Tenrikyo Europe Centre

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2005年10月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

只今、賑やかに10月の大祭を勤めさせていただきまして、誠にありがとうございました。只今より、一言、神殿講話を勤めさせていただきます。

おふでさきという、教祖自らが書かれた書き物があります。ご承知のようにこれは、みかぐらうた、「おさしづと並んで天理教で最も大切な書物であります。その中に、

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずににてはなにもわからん      (III137)

という歌があります。

天理教では、この身体は神から借りており、心だけが自分のものであると教えられ、そのことは天理教の教えの中で、最も大切なことであります。このお歌の意味は、もしこの教理を理解しなければ、天理教の教理は何も分からないということです。
身体は借り物であるから、死ぬということは借りていた着物を脱ぎ捨てて神に返すことであると考えられます。キリスト教を始め、多くの宗教が、魂あるいは心と身体は別のものであると説いているようです。ここで重要なことは、天理教では、この身体は神から「貰った」のではなく、「借りている」ということでしょう。恐らく、この考え方は、他の宗教にはない非常にユニークなものだと思います。「貰う」ことと「借りること」はどう違うのでしょうか。この事について、少し考えてみたいと思います。
やはり、おふでさき

人のものかりたるならばりがいるで
はやくへんさいれゑをゆうなり      (III28)

とあります。この歌の意味は、借りたものについては、何らかの形で感謝を表し、何らかの形で返済せよということであります。皆さんは、例えば車を人から貰ったら、どうされるでしょうか。恐らく、その時は丁重に礼を言いますが、それで終わりでしょう。元の所有者に毎月、例えば金銭で礼をする人はいないでしょう。一方、車を長く借りた場合は、借りている間は、例え賃貸契約を結んでいなくても時々はお礼をするのではないでしょうか。
天理教信仰者は、従って身体を貸して下さっている神にお礼をせねばなりません。ここで間違えてはいけないことは、決して神と人間は、身体の賃貸契約を結んだわけではないので、強制的にお礼をしなければいけないわけではありません。ただ、身体を無料で貸して貰っているその感謝の気持ちを何らかの形で表すことは極めて大事でしょう。そして、それには二つの方法があると思います。まず、お供えをさせて貰うこと。今言ったように決して強制ではなく、気持ちだけ、しかも自分で出来る範囲でおぢば、教会、布教所にお供えさせていただくことは大事だと思います。

もう一つは、この身体を使って感謝の気持ちを表現すること。これが、ひのきしんであります。困っている人が自分の周囲にいるならば、些細なことで良いから、お手伝いをする。道端にゴミが落ちていれば、これを拾ってゴミ箱に入れる。子供が母親の家事の手伝いをする。友人の居ない人の所に時々行って、話し相手になる。これらはすべてひのきしんです。いずれも人に尽くす行いであり、それは、即ち神に尽くす行いでもあります。

身体は借り物ですから、いずれは神に返さなければなりません。つまり、死です。しかし、魂は死後も永遠に存在します。そして、次にはその魂にふさわしい身体を借りて、再びこの世に戻ってきます。この循環は永遠に途切れることはありません。

では、次の人生は、どんな身体でどんな境遇に生まれてくるのでしょうか。まず、自分の望み通り生まれてくるということは、有り得ません。フランス人に生まれたいと願っても、日本人として生まれてくるかも知れない。あるいは、今の配偶者と再び結ばれたいと願っても、実現するかどうかは誰にも分かりません。逆に、もう二度と彼とは関わり合いになりたくないと思っても、来世では再び同じ家族の一員として生まれてくるかも知れない。全ては、神の領域であり、残念ながら我々人間は、その決定に関与することは出来ません。
実は、来世、どのような境遇に生まれるか、その神の決定について重大な影響を及ぼすものがあります。これが、いんねんです。いんねんとは、即ち、魂に刻まれた履歴書のようなものであろうと思います。それぞれのいんねんを、神が見定めて、そのいんねんに最もふさわしい境遇に生まれてくるのです。
私は今の家内と結婚し、子供は4人おります。家内と知り合ったのは、学生時代です。もし私が、あるいは家内が、その大学を選ばなかったら、恐らく私達は知り合うこともなかったし、結婚することもなかったでしょう。また今の子供を欲しいと願ったわけではなく、また子供達も、私たちの子として生まれたいと願ったわけでもありません。だから、この家族構成は偶然、そのように出来たように思えるかも知れません。しかし、天理教の教理では決して偶然ではありません。私と家内、子供達のいんねんを見定められた神が、その深い思惑によって結ばれたのであります。
おふでさきに、

