんという方が私の教会に住み込んでいました。
元所長の永尾教昭氏に頼まれて、おぢばで預かる事になったのですが、どこへ行ってもすぐに「困ったので、何とかしてください」と言われます。海外部でも、一緒にひのきしんをする人達から、「どうか、他へ移してもらいたい」と言ってきます。
何故なのか万策尽きて、仕方なく私の教会に住み込んでもらう事にしました。訳はすぐに分りました。感謝の心がないのであります。
信者さん達がどんなに親切にしてあげても、御礼を言うどころか、文句を言います。例えば、お寿司をつくってあげても、食べた後で「甘すぎて身体に悪い」などと、平気で作ってくれた人に言います。
それでも、行き先がないので、教会にいました。
おつとめの練習日に笛を吹いてみると、これがどうした事か大変に上手に吹くのです。教会の誰よりも上手です。
性格は非常に悪いのですが、笛は上手い。褒めると、練習をします。よく練習をするので、おつとめに出してはどうかと奨める人もいたので、出てもらいました。
暫くすると、「今日は地方が悪かった」「地方は笛に合わせなければいけない」等といいだしました。いくら上手く鳴り物を鳴らせても、これではおつとめを勤めた事にはなりません。
音楽的に揃っていた、形が揃っていただけでは、一手一つとはいえません。
皆さんには、心が揃った一手一つのおつとめを勤めて頂きたいのであります。
これが二番目の心です。二番目は一手一つの心です。
まだ、一番目の心は何だったか覚えていますか?もう、忘れましたね。一番目は「澄み切った心」でしたね。
それでは、三番目は何かというと、「勇んだ心」であります。
だんだんとせかいの心いさむなら
りうけもろともみないさみでる(おふでさき 十号82)
と、全ての御守護の元は、私達の勇んだ心にあると教えられています。
また、
「さあさあ心得心得、勇み来れば勇む道がある。思やんすれば思やんする道がある。一時に治めようと思えば、治まる理がある」
(おさしづ 31・8・4)
とあります。
ところが、勇めと言われても、勇めないのが私達であります。
勇むための方法は二つあります。
一つは、「今の私が私である」事を理解することです。言換えれば「私はこの程度なんだ」と分る事です。これは、説明が長くなるので、今日はやめましょう。次回に機会があればお話しましょう。
もう一つは、「この人を勇ますのはどうすればいいんだろう」と考えることです。人を喜ばす事ができれば、こんな面白い事は他にない事に気づきます。本当は、他人を喜ばした人の方が喜べます。
人を叱責すると、叱責した方も、された方も気分が悪い。面白いものですね。他人を罵倒しておいて、心が晴れると言う人は変人です。友達にならない方がいいでしょう。
おつとめは、他の人達と心をあわせ、周りがどれだけ気持ちよく勤められるかに気配りしながらつとめる事が肝心です。
皆がしっくりと調和したおつとめになれば、自然と勇んできます。
自分を奮い立たせる必要はありません。隣の人を元気にしてあげて下さい。
おつとめを勤める時の3つの心を忘れないでください。
「澄み切ったこころ」「一手一つの心」「勇んだ心」の3つです。
これは「おつとめ」の時だけではなく、いつも心がけていただきたいのであります。
この度、前田中所長に代わって、長谷川善久君が所長の任を引継ぐ事になりました。
新所長に期待することは、皆さんをリードして先頭に立つ事ではありません。
期待している事は、各地に点在されるようぼくの方々が、出張所へくれば「教祖のひながたの道を思いおこして、澄み切った心になれる」と思ってもらえる様になることです。
出張所へ行けば「勇んだ心になれる」、「皆さんと心を合わせられる」と思ってもらえる様になることです。
ここは、ヨーロッパの皆さん方の出張所です。ですから、皆さんで「澄み切った」「一手一つの」「勇んだ」出張所にしていただきたいのであります。
ここの雰囲気は、土地や建物が作り出すものではありません。ここの雰囲気は皆さんの合力が生み出すものです。
ですから、今回の所長はここに永く住んでいる人としました。
ヨーロッパのようぼくの皆さん、まだまだ世界のようぼくは微々たる人数しかいません。
せめて、こうして同じ時期に、同じこの地に住まう、同じ教祖の道具衆が力を合わせて、頼もしい道を作らせてもらおうではありませんか。
最後に、どうか新所長をよろしくお願いいたします。