Tenrikyo Europe Centre

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2024年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

私たちは先ほど一月の大祭をつとめさせていただきました。今日の大祭をつとめるにあたって気持ちの上で大切な点は、教祖のひながたの最後をもう一度思い起こすことです。そして、その限りない親心への感謝の気持ちを新たにさせていただくことです。西暦1887年1月26日、教祖は、世界たすけを進めるうえから、姿を隠し、広くおさづけの理をお渡しくださるようになりました。姿は見えませんが、日本のみならず世界中どこにでもお出掛けくだされ、私たちを導き、陽気ぐらし社会実現のための道具としてお育てくださるようになったのです。25年の定命を縮めてまでも人間をたすけてやりたいと思ってくださった教祖に感謝の念を持つことは、その親心にお応えしている自分であるだろうかと自問することに繋がるとも思います。

さて、現在、教祖140年祭に向けた「三年千日」活動において、皆さんも、現在、多くの御守護をいただける旬として日々の信仰生活を歩んでおられると思います。

おさしづ

一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\、とんとどんならん。明治22年7月31日

とあるように、今は、将来の幸せに繋がる信仰実践という種を蒔くもっとも適した時期だということを思い返していただきたいと思います。

そこで、今日は、真柱様が発布くだされた諭達第四号について、少しお話をさせていただきたいと思います。まず、諭達の文章の中心構成は大きく分けますと2つあると思います。一つ目は、2行目「親神様は」に続いて「以来、教祖は、月日のやしろとして」から展開され「この五十年にわたるひながたこそ、陽気ぐらしへと進むただ一条の道である。」で締め括られる教理理解の部分です。

そして2つ目は、「今日、世の中には」から始まり、「親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。」までが示している言わば信仰実践です。

教理と実践の2つが中心におかれていると思います。

加えて、この二つを挟むように冒頭に諭達発布と教祖年祭実施の意味、最後に再度、「この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。」 と年祭活動の進め方とその成果を持って、教祖に安心、喜びをもたらしたいという真柱様からの私たちに向けた切なる願いになっています。

さらに言えば、冒頭の「全教の心を一つにしたい」とは、道の兄弟としての私たちの横のつながりを求めておられ、そして後の方にある、「先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである」では、縦のつながりを意識させる構成になっているとも言えるかもしれません。

今日は諭達全文ではなく、冒頭から 「教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。」までに絞って話をすすめさせていただきます。

まず冒頭、真柱様は私たちに向けて諭達を発布なさった目的を述べられています。それが「全教の心を一つにしたい」です。「一つにしたい」とは、言うまでもなく皆が同じ事をする意味ではありません。全信者が、一同に自らの信仰生活を振り返るなかで、自分と教祖の関係を見つめ直し、そこから湧き出る喜びと感動をエネルギーとして信仰をより深めるということではないかと思います。

先程も諭達を拝読しましたが、年祭に向かう心、信仰を深める努力について自問してもらいたいと思います。諭達を読んではいるものの、ただ字づらを追っているだけで、心持ちの変化もないようでは、真柱様に申し訳ないことだと言わざるを得ません。

続く文章として、まず「親神様は、」が来ます。親神様は、何をなさったのでしょう?

陽気ぐらしへのたすけ一条の道を創めたのです。 どのようにしてでしょうか?

教祖をやしろとして」です。

この文章を受けて、次に「教祖は、」と始まり、最初のパラグラフで教祖に関する過去のこと、次のパラグラフで過去の事実一点と現在の事実一点が示されています。

まず過去になさったことが、「以来、教祖は、月日のやしろとして、親神様の思召をお説き下され、つとめを教えられるとともに、御自ら、ひながたの道をお示し下された。」に記されています。

つまりなさったことは、以下の三点。

  1. 親神様の思召をお説き下された。
  2. つとめを教えられた。
  3. ひながたの道をお示した。

そして、続くパラグラフを見てみると

そして、明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされたが、今も存命のまま元のやしきに留まり、世界たすけの先頭に立ってお働き下され、私たちをお導き下されている。

とあります。

先程に続く過去の事実の四点目として、定命を縮めたことが挙げられていますが、更に大事なことは、現在進行形の事実一点です。

その部分が、「今も存命のまま元のやしきに留まり、世界たすけの先頭に立ってお働き下され、私たちをお導き下されている。」から理解できる、教祖は、今現在も私たちをお導きくだされている点です。言い換えれば、よふぼくが、人々に出会うとき、そこには私たちの信仰心の発動を必要としている教祖の存在があると捉えることもできるでしょう。

次のパラグラフでは、以下のように年祭をつとめる意義が記されています。

この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。

さて、ここで言われている「この教祖の親心」とは具体的には何をなさった心を指しているのでしょうか?

私は、今見てきた先の2パラグラフの教祖の過去と現在についての5つの内容だと思うのです。繰り返しますと、1.親神様の思召をお説き下された。2.つとめを教えられた。3.ひながたの道をお示した。4.定命を縮めた。5.今も私たちをお導き下されている。

これらの事に対し、今度は私たちの立場からお応えすべきなのです。ではどのようにお応えすべきなのか?

答えは、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆となることだと思います。

では、「教祖の道具衆」とは、どういう人々なのでしょうか。

「年祭を勤める意義である」で終わる文章の後に、おさしづを挟んで、以下の様にあります。

教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。

教祖年祭を勤める意義は教祖の道具衆となる成人をすることです。そして、そのための三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを推し進めるためのものです。

つまり、教祖の道具衆となるためにひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを進めるのですから、結論的に道具衆とは、ひながたの実践が出来る人、そしてたすけ一条の歩みをしている人だと真柱様は仰っていることが分かります。

また、これを誰もが知っている言葉に置換えると、本来「よふぼく」と呼ぶのです。「よふぼく」とは、「教祖の道具衆」であり、「教祖の道具衆」とはひながたを実践し、たすけ一条の精神で日々を送る者なのです。

このように申し上げると、物凄く重苦しいと感じられる「よふぼく」の方もおれるかもしれません。しかし、御守護とは、導いてくださっている教祖を通して親神様がなされることです。見せていただく事柄を色々と詮索するよりも、私たちは、兎に角、誠真実をもって、その橋渡し役になりきることが、より実動しやすい考えかと思います。

諭達の中で、真柱様は、ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中で、私たちには、必ず教祖のひながたが紛れもない幸せに向けた真実だと確信する時が来るという意味合いのことを仰られました。そして、また「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。」と訴えられます。

教祖お一人から始まったこの道です。数が多いか、少ないかは問題ではないのです。私ひとりがどう行動を起こすかとのだと気づかされるお言葉でもあります。ひとりでは何もできない、やったところで何にもならないと思いがちな、数少ない私たちに、真柱様から向けられている言葉のような気がしています。

今の旬、一人ひとりが、教祖の道具衆としての誇りと気概をもって、小さなことからでも教祖がなさる人助けのお手伝いを勇んでさせてもらいましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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