Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2005年4月月次祭神殿講話

ボルドー教会長 ジャン・ポール シュードル (Jean-Paul SUDRE)

只今はヨーロッパ出張所4月の月次祭をともにつとめさせていただき、大変嬉しく存じます。ご指名を頂きましたので、この道の信仰者として考えますことを少しの間お話をさせていただきます。よろしくお付き合いのほどお願い申しあげます。

真柱様がご発布された諭達第二号に

『この果てしない親心にお応えする道は、人をたすける心の涵養と実践を措いてない』

とあります。

この諭達のご発布以来、ここにおられる多くの方もそうだと思いますが、私は、次のことを自問いたしました。それは、どのようにして、人をたすける心を涵養することができるかという事です。

なぜなら、自分自身を振り返ってみて、心の底から、人をたすけることのできる心の状態になることは滅多にないということがはっきりしているからです。実際、私達は、大方の時間、自分の個人的な些細な問題の解決に心を奪われています。いつも、関わりになりたい物事、人、状況は把握しようと試みますが、逆に避けたい物事、人、状況は遠ざけようとします。

真柱様が言外に望まれていることは、私達が、最終的に人を救ける方向に向かう心構えになるような努力をしなければならないということです。その際、以下のような問いがなされます。本当にその心の状態になるように、心の奥底で、どのように心の状態を直せばよいのでしょうか。

心の涵養を目指す努力、その鍵は原典の拝読によって与わるのだと思います。教祖は、その努力が出来るように色々な材料を与えてくださっています。例えば、水に例えて、私達の心がどのような性質でなければならないか理解させておられます。

この部分のおふでさきを読んでみましょう。

にちにちに神のせきこみこのたすけ
みな一れつはなんとをもてる   (二 24)

高山のをいけにハいた水なれど
てバなハにこりごもくまぢりで  (二 25)

だんだんと心しづめてしやんする
すんだる水とかハりくるぞや   (二 26)

山なかのみづのなかいと入りこんで
いかなる水もすます事なり    (二 27)

にちにちに心つくするそのかたわ
むねをふさめよすゑはたのもし  (二 28)

これからハ高山いけいとびはいり
いかなごもくもそうぢするなり  (二 29)

こもくさいすきやかだしてしもたなら
あとなる水ハすんであるなり   (二 30)

この部分のお歌で、教祖は、自分自身に対する努めを始めるに当たって、極めて重要な指図を私達に与えておられます。

「だんだんと心しづめてしやんする すんだる水とかハりくるぞや」

私の考えでは、このお歌によって、教祖は、以下のことを私達に理解させようとされています。私達の心は水のようなものであり、埃でいっぱいである。もしそれを振れば、丁度例えば不純物が混じった水のビンを振るように、浮かんでいる全ての埃で水が濁るように、完全に混沌としてしまう。反対に、もしそれを安静にしておけば、まったく水の中の不純物がビンの底に沈殿するように、埃は沈殿する。こうして、水は澄んでくる。

そこから、私は、心を静めることによって、埃は沈殿し、そして心は澄んでくるということを推論することができると思うのです。

もう一度、お歌を繰り返しましょう。

「だんだんと心しづめてしやんする すんだる水とかハりくるぞや」

従って、心を静める努力をすることが、水を澄ますためには先決なのです。

次に、教祖は、澄んだ水は、清らかな水とは仰せになっていません。心を穏やかにするだけでは、水を清らかにするためには不十分なのです。神様だけが、心にたまった埃を払うことができるのです。そのことは、次のお歌で明確にしておられます。

「これからハ高山いけいとびはいり いかなごもくもそうぢするなり」

そして次のお言葉は、心を穏やかにするということは、何もせずに動かないということではないと示しておられます。逆に、

「にちにちに心つくするそのかたわ むねをふさめよすゑはたのもし」

ですから、静と動は対になっていくものなのです。実際、多くの場合、動くことを妨げるもの、それは私達の心を支配している混乱なのです。

より心が澄んだなら、より良い決断ができるようになりますし、反対に、より心が混乱し、より動かなくなると、歩みを続けることができなくなります。恐怖、心配、混乱は私達の心の中でうごめいている心の埃の反映です。その時、私達は、人をたすける心から遠ざかっているのです。

教祖は、次のお歌で、私達自身、どのように動けばよいのかを明示してくださっています。

この水をはやくすまするもよふだて
すいのとすなにかけてすませよ    (三 10)

このすいのどこにあるやとをもうなよ
むねとくちとがすなとすいのや    (三 11)

私達は、この世界を五感によって感じ取ることができます。私達は、自分の関心を悪、醜悪、偽りといったものの代わりに、善、美、真実などに向ける努力をすることができ、そして、それを自分の心の中に迎え入れることができます。そのことが、おそらく「すいの」ということなのでしょうか。

全てにわたる神の働きを見ることができる心の状態は、確かに最高の「すいの」でしょう。

口、つまり言葉によって、私達は、自分の意志を他人に送ります。そして、最も大切なことは、言葉と心が繋がっていることなのです。

私は、皆だれでも、美しい考え、美しい言葉、そして心の安寧を持ちたいと願っていると思うのです。しかし、そこに辿り着いていないことを認識しなければなりません。私達は否定的な考えに侵され、良くない言葉をしばしば返し、多くの場合、ストレスを持って生きています。その状態では、本当の人をたすける心を引き出すことは不可能です。どのようにすれば、人をたすける心の状態に到達するのでしょうか。

