Tenrikyo Europe Centre
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ガリシア布教所所長 マリアデルカルメン・アレンアルバレス
ご承知のように、今月をもちまして、教祖百二十年祭の年は終わります。
本年1月26日に執行されました教祖百二十年祭の祭文の中で、真柱様は「私どもは、今日の意義深い日を迎えて深い親心を心に噛みしめて、ご高恩にお応えすべく今日を次への出発点として更なる前進を固くお誓いさせて頂きます」と述べられました。
また、明治28年11月14日のおさしづの中でも、教祖の思召しを思い起こします。
「世界子供成人待ちかねる。案じもなきいつの間になったというようになる。…未だ不都合やで。不都合やで。よう聞き分け。どういうもの。十年祭が切りやという心。どうもならんで、ならんで」
通常、私たち人間は、一生を通して目的(切り)を持ち、そこに到達するために、その目的で得られる利益によって自分を進めていきます。例えば、結婚準備、子供の誕生、大学卒業資格などのために、大変な努力をします。しかし、すべては自分自身のため、つまり個人的なことであり、それを達成するために課せられる犠牲も厭うことなく、できます。しかし、自分自身の利益であるにも関わらず、それを実現するに至らないこともあります。
あるカップルが結婚の準備をしていて、一緒に住むアパートもまた探していたとき、二人の一方が別の人と出会い、準備していた結婚が水に流れてしまったことがありました。同様に、仕事にかかり始める多くの人が、1,2年後にはそれを辞めてしまいます。人間の心というものは、そういうものです。
だからこそ、教祖は私たちに手引きを与えられ、時には、神様のひながたにもっと心を寄せるようにと言って、私たちをお叱りになるのだと私は思います。私たちは、自分に都合の良いことはそこにはない、ということを完全に理解しなければなりません。毎日お道に献身し、真剣にこの信仰を続けている私たちは、常に教えと教祖のお手引きに心を配らなければなりません。
さて、今、私の布教所で直面しなければならない難しい事柄について、お話ししたいと思います。去年の5月より、私たちは、スペインにおける宗教団体として天理教の結成を申請するため、必要な書類を準備し、それを提出しています。最も信仰の堅いメンバーと相談したことにのっとって、私がそのことを思い立ったとき、彼らはまったく躊躇なく、私を助けてくれると思いました。しかし、最初の会議から、責任や役割分担に関連して、不満が噴出しました。私はあまりに当惑して、彼らが教祖の道をどのように聞いているのか分からなくなり、私自身もそれをどう理解してよいのか分かりませんでした。さらに、私が「信仰の道の場合は、世間一般の団体と同じではないのですよ」と彼らに説明しようとしたとき、たくさんの人が理解してくれなかったばかりか、その結成に参加したいと思っていたうちの何人かは、それを完全に放棄してしまいました。その時まで、私が頼っていた何人かの人たちが表明していた信頼は欠如してしまい、それは失望となり、私はもっと信頼感が得られるようになるまで待とうと決心したのです。
もちろん、最初のショックが通り過ぎるや、私は私たちには心の成人が足りなかったと理解し、もう一度、彼らの協力を得るべく、会議に招集しました。少人数の人たちが満足するかどうかということは問題ではなく、スペインでこのお道をもっと広めていかなければならないのですから。
こうして、何人かのメンバーは意識的に沈黙しました(そのうちの一人は、「自分が賛成しない事柄にはサインしませんと私に言いに来ました」)が、私たちは内務省に書類を提出することができました。しかし、去年の10月、天理教の信仰の基本的なことについてもっと詳しい説明を要求されました。それは、その時、スペインの政府レベルで、この宗教がまったく登録されていませんでしたので。この拒否の時、私は明治39年4月21日の神様のおさしづを、よく理解することができたのです。
