Tenrikyo Europe Centre

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2013年5月月次祭神殿講話

ヨーロッパ出張所員 都築雅典

ただ今は、5月の月次祭を一手一つに賑やかにつとめさせて頂き、大変ありがたく結構な事と存じます。ご指名を頂きましたのでお話をさせて頂きます。まだまだ未熟な者で、纏まりのある話も出来ませんし、フランス語も上手くありませんのでお聞き苦しいところもあるかと思いますが、どうぞしばらくの間お付き合い頂けますようお願い致します。

ご承知のように、本年は教祖130年祭へ向けた三年千日の始まりの年であり、私達はいわゆる「年祭活動」の只中に身を置いています。年祭活動というと何か特別な行事が沢山用意されているような気がしますが、そうではなく、実際は年祭に向けた準備のために、個人や教会や地域単位の普段の活動をより充実させようという意味だと思います。

もちろん、それぞれが勝手なことをしていては「年祭活動」とは呼べませんが、教会や布教所や出張所に足を運ぶ時間がない方は、普段の活動として何をすればいいのかわからない方も多いのではないかと想像します。真柱様は昨年10月、年祭活動へ向けてご発布下された諭達第3号の中で、日々どのような心構えで、どのように通らせて頂いたらいいかという事を、分かりやすくお教え下さっています。

さて、その諭達第3号の冒頭で真柱様は

教祖130祭を勤めるに先立ち、思うところを述べて、全教よふぼくの仕切っての成人と一手一つの活動に資したい。」

と仰せられています。
また、約10年前、教祖120年祭を前にご発布下された諭達第2号は「全教が勇んで立ち上がり、一手一つに勤め切ることを切望する」というお言葉で締めくくられています。

そのことから、私は「一手一つ」ということが一つのキーワードなってくるのではないかと思います。皆さんは既によく知っていることだと思いますが、今日は、この「一手一つ」についてお話しをさせて頂きたいと思います。

私は最初に「月次祭を一手一つにつとめさせていただいた」と申しましたが、人々が一か所に集まって行われる行事や式典などが「一手一つにつとめられた」という表現をよく使います。また、団体競技やオーケストラ演奏や合唱なども「一手一つ」をスローガンにすることが多いようです。ですから、「一手一つ」と言うと、しばしば皆が同じ場所に集まって、一緒になって一つのことをする時に、心を合わせるという意味で使う言葉だと思う人もいるのではないでしょうか。

しかし、真柱様は今年の春季大祭の神殿講話において

「一手一つとは、皆が一つの目的に向かって、それぞれの役割をしっかり果たすとともに、全体としての調和を保って行動すること」

とお話し下さっています。またそのために必要なこととして

「同じ一つの目的に向かうには、関わる者全員が、その目的を認識し、共有しなければならない。また、一人ひとりが自らの役割を心得、果たすとともに、お互いの関係を承知し、連携することが必要」

だと仰せ下されています。

例えば何か行事をする時には、人それぞれに役割が与えられます。絵を描くのが得意な人はポスターやチラシを作ったり、語学の得意な人は翻訳をしたりします。今の時代、なんでも電子メールで送ることが出来ますので、そうした才能のある人がいれば、遠い外国であっても簡単にお願いすることが出来ます。実際、天理日仏文化協会で毎月行われる日仏学生交流会POT-AMICALのポスターも、最近までは日本の天理にいる方にお願いしていました。

遠くにいる人達はもちろん当日行事には参加できません。それから行事に参加したり運営したりする人達は、そこに張ってあるポスターや自分が見たり配ったりしたチラシを作った人、また自分が聞いた講話や自分が読んだパンフレットなどを翻訳した人とは直接面識がないということもあり得ます。しかし、そうした方々の目に見えない部分での協力があってこそ行事がつつがなく進行していくわけです。遠く離れている人、また、お互いに面識のない人であっても、一つの目的のもとに心を合わせる姿は「一手一つ」と言えるのではないかと思います。