せんしょのいんねんよせてしうごする
これはまつだいしかとをさまる      (I74)

とあります。この意味は、いんねん、つまり魂に刻まれた履歴書によって、最もふさわしいと思われる人達と結ばれたのであり、そのいんねんを大事に育むならば、永遠に家の中は治まり、安寧が約束されていると言うことであります。
私達は、いんねんを大事にしなければなりません。いんねんを大事にするということは、いんねんで結ばれた人、つまり家族を大事にすることになります。今、フランスでも、主人の奥さんに対する暴力や、子供に対する親の暴力が大きな問題となっています。これは、世界的な傾向のようです。考えてみれば、子供も、奥さんも、自分のいんねんにふさわしい人を、神が選ばれたのです。そういう人達に向かって、理不尽な暴力を使うということは、自らのいんねんを傷つけているということであり、言い換えれば自分を傷つけているということにもなります。よく「子供が自分の言うとおりにしないから、図らずも暴力を振るう」などと言う人がいます。しかし考えてみれば、自分のいんねんが良ければ、良い子が与えられるはずですから、子供が悪いのは自分のいんねんが問題なのであり、自分を恨むべきでありましょう。それを、みかぐら歌では

なんぎするのも心から
わがみうらみであるほどに

と教えられるのです。自分のいんねんが素晴らしければ、素晴らしい配偶者を与えられ、素晴らしい子供を与えられるはずです。美しい花には、美しい蝶が留まるのです。逆に、汚い所には、汚いハエがたかるのです。

では、自分のいんねんは、どうすればより良くすることが出来るのでしょうか。まず、注意すべきは、いんねんは決して運命、あるいはカルマではないと言うことです。運命ならば、既に決められたものであり、それを変えることは出来ないでしょう。しかし、いんねんは、いくらでも変えることが出来ます。今、この瞬間にも、いんねんを切り替えることは可能です。
悪いいんねんを良いいんねんに切り替えるものを、徳と呼びます。この徳を心に積むことによって、いんねんが切り替わります。では、どうしたら徳を積むことが出来るのでしょうか。
その方法は色々あります。まず、先程言ったひのきしんです。困ってる人を救ける、その些細な行為によって徳が積まれ、いんねんをより良くすることができます。従って、結果的に、人を救ける行為が自分を助けることになります。これを

人たすけたらわがみたすかる       (III47)

と教えられるのです。

また、たんのうの心境になることでしょう。たんのうとは、人生の中でどんなことが起こってきても、その中に神の意志を悟り、積極的にそれを受けとめ、勇んで日々を暮らすことです。私の知人で、かなり以前に医者から失明するという診察を受けた方がいます。おそらく、それを聞いたときは、相当激しい衝撃だったと思います。しかし、日が経つに連れて、その事実の中に神の意志を悟られるようになり、天理教の教えを求めて、決して悲嘆せずに夢中で通られました。これがたんのうです。今、その方は元気溌剌とされています。まさに、いんねんが切り替わった姿であろうと思います。