ある日、私共の大教会長が私にこのように仰っいました。「天理教の中で最も崇高な文章は何か知っていますか。それは『南無天理王命』ですよ。いつも、あなたが問題に出会ったとき、神名を唱えると、問題は治まるんですよ」

数日後、私は大変不愉快な状況に身を置きました。そしてそれは、私に、不安とその出来事から逃れようという感情を芽生えさせました。全く良くない状態でしたが、私の心に、大教会長が仰った言葉が蘇ったのです。「もし神名を唱えるなら、問題は治まる。」そこで、私は心の中で「南無天理王命」と繰り返すことを始めました。心はだんだんと治まってきました。心の安らぎと共に、人をたすける心になれる最初の兆候を感じることができたように思います。続いて、最後に「人を救けたら」をいうタイトルで教祖伝逸話編に納められている逸話を読みました。只今から、これを読ませていただきます。

明治8年(1875)4月の初め、福井県山東村菅原の榎本栄治郎は、娘キヨの気違いをたすけてもらいたいと、西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、ある茶屋で庄屋敷村の『庄屋敷村に生き神様がいる』と聞いた。彼は急いで三輪を経て庄屋敷にいたり、お屋敷にを訪れ、取り次ぎの方にお願いし教祖にお目通りした。教祖は『心配は要らん要らん。家に災難が現れているから、早うおかえり。帰ったら、村の中、戸ごとに入り込んで、42人の人をたすけるのやで。なむてんりおうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んでまわるのやで。人をたすけたら我が身がたすかるのや。』とお言葉を下された。

栄治郎は心晴れやかに庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て菅浜に着いたのは4月23日であった。娘はひどく狂うていた。しかし、両手を会わせて、「なむてんりおうのみこと」と繰り返し願っているうちに不思議にも娘はだんだんと静かになってきた。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして周り、病人のいる家は重ねて何度もまわって42人の平和を拝み続けた。

すると、不思議にも娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家々からもお礼に来た。全快した娘には、養子をもろうた。

栄治郎と娘夫婦の三人は、たすけて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、おやさまにお目通りさせて頂いた。

教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪に茶せんにゆうておられ、きれいな上品なお姿で現れたという。

このお話から、私たちの疑問の答えを見つけることができます。注目すべきは、混乱し、困難の真っ最中こそ、教祖は私達に人をたすけることを求めておられると言うことです。さらに、個人的なことか、あるいは人を助けるためか、問題は何であれ、それを受け入れる正しい姿勢を教えられています。

教祖が栄治郎に仰ったお言葉をもう一度読みましょう。『帰ったら、村の中、戸ごとに入り込んで、...なむてんりおうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んでまわるのやで。人をたすけたら我が身がたすかるのや。』

このように、栄治郎は手を合わせて、『なむてんりおうのみこと』を繰り返し繰り返し唱え、神様のお陰で娘は回復したのです。

人生の中で、大小問わず問題のない日はなく、苦しんでいる人に出会わない日もまたありません。

真柱様が、今年の一月の神殿講話の中で仰ったお言葉を拝読させていただきます。

教祖120年祭を目指して、全教が進んでいくに当たって、特に、にをいがけ・おたすけということを強調してまいりました。そして全ようぼくが、それぞれの立場でできる、にをいがけやおたすけを心掛けてもらいたいと申してまいりました。これが、この旬に一番必要なことだと感じたからであります。

心の拠り所を持てずに悩む人や、私たちの周囲にも大勢いるであろう身上・事情で苦しんでいる人へのにをいがけやおたすけといった、積極的に人々に働きかける気運を盛り上げていかなければならないと思ったのであります。

信仰の代を重ね、年限を重ねてきたはずのお互いが、

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので       (十二 90)

とご指摘くださった姿になってしまったのでは、申し訳ないのであります。

そこで諭達でも、「人をたうける心の涵養と実践」と記したのであります。真の誠と仰せられる人をたすける心を不断に培うとともに、それを行動に表そうということであります。

そのためには、立場持ち場に相違はあっても、まずは、それぞれが常に親神様・教祖に心をつなぐことを忘れない、心掛けることが基本であります。日常の生活の中で、すなわち家庭で、さらには職場や地域などでも、何かにつけ、教えを念頭に、ひながたを尺度にして物事を考える、行動することを心掛けたいのであります。そうした積み重ねが、おのずと良きにをいとなり、その発露がおたすけへとつながるのであります。

真柱様が述べられたお言葉を聞きながら、明らかなことは、私達の視線を完全に神様に向けて、案じることをせず、心を人の方に向けることができるということです。そして、苦しみを避けたいという心の姿勢から、苦しみが襲ってきたときでも案じない心に変わらなければいけないという意識をしっかりと持つということです。それは、おふでさきのなかで

めへめへにいまさいよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな     (三 33)

と述べられています。

今、苦しんでいる人、あるいは誤った行動をしている人に出会ったならば、その苦しみから逃げる代わりに、おそらく私達は、「なむ天理王命」と唱えつつ、神様に頼る心を持つでしょう。そうして、人の苦しみは自分の苦しみとなるのです。

私達が、混乱するこの世界にあって、前進することができるように導いてくださっている真柱様に感謝を捧げつつ、真柱様が、全ての人々の幸せを願い、私達に求めて下さっている私達自身に対する務めを共々に果たすことが出来るように希望いたします。

ご静聴ありがとうございました。

アーカイブ