「さあさあ、いかな事も言うて来る、来る。皆これまで十分話し伝えてある。どんな事しようと思うて成るやない。…尋ねる処、どんな事もすっきり取り調べさす。…皆すっきり寄せてしまう、しまう。尋ねにゃなろまい。一時見れば怖いようなもの。怖い中にうまい事がある。…心さえしっかりして居れば、働きをするわ、するわ。反対する者も可愛い我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。これまでほんの言葉言葉でさしづしてある。これはというようなものは、さしづがさしづやないと言う。世界の反対は言うまでやない。道の中の反対、道の中の反対は、肥をする処を流して了うようなもの」
とあります。
私は信者達の不足や反対は、スペインで団体を設立するために、最初から、皆の心が澄んでいるように願っておられた親神様の思いとは、別のものであることを完全に理解しました。こうして、スペインにしっかりと天理王命の神名を立てるために、私自身とメンバー全員の成人の至らなさを反省したのち、私は、親神様は大きな一方を踏み出すために、私たち一人一人の心の真実を確固たるものにして下さっている最中なのだと自分に言い聞かせたのです。また私の心の中に、明治40年4月7日のおさしづの一説が浮かびました。それは布教に関するものです。なぜならば、政府が私たちに要求してきた情報は直接信仰に関するものです。私は、こうして教祖は、私たちに高山布教の素晴らしい機会を与えて下さったのだと理解したのです。「おさしづで、教祖は
「においの事早いほがよいで。急いでやってくれ。急いでやってくれにゃならん。…残らず残らず遠い所…さあこれまであちらでもこちらでも、どうやろうこうやろうと、心というもの散々になってあった。なれど、これからこう成ったと、一つに成った事仕切りて言うてくれ。…隅から隅まで心置き無うやってくれ。ころっと風を変え、直接やと言うてくれ。早く話して聞かせ。…働いたら働いただけのこうのう皆々ある」
と仰せになっています。
私は、教祖はまた、この場所に設立せよという思召しを持っておられますが、その許可を私たちに与えるためには、まず、私たちスペイン人が本当にこの道の信仰において一手一つになっているか、何があろうと、この道を通る心があるか、知ろうとされていると思うのです。この節を新たな出発点と捉え、私は、教理に基づいて、新しい情報を準備しようと決めました。そしてそのために、おふでさきの数種のお歌、おさしづ、みかぐらうたの一節などを探し求めたのです。しかし、それはメンバー皆を納得させるには十分ではありませんでした。当然かも知れませんが。
問題な何でしょうか。皆、単に自分なりに教理を説明したいと望んでいるのです。しかし、それは駄目だということを、彼らに理解させることは容易ではありません。つまり、政府が本当に教理を知りたいとき、私たちは教理書に基づいて説明しなければならないのです。さらに、政府は教会本部に問い合わせるでしょう。そこで政府が知るのは、私たちが教えたものと同じ教理でなければなりません。そのために、私たちは、改めて、教典の新たな一節を準備しているのです。それを改めて送るに際して、本部が決定されている言葉を、決して改ざんすることはできません。
こんなことを皆さんに述べつつ、私が言いたいことは、今、私は、教祖の子供である私たちに対する教祖のお心と、恐怖、疑いや信頼の欠如を含んだ私たち子供の神様に対する心の間には乖離があるということが、よく理解できるということです。それは、この道が時空を越えて存在していくために、私たちが正さなければならない大きな岩礁のようなものだと思います。
みかぐらうたに「いついつまでもこのことは話のたねになるほどに」とあります。
実際、私たちのように、最初にこの道を通る者は、人間的な恐怖を、今日、たくさん持っているように思えます。だからこそ、この時代、今日と言っても良いと思いますが、私たちは、教祖を信じ切ることが難しく、それがゆえに、私たちは、いかなることが起ころうとも、教祖についていくという固い信念を持つことができないのです。