さらにおつとめをすることや、さづけの取り次ぎも、徳を積むこととなります。何故、つとめをすることやさづけの取り次ぎが徳を積むことになるのでしょうか。天理教のつとめは、単に自分のためにだけするのではありません。病気、災難などで困っている自分の周囲にいる人のためにも、つとめをするのです。またさづけも、自分には取り次げません。他人にしか取り次げないのです。つまり、双方とも、ひのきしん同様、人を救済するための行為であります。人に尽くす行為は、即ち、神に尽くす行為です。だから徳を積むことになります。
我が身に起こってくる全てのことは、いんねんなのです。偶然は存在しません。皆さんも、両親があり、配偶者があり、子供があり、友人知人があります。すべて、皆さんのいんねんによって、皆さんにふさわしい人を、神が皆さんの周囲に配置されたのです。いんねんを大事にすることは、これら周囲の人を大事にすることでもあります。

皆さんは、天理教に繋がる人達です。これも、偶然、繋がったのではありません。いんねん、言い換えれば神の深い思惑があって、ここに繋がることになったのです。だから、このいんねんを大事にしたいと思います。皆で助け合って、信仰生活を続けていきたいと思うのです。そして、私たち以外にも、恐らく、この信仰に繋がるべきいんねんを持っている人は、このヨーロッパにたくさんおられると思います。それらの人が、一人でも多くこの信仰を知り、信仰の道に入って貰いたいと思います。

さて、天理教にいんねんある者が集まって、そして目指すものは、陽気ぐらしの世界です。陽気ぐらしの世界とは、どんな世界でしょうか。天国のような世界でしょうか。私は、陽気ぐらしと天国は違うと思っております。

まず、天国とは、どんな所でしょうか。天国は、のどかな風景の中で、音楽が奏でられ、ごちそうが並んで、人々は皆穏やかな笑顔で、働くこともなくのんびりと過ごしている。そういう絵が多いのです。では、陽気ぐらしもそうなのでしょうか。
よく考えてみてください。毎日働くこともなく、音楽を聴きながらごちそうを食べて暮らす。本当にこれが理想の世界でしょうか。恐らく、こんな生活を一年も実行すれば、糖尿病になったり、高血圧で苦しむことになるでしょう。さらに生きる目的を失い、虚無感に襲われるでしょう。観念的に天国と捉えている世界は、現実には苦しみの世界となります。

では、陽気ぐらしとは、どんな世界でしょうか。教祖のお言葉には、「天国」は出てきませんが「極楽」が出てきます。みかぐら歌に

心澄み切れ極楽や

と教えられます。あるいは、

ここはこの世の極楽や
わしも早々詣りたい

とうどこのたび胸の内
澄みきりましたがありがたい

ともあります。この二つのお歌の意味は、心が澄みきったらそれが極楽なのである。心が澄んだならば、その時、自分の住んでいる所、家族、職場が極楽、即ち理想の世界になると教えらます。理想の世界は、天国のようにどこか遠いところにあるのでも、死後に現れるものでもなければ、観念上の世界でもありません。自分の心を澄ます努力によって、自分で創るものなのです。陽気ぐらしの世になっても、働かねばなりません。またいつでもごちそうがあるわけでもなければ、時には辛いこともあるかも知れない。しかし、心が澄んだならば、この世界が陽気ぐらし、つまり理想の世界になるのです。分かりやすく言えば、世界自体が変わるのではなく、この世界に生きる私たちの心が変わり、そのことによってこの世界が理想の世界となるのです。そして、心を変えるために絶対に必要なことは、自分のいんねんの自覚と、それによってたんのうの心境になることだと思います。このように、天国と陽気ぐらしの世界は随分違います。

おふでさきに、

心さいすきやかすんた事ならば
どんな事でもたのしみばかり

とあります。結局、自分の今の人生を天国にするのも地獄にするのも、自分の心次第なのです。

来年、おぢばでは教祖120年祭が執り行われます。ここヨーロッパからも、大勢が帰らせて貰おうと思っております。どうか、皆さんも、自分自身はもとより、より大勢の人を誘って、おぢばにお帰りいただきたいと思います。心定めであります250名の別席者達成まで、あと残り半分です。

ご静聴ありがとうございました。

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