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2025年2月月次祭神殿講話

内子パリ布教所長 松川高明

私事で恐縮ですが、先月の18日に息子の結婚式がおぢば教祖殿にて執り行われました。お相手の方も教会の娘さんで、ご存命の教祖の御前にて夫婦固めの盃を戴いたのち、主礼の先生が新郎新婦に変わりお誓いの言葉を申し上げます。その後、神殿結界内にて参列者一同が内揃い、主礼の先生の拍子木に合わせて御礼の座りづとめを勤めさせていただきます。少し肌寒かったものの、雲一つない晴天のご守護をいただき、にぎやかに結婚式を執り行うことができました。皆様方にはお祝いのメッセージやお心寄せをいただきましたこと、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。誠にありがとうございました。

さて、このお誓いの言葉の中に次のような言葉があります。

今より後は互いに変わることなく千代の契りを結び、常に教祖のひながたを辿り、御教えに沿うて如何なる中も一つ心に睦び合い扶け合いつつ、日々晴れやかに心陽気につとめさせて頂く覚悟でございます。

わたくしども夫婦も26年前に教祖殿にて結婚式を挙げさせていただきました。

お誓いの言葉などすっかり忘れておりましたが、改めて息子夫婦のお誓いの言葉を読ませていただき、ご存命の教祖にお誓いした日のことを決して忘れてはならないと思い返しております。

おふでさき」に、

せんしよのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる(第1号 74)

とあります。

夫婦は前生の魂のいんねんによって、神様が結んでくださったもので、夫は前生借りのある妻にご恩を返し、妻は前生借りのある夫にご恩を返し、互いにささげ合い、尽くし合い、勤め合うのが夫婦の道とお聞かせいただきます。お互いが前生に受けた恩を報じ合って暮らすために、親神様が組み合わせてくださった不思議な仲なのであります。

先ほどのお誓いの中にも、「教祖の奇しきお手引きによりこの度目出度く縁談相整い、今日の良き日に御前で結婚式を挙げさせていただきます」とあります。

親神様、教祖の思し召しにかなう第一の基本は、なんといっても夫婦円満です。夫婦がお互いに敬愛の念をもって、助け合い、思いやりのある温かい心で、拝み合い、共に白髪の人生を送ることのできることが、何ものにも替えがたい尊い姿と言えるのではないでしょうか。

おふでさき」第6号32に、

このもとハどろうみなかにうをとみと
それひきだしてふう/\はちめた

みかぐら歌」の第2節には、

ちよとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし

とあります。

親神様は、人間創造の最初から、天地をかたどって夫婦をこしらえたと宣言されており、夫婦のどちらかが先ではないことがわかります。また夫婦は五分五分の理とお聞かせいただきます。お互いの足らざるところを補うことによって初めて、十分の理を頂戴することができるのであります。天はいつも地を、地はいつも天をと、相互いに向き合っております。さらにまた、天は上から雨、雪、露などを降らし、地はその潤いを受け止めて万物を育みます。

教祖は天地自然の理を「二つ一つが天の理」とお教えくださっています。これは陰と陽、水と火、天と地、男と女、昼と夜、など、相反するものが互いにたすけ合っている姿を意味します。たとえば昼と夜を例にとりますと、昼が夜をたすけ、夜が昼をたすけているのです。昼の世界だけでもなく、夜の世界だけでもない、相反するものが寄り合って、一日という日柄が成り立っているのであります。この世の相反するものは、対立するものではなく、互いにたすけ合っているものなのだという原理原則を忘れてはいけません。

夫婦もまた、二つで一つを成しています。夫婦は人間社会の最小単位です。まさに夫婦こそ、相反するものが共存する姿であり、足らざるものを足し合い、届かざるところを届かせ合う、二つで一つを成す姿なのであります。

みかぐらうた」に、

ふたりのこゝろををさめいよ
なにかのことをもあらはれる

とあります。

夫婦二人が心を合わせ、何事も治めて通るならば、親神様は思いもかけぬ喜びをあらわしてくださいます。そのためには、たとえお互いに気に入らないことがあっても、「夫婦は互いに鏡である」と教えられますから、相手の中に自分の前生の姿を発見しながら、たんのうの心を使うように努力しなければなりません。幸せな家庭、幸せな夫婦というのは、お互いに感謝し合い、思いやる心を持ち、お互いに真心をささげ合うということが大切なのではないかと思わせていただきます。

教祖伝逸話編189に「夫婦の心」というのがあります。

平野楢蔵が、明治十九年夏、布教のため、家業を廃して谷底を通っている時に、夫婦とも心を定め、「教祖のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ。」と決心して、夏のことであったので、平野は、単衣一枚に浴衣一枚、妻のトラは、浴衣一枚ぎりになって、おたすけに廻わっていた。
その頃、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実見定めた、さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に。」
と、お言葉を下された、という。

皆様ご承知のように、これは郡山初代さんご夫婦の話ですが、天理教で一番最初に教会名称のお許しをいただいたのは、今の郡山大教会です。

「この道は、夫婦の心が台や。」と仰ってくださっています。この台が揺らぐことなくしっかりと根を下ろしてさえいれば、その信仰を受け継ぐ次世代へと間違いなくバトンを手渡していくことができるのではないかと思います。

諭達第四号で真柱様は次のように仰せくださっています。

教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないでくださった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。

私たちは信仰の喜びを途切れることなく、次の世代へとしっかりと伝えていくことが大切なのであると思わせていただきます。

昨年の秋季大祭において真柱様は、「道の子が一手一つになって力強く歩むまでには、もっとたくさんのよふぼくが年祭に心を向け、年祭へ向かっての動きに取り組むように働きかけ、丹精を続けなければ、教祖に安心してはいただけないと思います。三年千日の期間は、動かせていただくことが大切であります」とお諭しくださいました。

教祖140年祭は来年の1月26日に執行されます。三年千日の仕上げの年である本年は、ご本部よりおぢば帰りの推進を強くお促し頂いています。私が所属する高岡大教会も、髙知大教会を元の上級教会とする七つの大教会が6月におぢば帰り団参を合同で実施することになっています。

年祭まで残り1年を切った今、今一度仕切り直して、ご存命の教祖にお喜びいただけるように勇んで勤めさせていただきたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

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