スペインでお道を通る人たちのことに話題を戻します。何人かの人は、私に「ここは日本と同じではありませんよ。私たちは、民主主義の国に生きており、これは受け入れられないし、従うことはできません」と言いました。一方、私は、こんな表面的な考え方に賛成はできません。私は、教祖の教えは、どこの地であろうとも永遠であり、すべての子供は神様の支配のもとにあると堅く信じています。すべては私たちの心の成人の未熟さ、今日まで積んできた心のほこりが原因であり、神様の思召しをしっかりと見ることができなくなってしまっているのです。ですから、私は、教祖に、真実が心の中に積み重なり、彼らも同様にそのことが納得でき、そして彼ら自身が、そのことを皆に広めてゆくようになるまで、仕事をしながら、この道を通らせてやって下さいとお願いしております。
ただ今の社会問題を並べてみますと、親を慕う心、両親、老人、学校の先生や上に立つ人などへの尊敬といった基本的な価値観が失われているのを見ることは、何と悲しいことでしょうか。私は、しょっちゅう、家庭内暴力、校内暴力、移民の人たちなどに対する暴力などのニュースを耳にします。布教所にくる両親の中にも、彼らの子供の行いに対する相談に来る人もいます。
しかし、何を言って上げればよいのでしょうか。教祖は、すべてを間違いなく説明して下さっています。だからこそ、この教えはだめの教えなのです。私が直面している難しさは、親たち自身が真実を聞こうとしないことです。自分の子供を嘆きますが、彼ら自身が導かれることを受け入れません。もちろん「導かれる」という単語を使うとき、私自身のことを言っているのではありません。彼らは、教祖に導かれることを受け入れないのです。「聞く」ことを拒否する人たちは、その拒否があまりに強いので、私は、時々これは単に彼らの子供の反乱だけではなく、そこに現在の世界の問題を明らかにみることができると理解するのです。だから、私が彼らに伝え、勧めることができる唯一のこと、それはおつとめを勤めるために、布教所に来なさいということです。
しかし、それでもなお、彼らはいつも来られない言い訳を見つけます。人間の性格というのは、大変難しいものですね。教祖のご在世の頃、信者達は役人に対する恐怖から、おつとめを勤めませんでした。しかし、今日、おつとめを勤めるための障害は何らないのに、私たちはいつも自分に都合の良いことをしようとしているのです。
本年1月の神殿講話の中で、真柱様は
「今では信仰することはもちろん、おつとめを勤めるについても、法律による制約や、あからさまな妨害はありません。しかし、どこまでも親神様の思召しに沿っていくという心定めが第一であることには、昔も今も変わりはありません。官憲の迫害干渉を恐れなければならない当時を思うと、比較にならないくらい結構な今日でありますが、道を通る上で、今日には今日なりの葛藤があるだろうと思います。世間の習慣や義理との間で迷ったり、あるいは無理解や冷たい態度に心をいずませたりすることもあるでしょう。
しかし、もっと問題なのは、そうした外的な要因よりも、むしろ自分自身の心からくるものではないでしょうか。利害や体面、さらには都合、勝手などなど、神一条の道から逸れる要因はいくらでもあるのであります。親神様の思召しに沿って通るためには、まず常日頃から思召しの何たるかをたずねる努力が欠かせません。教えに照らして思案し、判断し、思召しに沿う心を定めて行動することであります」
とおっしゃっています。
このお言葉に、私は勇気づけられました。このお言葉は、しばしば信者達との会話の主題となっています。
最近のことです。大変きつい肉体労働をしておられる、ある一人の女性が、ある日、布教所に着くなり、私にこう言いました。「あー、疲れた」。私は「親神様に参拝して、座って、考えなさい」と言いました。それに対して、彼女は「いいの。私は、何も考えないの。私は、色々考えて頭をいっぱいにするような人ではないの」と言いました(考えることが好きな人を何と表現するのか、私は分からないのですが)。
色々なことについて考え、反省したい私にとって、それは心配なことです。なぜならば、彼女のような人は、初めてではないからです。考えることをしたくない人たちは、考えることで「時間を失い」たくないのだと、よく思うのです。これについて私の結論は、彼らは私たちに考えることを教えませんし、さらに、もし私たちに起こる事柄について、私たちが真剣に考えるなら、そのことが私たちを反省させ、言い訳はなく、他人に対する私たちの無関心から来る過ちや、責任を投げ出すことはできないということを、はっきりと気づかせてくれます。
