Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2024年11月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

本日は、「陽気ぐらし」について考えてみたいと思います。天理日仏文化協会に入ると受付の横に額装された書があり、そこには「陽気ぐらし」と書かれています。これは今の真柱様が文化協会をご訪問された際にお書き下されたもので、以来、受付の横に掲げられております。では、何故「陽気ぐらし」と大きく書かれた文字がここにあるのでしょうか。これは、天理教の目指す世界である「陽気ぐらし」を文化協会を訪問する人々に伝える目的であり、さらには文化協会は「陽気ぐらし」を実現するための団体であることを伝えるためのメッセージであると私は認識しております。

教典には、第三章の冒頭に、

親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。

と、ありますように親神様が人間を創造する目的が「人間が陽気ぐらしをすること」と、明確に書かれています。

では、「陽気ぐらし」とはどんなことなのでしょうか。

陽気ぐらしとは、私たちをはぐくみ育てる大自然を司る親神様の恵に感謝し、そのご守護に生かされ生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち人間が互いに尊重し合い、救け合って暮らす、慎みある生き方です。」天理教のホームページにはこのように書かれています。第一に親神様の恵に感謝すること、そして、2番目には私達人間がお互いに助けあうこと、そして最後は、慎んだ生活をすること。この三つをキーワードとして教えていただいています。

こうして考えてみると「陽気ぐらし」の世界はすぐにでも実現できるように感じませんか。しかしながら現実は、世界には戦争が絶えず、争いは常に起こっていますし、そして個人の暮らしの上では、仕事のうえで不満や不安を抱え、家族内の争いや病気など様々な問題が原因となって心を曇らして、なかなか陽気ぐらしができないのが現実ではないでしょうか。

その原因は何かといえば、日々の私達の心の使い方の問題であり、それを改めることが大切だと教えていただいています。心のほこりを払い、清める作業が常に必要になってきます。

皆さんのなかで毎日が楽しくて、嬉しくて仕方ない、幸せいっぱいの暮らしをしているという方いらっしゃいますか。毎日陽気ぐらしをしていますという方、いらっしゃいますか。

生きていくなか、毎日の暮らしをするうえで、実にいろんな状況が起こり、それに対していろいろな心遣いをして過ごしています。

私達は、物事が自分の思うように運ばない時、それを苦しみと感じます。たとえば、病気になると将来に不安感をいだき、否定的な考え方になってしまいがちです。家族や近い人がなくなったりすると、その悲しみからこの世を憂い、落胆します。お腹が空いている時にご飯が食べられないとイライラして、仕事や勉強に集中できなくなり、上手くいかなくなります。このように毎日の暮らしに起こる様々な自分にとってマイナスなこと、これを苦しみ、困難と受け止めてしまい、自分は不幸だと嘆いています。そのような心の状況では、自分の苦しみに心を奪われて、お互いに助け合うという心にはなれないのが私達の姿ではないでしょうか。

しかしながら、例えば子供を育てるということは、ものすごい大変な苦労が伴うことですね。出産までの苦労も大変ですが、生まれてから成長していく間、親は大変な努力が必要ですね。親は自分の都合などを一切忘れて必死に育てます。夜中に起きて子供に母乳を与えたり、おしめを替えたり、必死になって育てていきますね。しかし多くの親は、それを苦労と感じながらも子供への愛情という心で乗り越えていきます。そのように子供を育てるという行為は、大きな困難、苦労が伴いますが、それによって自分は不幸だと感じることはないのではないでしょうか。むしろ逆で、困難ではあるけれど、子供が成長する姿に幸福感を味わうことができるのだと思うのです。大変ではあるけれども、その中に喜びがあるから通ることができるのだと思うのです。

私が子供の頃、両親はじめいろんな方から、戦争体験の話を聞きました。戦争という命に関わる困難な暮らしを生きてきた人は、口々に「今は白いお米が毎日食べられる、本当にありがたい」と言っていました。その方々の言葉は、戦争という苦しく困難な時を生きて来たからこそ言える言葉であり、今のありがたい状況に対して、心からの喜びと感謝の表現であると思うのです。

このように苦労や困難は、そのような過程を経験し必死で通ることによって、私達が生きていくための心の力となり、そして、それは不幸ではなく、幸せな暮らしをするうえで必要な過程であると捉えることが大切なのだと思います。苦しい状況でもその事をどのように感じ、受けとめるかということが大切なポイントです。

