Tenrikyo Europe Centre

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2022年2月月次祭神殿講話

内子パリ布教所長 松川高明

まず皆さんに二つ質問したいと思います。一つ目の質問は、あなたにとって、“普通”とは何でしょうか。もし点数をつけるとしたら、何点くらいでしょうか?                 

二つ目の質問です。では、皆さんにとって、今日の体調はどうでしょうか? 普通ですか。普通じゃないでしょうか。

そうしたら、先程皆さんが答えた点数を、私達人間に当てはめて考えてみてはどうでしょうか?もしも今日の体調が70点だとすると… 60点だとすると… 身体はまともに動かすことはできないし、食べ物も食べられない状態かもしれません。

私達が神様からお借りしているこの身体、普段はどこも痛くもなく、体温も平熱で、話したり、物を食べたりと、毎日当たり前の様に感じているこの普通の状態。私たちのこの体の状態を「ふつう」というときは、これを点数で表すと、100点満点になるのではないでしょうか。

学校の成績が普通というのは、60点や70点なのかもしれませんが、私たちが毎日“ふつう”に使えているこの身体は、実は親神様の十全の御守護を十分にいただいている姿なのです。この“ふつう”であるという状態が100点満点なのだということは、自分で改めて意識しないとなかなか気が付かないものだと思います。

コロナ禍の現在、まだまだ普通の生活に戻るには時間がかかりそうですが、私たちは毎日神様に一日も早くコロナが終息し、元の普通の生活に早く戻れるようにとお願いしているのではないでしょうか。普通の生活、普段の何気ない日常がどれほど有難いものだったのかを改めて考えさせられます。

さて、話は変わりますが、皆さん、心の形ってどんな形だと思われますか?もちろん心は目に見えないものですから、形はありませんが、もしイメージするとしたら、どんな形を想像するでしょうか。

ハートだったり楕円形だったりと、いろいろありますが、やっぱり多くの人は丸くて柔らかいものをイメージすることと思います。

自由に使えるこの心ですが、人間は1日に6万回くらいこの心を使っているそうです。喜んだり、悲しんだり、腹を立てたり、不安になったり、毎日6万回も使っていたら、たとえ生まれたときの心は丸くても、成長するうちに人それぞれ癖も出来て、形も丸の人ばかりではなく、角ができたりデコボコだったり、それぞれ違う形になるのではないかと思います。

ニュースでよく見るこの新型コロナウイルスの画像は、皆さんも何度も目にしていることでしょう。この丸い細胞の周りにトゲトゲしたものがありますが、これがスパイクたんぱく質と呼ばれているものですね。これがコロナの感染を引き起こすもととなっているそうです。

ある先生は、親神様はこのコロナを通して、「それぞれのトゲトゲをとり、みんな丸い心になるんだよ」と教えてくださっているのではないかと仰っていました。この画像を見るたびに、親神様からこのトゲトゲを取ること、つまり心のほこりを払いなさいというメッセージが思い浮かびます。

教祖は、人と人のつながりを葡萄にたとえてお話になり、

「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」『稿本天理教教祖伝逸話篇』「135 皆丸い心で」

とお話しくださいました。

みんながコロナのようなトゲトゲの心でいたら、このトゲが邪魔をして繋がり合うことは出来ません。教祖はトゲトゲの取れた丸い心こそ、人と人をつなぐ心なのだと教えてくださっているのではないでしょうか。

葡萄は一つの幹からたくさんの房が出来ますが、それら一房一房が家族であったり、学校であったり、職場であったりと、それぞれに繋がり合う場所があるのだと思います。

葡萄の根は「おぢばの理」であり、幹はそれぞれの教会であったり、当地で言えばこのヨーロッパ出張所であるのだと思わせていただきます。根であるおぢばの理をいただき、そしてその栄養分を教会やこの出張所を通してそれぞれがいただいているのではないかと思います。私たちがこの葡萄のように丸く繋がっていけば、教祖が仰ったように「この道は、先永く楽しんで通る道」に続いていくのではないでしょうか。

親神様は人間が陽気ぐらしすることを望んでいらっしゃいますから、私たちの身の周りに起こってくる出来事は、全て自分たちの幸せに繋がっているはずです。ですから、どんなことが起こっても、それは必ず幸せに繋がるのだということを信じていれば、身の回りの世界が、本当に楽しみばかりになってくるのではないでしょうか。

おさしづに、次のように仰ってくださっています。

心一つの理があれば日々という、暫くという。何でも彼でも成る程日々に治めるがよい。日々に楽しみばかりの理ばかり。(明治23年1月25日)

幸せを感じるのは有り難いなあと思うこと、感謝をすることが第一歩だと聞いたことがあります。今、自分の周りにある当たり前のことに果たして感謝できているのかと考えさせられます。いつも食べるものがあること、毎日を元気に過ごせること、家族がいることなど色々と当たり前に思ってしまうものがたくさんあります。

しかし、例えば水についてはどうでしょうか?