今日、成長していく子供達を助けるという崇高な義務のために、何をすればよいのでしょうか。さらに、それは単に子供に対する関心が欠けているという問題ではありません。なぜならば、人々は、老人に対しては、もっと関心が低いのです。毎週、私は老人ホームに行きます。彼らは、私を何とも言えない笑顔で迎えて下さいます。毎回行くたびに、他の人が、私が訪ねる人に対して、私のことを「あなたのご家族ですか」と聞くのです。多くの人たちが、家族に会うこともなく何週間も過ごしています。中には、子供がいるにも関わらず、数ヶ月間も子供が面会に来ない人もいるのです。
アルツハイマーになった人は、家族の中の最も近い人さえ分からなくなり、無口になり、自分の中に閉じこもると言われます。しかし、一度、私がにおいがけをしながら道を歩いている時、妹さんの世話をしておられる男性に出会いました。それは、アルツハイマーで苦しんでおられる年配の女性でした。自己紹介してから、この道の信仰について少しお話しし、おさづけの取り次ぎをさせて頂けるか尋ねました。彼は、大変快く、受け入れてくれました。不思議なことに、このご婦人におさづけを取り次いだ後、私の手を撫でながら、彼女は「何て温かい手。私はあなたと別れたくない。あなたが行ってしまうなら、私はあなたを探しに行くわ」と言ったのです。私は、感激で涙が出ました。なぜならば、彼女は教祖と話したのだと、私は本当にそう思ったからです。
現在、社会保険指定のお医者さんに行くと、お医者さんは5分しか見てくれませんし、時には、それぞれの患者さんとうまく折り合いません。このような状況では、苦しんでおられることが、あまり理解できないのではないでしょうか。最悪なのは、患者さんがもう普通の状態だと見なされることです。まるで、皆、この押しつけられた腐敗したシステムに同意しているかのようです。迷惑を被っているのは私たちだという事実があるにもかかわらず、いかなる方法でも、それを変えようとか、改良しようという目的意識もありません。
私たちの教えを知らない人たちが、将来を見ることができないのは当然です。しかし、私たちは、人々の魂を立て直される教祖のお手伝いをさせて頂く方策を持っています。私は、教祖は、それが目的で、私たちにおつとめを勤める方法を教え、おさづけの理をお渡しになったのだと思うのです。そのことをよく考えれば、私たちには、言わば、難しいことは何もないのです。
同じ日の神殿講話の別のところで、真柱様は、私たちがなすべき仕事について、以下のように、明確に、直接的におっしゃっています。
「さらに言えば、教祖のお教え下さったところに基づき、ひながたを尺度に自ら思案し、判断し、心を定めて実行するという姿勢であります。
言われたからするというのでは足りないのであります。言われてするだけでは、言われなければやらない、言う人がいなければしない、ということにもなるでしょう。ちょっとした障害にもためらったり、やめたりしかねないのであります。
教祖は常々、筆でもって、あるいはお口を通して、つとめの理の重さを説き、実行をお促し下さっていたにもかかわらず、この期に及んでは、あえてつとめをせよとは仰せにならず、49年前から説き聞かせてきたことを反芻し、ひながたの道を想起して、神意がどこにあるかを悟り取り、心を定めて、自ら進んで実行することをお求めになったのであります。これこそ、存命の理をもってのお導きに先立つ、道の行く手を思う親心ゆえのお仕込みだと思わずにはおれません。これは、今日の私たちに対するお仕込みでもあります。
…その日々の積み重ねのうえに、次なる確かな道しるべが見えてくるのであります」
私は、ヨーロッパでこの道を辿る私たちは、皆、全世界にこの教えを広めるという教祖や真柱様の思召しを実現するために、勇気を失わず、心を一つに揃えたいと思います。
最後まで、ご静聴下さいまして、ありがとうございました。