Tenrikyo Europe Centre
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ヨーロッパ出張所長夫人 長谷川真理子
昨年も新型コロナウイルス感染症の影響を受けた一年となり、様々な制限下での生活も、むしろ板についてきた毎日のように思います。出かける時はマスクとワクチンパスポートを忘れないようにし、手洗い・うがいはもちろん、少しでも具合が悪ければ検査をする、それが当たり前となった一年でした。
このような状況下において、わたし自身強く感じましたことはおつとめとおさづけの大切さであります。
身上者の平癒はもちろんのこと、コロナウイルス感染症の収束をお願いさせていただいたり、また、ロシアとウクライナの情勢の収まりのお願いをさせていただいたり、その都度、出張所ではお願いのおつとめをさせていただきました。身上・事情に苦しんでおられる方々のことや、ニュースで見聞きする悲惨な状況は、自分の心がざわつき、でも自分ではどうしようもできない現状にひどく落ち込んでしまうこともあります。しかしおつとめをつとめました後は、こころが少し心が落ち着いていることに気付きます。おつとめをさせていただくということは、人の助かりを願うということだけでなく、つとめた人の心も落ちつかせ、助けていただいているんだと感じました。何もできない自分ではあるけれど、こうして神様にお願いをさせていただく術を持っていることは、本当にありがたいと感じます。
ある時、お子さんのおられる方が出張所に来られ、お話を聞く機会がありました。悩みを抱えておられるようでしたが、育児のことでの悩みだったどうしようかと、少し不安に思っておりました。お話を聞くと、私も似たような経験したことがありましたので、そのことを話しさせていただきました。するとその方は「私だけじゃなかったんだ」と仰られ少し安心されてたようでした。また、おさづけを取り次がせていただくと大変喜んでいただくことがきました。私には子育て論も育児のことを語ることはできないけれど、自分の経験は人の役に立つことがあり、何よりおさづけを取り次ぐことで相手の方に喜んでいただけたということが、用木としての役割を改めて感じる機会となりました。
どんな状況であっても、わたしはおつとめをつとめることができ、病気を抱えておられる方にはおさづけを取り次ぐことができます。当たり前のように思っていたことですが、ありがたく頼もしいことであると気づかせていただきました。
2012年2月に主人が出張所長の御名をいただき、今年で丸10年が経ちました。長い長い10年だったように思います。たくさんの方々に出会い、生活を共にしたり、いくつかの別れなど、悲しい出来事にも出くわしました。また、どうやって乗り切ったか覚えていないほどの忙しい日々もありまし、良いことも嫌なことも数えきれないくほど経験しました。この10年の中での大きな節目となりましたのは、昨年9月の出張所創立51周年記念祭でした。当初の予定より1年延期しての開催となりました。またコロナ禍ということもあり、おつとめ奉仕者・参拝者も決して多いと言える数ではありませんでしたが、賑やかに・なごやかにつとめさせていただくことができました。みなさまと共に無事に勤め終えることができ、大変うれしく思いました。
記念祭に於きまして、真柱様より次のようなお言葉を頂戴いたしました。
教えを実行するということは、ひながたを身に行うことであり、これが私たちの成人を進める確かな道であります。私たちがその道を通る上に心掛けることは、「たんのうとひのきしん」ではないかと思うのです。
たんのうという言葉の意味は、これで十分足りている、という意味ですから、もしも自分の心に不足があれば、たんのうはできないと思うのです。日常にどんなことが起こっても、自分の考え方の根本を親神様の元の思召に置き、教祖はどのように諭されたかということを思い出して、不足を治め、喜びに替えていく努力を積み重ねていくうちに、少しずつたんのうの心が養われていくのではないかと思うのです。