フランスや日本のような先進国では、水道の蛇口をひねると簡単に安心安全な水をいただくことができます。しかし、世界には未だに安全な水を手に入れることができない人もたくさんいます。

そしてこの身体についても同じことです。身体は自分の思うように使うことが出来ます。しかし病気や怪我などをすると、その当たり前が無くなってしまいます。病気がひどくなると、学校や仕事に行けなくなり、生活のすべてが自分だけでなく周りまで巻き込んでいき、すっかり変わってしまいます。

私たちはこの非常に有り難い「当たり前」が神様の働きだと教えていただいているのです。日々を生かされていることに感謝して、どんな時も喜びの種だと考えて、毎日を喜んで通らせていただくことが大切なのではないでしょうか。

『人は九つの嫌なことがあっても、一つの良いことがあれば喜べる。でも九つの良いことがあっても一つの嫌なことがあると喜べない。』

と聞いたことがあります。

確かにテレビなどを見ていると、貧しい国の子供たちは、こんなに豊かな国にいる私たちよりもはるかに素晴らしい笑顔を持っているなと感じることがあります。幸せというものは、自分で決めるものだという事がよく分かります。

お道では、私達人間の生きる目的を「陽気ぐらし」と言います。

ある人が、これを英訳し、「ポジティブ・フィーリング」と訳したそうです。「ポジティブ・シンキング」という言葉は聞いたことがありますが、「ポジティブ・フィーリング」という言葉は初めて聞いたような気がします。この二つはいったい何が違うのでしょうか。

「ポジティブ・シンキング」つまり、プラス思考の考え方は簡単ですね。例えば、喉が渇いたときに、ペットボトルに飲み物が半分しか無いとします。「もう、半分しか無い」と受けとると「ネガティブ・シンキング」になります。でも「まだ、半分ある」と受けとめることの出来る考え方が「ポジティブ・シンキング」ですね。

日本語には、「おかげで」「せいで」という言葉がありますが、「おかげで」と取るか、「せいで」と取るかで正反対の意味になります。

例えば、「コロナのせいで、仕事に行けなくなった」と否定的に取る人がいるかと思えば、「コロナのおかげで、在宅勤務ができるようになった」と肯定的に取る人もいます。「コロナのせいで、実家の家族に会えない」、でも「コロナのおかげで、家族と過ごす時間が増えた」という人もいるでしょう。

私はパリ天理語学センターで日本語を教えていますが、最初はコロナのせいで対面授業ができなくなったと不足に思っていましたが、でもそのおかげで、オンライン授業のノウハウを学ぶことができました。それまでは取り組めなかった新しい分野のことができるようになり、今はコロナのおかげであると大変喜ばせていただいております。

「ポジティブ・シンキング」とは、この「おかげ」のように、物事を良い方向にとらえる考え方ですね。

では、「ポジティブ・フィーリング」とは何でしょうか。「フィーリング」ですから、「感情」ですね。つまり「プラスの感情」を持つということです。ポジティブな思考を持つことは大切ですが、実はポジティブな感情がそれに伴わなければ意味がないそうです。ここで、重要なのは思考よりも感情の方です。優先順位で言えば、感情、そして思考です。

「ポジティブ・フィーリング」を一言で言えば、「幸せな気分になる」ということです。どうすれば、「幸せな気分になる」ことができるのか。それは、自分の周りにある、良いこと、楽しいこと、面白いこと、嬉しいことに目を向けて、感謝することです。いわゆる喜び探しですね。

そして、一番重要なのが、この「幸せ気分」を常にキープすることだと言います。そのためには、いつも自分の身の回りにある良いことを探し、感謝できることを探すということが必要なのだそうです。

これは、どこにいても、何をしていてもできます。この喜び探しをすることで、自分の視野が広がり、いままで気が付かなかったことにも気づくようになります。その結果、問題の突破口が見えたりもします。

また、「幸せ気分」をキープすることで、思考も自然にポジティブになります。思考がポジティブになると、いいことがつぎつぎと起きるようになってきます。すると、ますます「幸せ気分」をキープするのが楽になります。すると、もっと良いことがやってくる。これの繰り返しで、あとはひたすら幸せになるだけです。

「幸せ気分」を感じている時は、ネガティブな感情を感じている暇が無くなってくるそうです。つまり、ネガティブな感情など感じるまでもなく、無くなっていってしまうのです。

「けっこう源さん」と呼ばれた河原町大教会の初代会長、深谷源次郎先生はいつもいつも何があっても「結構、結構」と、たんのうの精神厚く、どんな中も喜び勇んで通られた方であったそうです。

その深谷先生が京都で布教していた当時、十日余りも雨が降り続き、人々が皆天気の不足を口々に言っていたそうです。そんな中、深谷先生は「結構やないか。この雨が一日に降ったら京都の町が流れてしまう。それを親神様が十日に降り分けてくださったから無事でおれるのや。結構やないか。」と仰ったそうです。

何でも不足に思ったりすると、「不足は切る理」とお聞かせいただきますから、せっかくの良い運命の芽も切れていくのではないでしょうか。

それに対して「結構やないか」と受けとめることの出来る人は、気分が明るく、前向きになりますから、「たんのう」に通じる心づかいとなり、こういう人はだんだんと良い運命がひらけていける人なのだと思います。

深谷先生もきっと「結構やないか」と何でも思えるようになるまでには、先に挙げた「ポジティブ・フィーリング(幸せ気分)」の過程があり、自分の周りに起こるすべてのことに感謝できるようになっていたので、自然に「結構やないか」という心持ちに到達されていたのではないかと思います。

私たちもそのような『心の力』がつけられるように、日々の生活の中で喜び感謝できる毎日を送らせていただきたいものだと思わせていただきます。

最後に次のおさしづをご紹介して、今日の務めを終わらせていただきます。

満足というものは、あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。適うから盛ん。(明治33年7月14日)

ご清聴、ありがとうございました。

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