個人的な話で恐縮ですが、私はフランスに来てから約3年の間、文化協会の仕事があるために、ヨーロッパ出張所の行事に参加できないということがよくありました。文化協会に勤務する他の人のために私だけが文化協会に残るということもありました。そんな時は、なんとなく寂しい気持ちになりますし、その場にいませんのでなかなかその行事の事まで頭が回りません。そればかりか、そういう日に限って文化協会の仕事が忙しくなったり、色々と問題が起きたりすると「なんでこんな日に出張所の行事があるのだろう」などと不足に思ってしまうことさえありました。

今思えば、自分の果たすべき役割に全く気付いていなかったのです。「行事に参加できなくて寂しい」とか「文化協会が忙しくなった」とかいうのは、自分を基準にした考えでしかありませんでした。その時私が果たすべき役割は、自分が文化協会に詰めることによって他の職員が出張所の行事に参加できることであり、文化協会で皆さんの分までしっかり仕事をする事によって当日文化協会で勤務している方々に負担を感じさせないようにすることだったと思います。真柱様が言われる「自らの役割を心得、果たすとともに、お互いの関係を承知し、連携すること」は、そういうことであったと思います。それが出来ていれば、行事に参加できなくて寂しいなどと感じることもなく、行事に参加した方と一手一つの心になれたのではないだろうかと深く反省しています。

さて、今お話ししたような行事の場合、日時、場所、参加対象、目的を決めた後、いつまでにこれを準備するというような段取りを組むことが出来ます。自分に与えられた役割もはっきりしており、全体の動きの中で周囲とどのように連係していけばいいのかということも大体わかります。また実際に動き出して色々難しい問題が生じてきた時、必要に応じてその都度修正していくこともできます。

しかしながら、三年千日の年祭活動は、目に見えない信仰の世界の話ですので、いつまでにこれが出来ていれば準備は順調にいっていると言えるものでもありません。また、現在、天理教は世界中に広がっていて、大変ありがたい事ではありますが、国によって文化や風習や社会制度が違います。気候も違えば時差もあります。こうした場合、真柱様がご諭達の中で求められている「全教が一手一つに」なるにはどうすればいいのでしょうか。

約110年前の明治35年、教祖20年祭へむけての三年千日を翌年に控えた当時、次のようなおさしづがありました。

これよりよく心一手一つ、これが第一理である。心の理と道の理と、しっかり合わせてくれにゃならん」

「これからどんな事もこんな事も一条という。一条で行かにゃならん」

「外の錦より心の錦、心の錦は神の望み。飾りは一つも要らん」

「又二十年祭、一つ心に運び掛けてある。そりゃなけりゃならん。無けりゃならんが、どんな事してくれ、こんな事してくれとは、一つも言わん。これより一日の日も、どうして行こうか知らんという心募りてくれ。さあ皆んな一つの心定めてくれにゃならん。」

「さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。これだけ聞きたら、どんな事も分かる。」

(以上 明治35.7.20 おさしづより抜粋)

とご教示下されています。

ここでは、一手一つが第一の理であると仰せられ、そのために心の理と道の理をしっかり合わせてくれと求められています。つまり、どんなことでも神一条でという心を定めさせて頂くこと。そうすれば神様は必ず受け取って下さるとお教え下さいます。「飾りは一つもいらん」「泣く泣くするようでは神が受け取れん。百万の物持ってくるよりも一厘の心受け取る」とお教え下さいますように、周りによく思われたいという気持から行動したり、無理をしたり、人に言われるから仕方ないという気持ちでいたりしては、どんなに頑張ってもその頑張りを神様には受け取っていただくことは難しいと思います。それぞれが年祭という旬に向けて自分の持ち場、立場で出来る精一杯をさせて頂こうと心を定めることが重要だと思います。道の理に合わせて、それぞれの人が心を定めることで、教内全体が自然と一手一つになっていくのだと思います。そして「道の理」に心を合わせるとは、諭達の中でも繰り返しお示し下っているように、おたすけの心を持つことだと思います。普段の生活の中で何か小さなことでも人の為にさせてもらったり、身近に困っている人がいたら相談にのったり、問題の解決に協力させてもらう。実際に行動に移す場面がなくても、常にそういう気持で通らせて頂くことが重要なのではないかと思います。