次に、ひのきしんは、信仰の喜びを日々の行いに現すことで、その行いの基本となるところは、親神様への感謝の思いであります。親神様から頂戴するご守護の数々に対する感謝の気持ちがその人の心の中にあるかどうかということが、ひのきしんをする上に一番大切な点であります。親神様のお恵みを身に感じ、守られている実感を味わうとき、自ずと親神様への感謝が沸き上がり、それが行いの姿に現れて来るのであります。だからひのきしんには決まった形はなく、様々であります。そして親神様は、こうした私たちの姿勢を真実としてお受け取り下さり、それぞれに徳を授けてくださるのであります。
このお道は、自分の心の用い方一つによって、いかなる心の苦しみも扶けて頂ける、誠にけっこうな道であります。親神様の御守護に感謝しつつ、自分の心を澄ます努力をし、教えられていることを実行することであります。そうして、お道の教えを、自分たちの考え方や日々の行いに示して、教祖に続く道を弘め、次の代へと伝えていって頂きたいと思います。
日頃から私は「たんのうとひのきしん」という言葉は胸におき、朝・夕のおつとめの時も「本日も一日、ひのきしんとたんのうの心で通らせていただきます」と言上しておりました。そのような中でこのお言葉を頂戴いたしましたので、口先だけで行動が伴っていない私に、その大切さを強く教えていただいたように思いました。たんのうの元の意味である十分足りているということ。自分に降りかかる身上・事情や災難も、神様がよい方へ導いてくださっていると何度も聞いてはいても、それを心におさめることはとてもむずかしいことです。
序盤に、おつとめをつとめることでたすけていただけると申しましたが、例えばそれは、何も考えず呪文を唱えるようにお歌を歌い、居眠りをしながらおつとめをつとめてもたすかるのかと聞かれれば、決してそうではないと言えます。おつとめのおうたは魔法の言葉ではありません。相手や自分のたすかりを願う上で、今までの自分の心遣いを振り返り、お礼とお詫び申し上げ、これからの通り方を考える。おつとめによって心のほこりを払い、心を澄ましていただくのです。おつとめもおさづけも胸を払う動きをします。心が澄めば、喜べなかったことが喜べるようになり、心が変わっていくのだと思います。そのことがやがて相手や自分のたすかりにつながっていくのだと思います。
またひのきしんについてですが、以前わたしが教えていただいたことは、自分の都合のいい時に、やりたいことをするのがひのきしんではないということです。決して得意分野を活かしてひのきしんすることが悪いと言っているのではなく、たとえ自分が苦手なこと・したくないと思うことでも、神様への感謝の気持ちを持ってすることが大事であるということです。アルバイトやボランティアのように、その日なら空いてます、その仕事ならできますということではないのです。ひのきしんをお願いすると、「料理ならいいけど、トイレ掃除はいやです」と言う人がいました。それはひのきしんではないのです。神様がいつどんな時でもわたしたちを御守護くださるように、わたしたちも、自分の大切な時間ややりたいこと、自分の都合を置いてつとめることで、神様へのご恩返しができ、目には見えない徳をいただけるのだとわたしは思います。
「たんのう」について、以前に読みました本の中で、本部員・松田元雄先生が以下のようにわかりやすく教えてくださっておられます。
言うまでもなく、ひながたに終始一貫して流れていることは「たすけ」です。そして心の持ち方、あらゆる行動の元となる心遣いは「たんのう」言い換えれば「喜び」であると私は思います。どんな日もあります。どんな時もあります。楽しいことも、辛いことも、苦しいことも。でもそれは生きているからです。何があっても、いま生きていることが第一にくる喜びの基本でしょう。
今生きている ありがたい 心に喜びと感謝
顔はにっこり 言葉はありがとう 行いはひのきしん
言うほど簡単ではないですが、わたしはいつもこれを心に日々を通りたいと思っています。
おさしづには身上の伺いがたくさんありますが、それに対して神様は常に「たんのうせよ」と仰せになっています。心におさまるかどうかは、心が澄み切っているかにあるのだと思います。心が澄んでいればたんのうができ、心には喜びにがうまれます。心を澄ます手立てはおつとめであり、感謝の行いはひのきしんであります。
2026年には教祖140年祭がつとめられると発表がありました。3年後、どんな日常になっているのかわかりませんが、自分のできる小さな一歩を踏み出していこうと思います。
ご清聴ありがとうございました。