Tenrikyo Europe Centre

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2022年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 長谷川善久

私達は、只今、教祖がお隠れになられた日、陰暦明治20年1月26日(1887年1月26日)陽暦でいうところの2月18日に由来して勤められる1月の大祭をつとめさせて頂きました。

教祖は、世界中の子供を早く助けたいとの親心から、25年の定命を縮め姿を隠されましが、今もおぢばに留まりくださり、我々を導き、おさづけを取次ぐところ、お働きくださっています。

その上からも、私達が、現在のようなコロナ禍である状況においても、この大祭をこの出張所に集まり勤める意義は、この教祖の親心に基づく歴史的事実を心に蘇らせ、私達は、どのくらい日々の暮しの中で教祖の期待にお応え出来ているのかを再確認することにあります。

教祖のひながたには、2つのご苦心があったと思います。

一つは、教祖が「月日の社」のお立場であることを人々に納得させることであり、もう一つは、思し召し下さる通りのおつとめがなされるようにとのご苦心です。

教祖は、月日の社となられてからお姿をお隠しになられるまで、50年間に亘り親神様の思し召しとそれを実現するための方法を私達人間にお教え下さいました。極貧の生活を過ごし、おつとめを作り教え、ぢば定めをし、元の理も明かされました。また人生の如何なる場面であっても親神様にもたれ、他者に向けた愛に溢れ、明るさと勇み心をもって生きてゆく道、「ひながた」を実際に人々の目の当たりに示されました。また、教祖は、今も昔と変わらずおさづけの理をお渡しくださり、人だすけに私達をお使い下さっています。その教祖は、私達と同じような人間ではありません。「月日の社」、地上における「親神様」なのです。

天理教の信仰を持つ中で大変重要であるこの上記事実が、まず、しっかりと胸に治まっておられない方については、言ってみれば教祖のひながたのご苦心は報われていないとも言えます。「八つの」や「人を助けたら我が身救かる」など道徳倫理的に納得しているだけでは、お道の教えの確かな歩みを進めているとは言えないことになります。

また、ご苦心のもう一つであるかぐらづとめは、教祖が、命を縮めてまでも私達の人生が陽気ぐらしと変るように教えられたものであり、世界の各地でつとめられている全てのおつとめの根源は、このおぢばでつとめられるかぐらづとめにあります。

教祖は、おふでさきの中で、人間に根源的に悪い者はいないと仰りました。

よろづよにせかいのところみハたせど
あしきのものハさらにないぞや一号 52

一れつにあしきとゆうてないけれど
一寸のほこりがついたゆへなり一号 53

親神様が教祖を通して私達に望まれていることは、陽気ぐらしができる元の因縁ある魂の状態に立ち返るということです。

明治16年のこふき本である桝井本に「この度のたすけ教えるは、あしきをはらいて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じ事ゆえ、人間の身の内は神のかしものであるゆえに、人間心を勇めば、神も勇んで守護すれば、身の内あしきことはつとめ一条で、よろづたすけするというは、願い人はもちろん、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を持って願う事なり。(中略)この者(教祖)は元の親のいざなみのみことの魂なるゆえに、何の何処の者でもたすけたい可愛いばかりの心なり。この者をひながたとして月日入り込み、たすけ教えることであるから、世界中の者、親里参り、親にたすけてもらおうと思うて願うなら、また、この親の心をひながたとして心入れ替えば、たすけはもちろん、善悪ともも神より返しをすること間違いなし」とあります。

親神様の御守護を充分にいただくためには、教祖の勇んだ陽気な心を日々のひながたとして、通り祈ることが大切なのです。

因みに、この「勇み心」について、私は「身の回りに起こる全ての事に喜びを見出だし受け入れようとせんばかりの積極的な心」だと思っています。

この心を作るために私達は、日々から「あしきをはろうとたすけたまえ てんりおうのみこと」と親神様に唱え、教祖の心に近づき、が払われた私達の陽気で勇んだ心に親神様の心が映るようおつとめをつとめるのです。また教祖の道具衆として、人だすけにお使い頂くようお願いさせて頂くのです。

天理時報新年号の真柱様のご挨拶には以下のようにありました。

この道は、親神様が世界一列をたすけるために啓かれた道であり、教祖は、「今からたすけするのやで」とのお言葉通り、現身をかくされてのちも、今も変ることなく、私達をお導きくだされてます。未曽有の感染症という事情を経て、社会の様子や私達の暮らしぶりも、これまでとは変わっていくと言われていますが、私達はどのような中も、存命でお働きくだされている教祖の御心を胸に誠真実を尽くし、たすけ一条の道を一手一つに歩ませて頂きたいと思います。

ここでも、真柱様は、我々は、社会の乱れた風潮に流されることなく、教祖の生涯を学び、その心を自らのものとすることの重要性を仰られています。そして最後に、「一手一つに歩ませていただきたい」とありますが、誰、何を芯にした一手一つが求められているのでしょうか。それは言うまでも無く、誰とは教祖であり、何とは人助けの心です。

ですから、私達、信仰者がなすべき活動の在り方は、存命の教祖を心に置いた協働であり、その根本的な目的を失ったものであってはなりません。

この2つの芯を絶えず明確に思い起させ、実践しているのが、日々のおつとめであり、月次祭でつとめる「おつとめ」なのです。おつとめの実行が、まさに信仰実践の基本であることがお分かりいただけると思います。

みかぐらうたが日本語であることから、非日本語話者の方々は、おつとめを覚えるのに大変な苦労を感じておられることでしょう。しかし、おつとめが上手く出来るようになるほど心のなかで教祖の存在が大きくなるのを感じているのは私だけでないと思います。出張所では、おつとめの習得にチャレンジしたい人に対して、各自都合の良い日時に喜んで個人教室させて頂きますので、ご一報いただきたいと思います。

出張所創立51周年が終り、これから教祖140年祭に向かうにあたって、これまで以上にみかぐら歌が唱えられる人が多くなり、ついでは、おつとめ鳴物ておどりの奉仕者が増えることを目指していきたいと考えています。どうぞ、皆様には出張所の存在とそのスタッフを最大限利用していただき、成人の道を進めていただきたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。

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