さて、先に引用しましたおさしづの中でも「無けりゃならん」と仰せくだされているように、年祭へ向けた活動の指針や目標もやはり必要です。諭達を中心に、ご本部からのお打ち出し、或は地域や教会単位の取り組みや心定め。それらを通して、より深く、真っすぐに道の理に自分の心を合わせていくことが出来るのではないかと思います。 また、そうした目標があり、それを共に達成しようという同志がいればモチベーションも上がりますし「自分はこうしている」「こうしたらいいのではないか」というように、情報交換や、アドバイスをしあったりすることもできるのではないでしょうか。

ここヨーロッパでも三年千日の旬に、「仕切っての成人-ひとだすけの実行-」という活動方針の下4つの成人目標と2つの心定めを決めています。これは皆様十分ご承知のことと思いますが、改めてここで申し上げます。

おつとめをつとめよう」
「身近なひとだすけを実行しよう」
おさづけを取り次ごう」
「子供に信仰の喜びを伝えよう」

この4つの成人目標に加えて「修練目的でのおぢばがえり者数350名」「おさづけの取り次ぎ回数13000回」という心定めがあります。

2つの心定めについては、おぢばがえりの人数とおさづけの取り次ぎ回数を、毎月所報でもカウントしています。「心定め」の数値目標は、もちろん達成できれば喜ばしいことですが、、達成できなかったらダメだというものでもありません。逆に、手段を選ばず数字だけを達成しても意味のないものになります。それはあくまで目標であって、それを達成するために普段からにをいがけ、おたすけを念頭におき、神様に受け取ってもらえるよう実行することが肝心だと思います。

おさしづ

何名の中、だん/\の中、多くの中、皆一つの心揃えば、さあ西と言えば西、東と言えば東、南と言えば南、北と言えば一手十分に北と心定める。この理定まるは十分の道と言う。(明治22.1.24)

また

皆一手一つの心なら、一手の守護するわい。成らん処救けてやるは神、をやであるわい。これ聞き分け。(明治38.5.16)

とお教え頂きます。
皆の心が一つに揃えば、こちらに行きたいと思う方向へ神様の方から道を付けて下さいます。そしてまた、不思議なご守護を頂いて、人間の力ではもうどうにもならないようなことさえもおたすけ頂けるのです。

ヨーロッパ出張所では毎月26日に教会本部月次祭の遥拝式を行っています。平日の午前中に行われることが多いため、遥拝式に参拝することは難しいかも知れません。私も文化協会の朝の当番などがあれば参拝できないときがあります。そんな時は、おぢばに心を寄せておつとめをつとめる、もし時間がなければ手を合わせて身近な人のたすかりを願う事が出来ます。世界中の教会や布教所や出張所で、または個人宅でも毎月26日に合わせておぢばを遥拝している人がいます。そうすることによって、私たちはおぢばを感じるとともに、多くの人達との一体感を得られるのではないかと思います。それは、親神様教祖がおよろこび下さる一手一つの姿ではないかと思います。

教祖年祭はたすけの旬、たすかる旬とも言われています。実際、年祭活動の期間に人智を超えた不思議なご守護を頂いたというような話は枚挙に暇がありません。それは、年祭に向け人々の心が一つに揃い、その心を神様が受け取って下さるからに他なりません。

私は秋にはフランスでのお役目を終えておぢばへ帰らせて頂きます。130年祭前にはおぢばでの御用も退いて、また違う環境の中に身を置いていると思います。 どのような立場であっても、教祖年祭に向けた自分の役割を自覚し、周りと協力しながら自分の役割が果たせるよう、しっかりと道の理に心を合わせていきたいと思います。そして、離ればなれにはなりますが、ここにいらっしゃる皆さんとも一手一つに、勇んでこの三年千日を通らせて頂きたいと存じます。

まとまらない話でしたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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