みなさんは、困難、または問題が起こった時にどのように対応しますか。

方法はいくつかあると思います。しばらく放置しておくか、すぐに対応するか。どちらですか。それとも、その困難からしばらく逃れ、明日の楽しいことだけを考えて今日を過ごしますか。どれも間違ってはいないと思いますが、明日の楽しいことはすぐに終わるので、それが終わってしまえば課題だけが残り、また辛いなと感じながら生きることになります。いつかはその困難を乗り越えなければならないですね。辛いな、嫌だなと思っていてもいつかはその困難と向き合う時が必ずくるのです。じゃ、どのような心で困難と立ち向かえばいいのでしょうか。

教祖は、その点について実に鮮やかに教えてくださっています。50年のひながたの間、いかなる時も心明るく通られ、どんな困難な時も勇んでお通りになられました。天理教教祖伝には、そのことが細かく書かれていますね。いくつかその例をお話します。

先程拝読した諭達第四号にもありますが、娘のこかん様が、お母さん、もうお米はありませんというと、教祖は「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」(教祖伝第三章) と子供さんたちに仰せになられています。目の前に食べるお米がなくなっているのに、そのことについては何も触れられず、もっと基本的な親神様のご守護について話され、まずはそのことを喜ぼうと教えておられます。

また、かねて身上中の二女がなくなったという報せが届いたある先生は、教祖にお目通りした時、その事を申し上げると、教祖は、
「それは結構やなあ。」
と、仰せられた。教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、「大きい方でのうて、よかったなあ。」 と、仰せられた。(教祖逸話篇184)

子供が亡くなるという親にしてみればこれ以上の苦しみはないと思うのですが、そんな時でも、そのなかにある喜びの種を見つけて、そのことをまず喜ぼうと仰せになっておられるのです。このお話の肝心なことは、物事の捉え方、また悟り方ということですね。

困難が自分に起こったとき、それをどのように捉えるか。そのまま、困難と受け止めると苦しみになり、そのことに心が奪われてしまいますが、教祖に教えていただいているように、見方、捉え方を変えて、そこに必ずある小さな喜びを見つけることが先ず第一にすべきことなんですね。よく言われるように、コップに好きなお酒が半分しかないと思わないで、半分も残っていると思うと自ずと嬉しくなり、喜びに変わります。

そして、それが陽気ぐらしへと繋がる心の持ち方なのだと思うのです。何故ならば、陽気ぐらしへの大切なひとつ、互いに助け合いをするということは、相手の状況を理解しないと助け合いはできません。相手の困難な状況を理解し手を差し伸べるという行為は、自分の心に余裕がないとできません。自分の困難ばかりに心が奪われていては、人に対して手を差し伸べることができないのです。この点をしっかりと心におくことが大切です。

私の父は、約10年間、広島でラーメン屋を営んでおりました。屋台のラーメン屋です。店は「陽気」という名前でした。所属教会の大きな困難を何とかしたいという心から始めたもので、その道は大変厳しい毎日であったろうと想像します。そして、厳しいなかを教祖のひながたを頼りに懸命に通っていた時、ある人が店を訪れてきました。「陽気」という店の名前に引き寄せられて入って来たそうです。そして、話を聞くと、「私は天理教の信者だけども、あなたもそうですか。ならば、話を聞いてほしい」と、話をするうちにその方も父と同じ境遇であることが分かりました。そして「ならばこの屋台を譲るので、やってみますか」ということになり、父はその方に店を譲り、教会に帰り神様の御用に専念することになりました。その後、「陽気」はその方の必死の努力で大きくなり、今では支店が4軒になっています。まさに、父は相手の困難な状況を理解し手を差し伸べるという大きな人だすけをして、それを親神様が受け取って下さったのだろうと思います。父は、その当時のことをあまり話をすることはありませんでしたが、「陽気」という店の名前に相応しい心で通っていたのだろうと思います。そして、そのお陰で私達が今日フランスの地で結構な毎日を通らせていただけていると感謝しております。

陽気ぐらし」という言葉は、決して単なるスローガンではなく、また飾りにしてはいけません。親神様が人間を創造された時のその思いに応えるべく、望まれる世界に向けて、共々に歩ませていただきましょう。

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから

アーカイブ