Tenrikyo Europe Centre

Loading ...

2024年3月月次祭神殿講話

明和パリ布教の家担当 小林弘典

心のほこりを払うことは陽気暮らしを実現する上で欠かせないことの一つです。言い換えれば、心にほこりが積もった状態での陽気暮らしはありえません。ですから、心のほこりを掃うことは、信仰の実践の中で最も大切なことの一つであると言えます。

もちろん、陽気暮らしはこの教えを信仰する者のためだけにあるのではありません。よって、心のほこりを払うことは全ての人間に不可欠であると言えます。

そこで、本日は心のほこりについて少し考えてみたいと思います。

心のほこりとは何でしょうか。「おしい」「ほしい」「にくい」「かわい」など、おやさまは八つにわけてお教えくださいました。皆さんもよく承知のことと思います。また、一つ一つのほこりについての解説もあります。

まず、おやさま陽気暮らしを妨げとなる心遣いを「埃」に例えられたことに着目したいと思います。

我が家は現在五人家族です。家内と3人の息子がいます。二、三日も掃除をしないでいると居間、寝室、浴室、台所などの床、棚などにかなりの埃がたまります。

一見、そんなに汚れているようには感じられなくても、箒で掃けば、かなりの埃が取れます。一体こんなにたくさんの埃がいつどこから来たのかと、毎回驚くばかりです。一週間も放置すれば、棚や床の上にはうっすらと白い埃の層ができているのが、見てもわかるようになります。

時間と心に余裕のあるときは細目に掃除をするのですが、そうでないときは、見なかったことにしてしまうことも少なくありません。

一度掃除を始めると、気づかなかった埃が次から次へと目についてきます。普段の生活ではあまり目や手が届かないところ、例えば家具の下や裏、高い棚の上などに、たくさんの埃が溜まっているのがわかります。掃除をすればするほど、埃が増えているような気さえしてきます。

掃除をするきっかけも意外と難しいものです。少しでも埃が目につけば掃除するというのがいちばんいいのかもしれません。しかし、これだと我が家の場合は四六時中掃除をしていなければなりません。

毎日決まった時間に掃除をするのもいいかもしれません。しかし、これだと毎日決まった場所の掃除のみになりがちです。普段目や手の届 かない場所の掃除はなかなかできません。

棚や床に多少の埃が溜まっていても、すぐさま生活に支障を来すことはありません。普段目や手の届かないところならなおさらです。たとえ目についても見なかったことにすれば、何日もそのまま放置して過ごすことも可能です。しかし、溜まった埃が自然に消えることはありません。よって、いずれは箒を持って掃かなければならないということになります。

毎日きまった時間に掃除をし、週に一度、または月に一度は普段目や手の届かい場所を掃除するというのが理想でしょう。また、年に一度か二度は、さらに普段の生活では足を踏み入れない場所とか大きな家具の下や裏などを掃除すれば完璧です。

心のほこりも同様に掃っていくべきものではないかと思います。毎日の掃除は、日々のおつとめに例えることができると思います。週に一度、または月に一度の掃除は、布教所の講社祭や出張所の月次祭に例えることができるでしょう。年に一度か二度の掃除は春季大祭、秋季大祭ということでどうでしょうか。

では、おつとめをすれば、心のほこりは掃われるのでしょうか。

まずは、掃うべき心のほこりについて認識しておく必要があると思います。そこで、心のほこりはどういうものかということについて考えてみたいと思います。

心のほこりは、あるかどうかは問題ではありません 。目には見えないだけで、この神殿の空気中にも埃はたくさんあります。それと同様に心のほこりはだれもが持っているものです。ですから、大切なのは、それを掃うこと、またはいかに掃うかということになります。

心のほこりについて例を挙げて考えてみましょう。

おなかが空いたときに何か食べたいと思います。これは本能です。この本能がなければ、生物は滅んでしまいます。空腹を感じることは親神のご守護の一つと言っていいでしょう。よって、これはほこりとは言えません。では、満腹感を得るために、もう少し食べたいと思うのはどうでしょうか。また、食べるなら、できればおいしい物を食べたいと思うのはどうでしょうか。おいしい料理を食べるなら、それに相応しいおいしいワインも欲しいと思うのはどうでしょうか。

食べ物がない時は、何でもいいからとにかく何か食べる物が欲しいと願います。しかし、一度食べ物が手に入ると、よりよい物を求めます。さらに、より安定して、安く、より多く、より簡単に手に入れようと努めます。

こういったことは、技術や社会の発展にもつながりますから、一概に否定はできません。しかし、どこまで求めるのが妥当なのでしょうか。言い換えれば、どこからほこりとなるのでしょうか。はっきりとした境目や基準はありません。よって自分に都合のいい境界線を設けてしまう傾向があります。

たとえ人のため、組織のため、社会のために良いことをしているつもりでも、その中からほこりは出てきます。私は正しいことをしているのだから、心にほこりはないというのは、既に心にほこりを積み始めているとも言えるのではないでしょうか。つまり、心のほこりはどこからでも湧き出てくるものなのです。

ほこりには内から出てくるものと、外から入ってくるものがあります。しかし、この二つは混ざり合っているので区別することはできません。他人の心のほこりが自分のほこりとなり、自分の心のほこりが他人のほこりとなるのです。

「ほしい」という心は、他者に「おしい」という感情を生じさせることがあります。「かわい」という心は、他者に「にくい」という心を起こさせるきっかけともなり得ます。このように、ほこりは姿を変えて拡散されていきます。そして、巡り巡って、また自分に返ってくるということになります。人間関係や社会の不和はこのようにして生まれていきます。その不和の原因と解決を求めて、他者の批判を繰り返し、さらにほこりを積み重ねることも少なくありません。

また、近年では通信技術の進歩により、遠く離れた見知らぬ人のほこりの影響を受けることも可能になりました。また、反対に自分のほこりを、瞬時に世界中に拡散することも可能になりました。

このような心のほこりを掃うには、親神のお力を借りる以外にありません。つまり、おつとめによる以外にありません。そこで大切なのが、おつとめをつとめるときの心の持ち方だと思います。

親神の御守護に感謝しましょう。私たちはよく口にし、耳にします。しかし、日常生活の中で常に親神のご守護への感謝の気持ちを持ちつづけることはなかなか難しいものです。そこで、せめておつとめをつとめるときぐらいはと思います。ところが、実際にはこれも意外と難しいものです。

私は、感謝の気持ちを込めておつとめを始めても、1分もたてば全く違うことを考えており、気がつけばおつとめが終わっていたということが、しばしばあります。

私は、これを自分の心のほこりを量る一つの目安と考えています。

速さにもよりますが、座りづとめは10分もあれば十分です。10分ならその気になれば簡単にできそうに感じます。そう思って毎日挑戦してみてはいるのですが、残念ながら私はいまだに達成できていません。しかし、あきらめずに挑戦し続けたいと思います。

もしまだ試されたことがない方がいましたら、今晩か、明日の朝、一度試してみてはいかがでしょうか。

信仰とは何かと聞かれたら、みなさんは何と答えますか。もちろん明確な答えがあるわけではありません。

親神のご守護に感謝する努力、これも数ある答えの一つではないでしょうか。

自分にとって都合のいいときは、努力しなくても感謝の気持ちは湧いてきます。しかし、そうでない場合のほうがはるかに多いのではないでしょうか。

ですから、感謝には努力が必要です。そして、その感謝の気持ちが心のほこりを掃う箒となり得るのではないでしょうか。

今現在、おやさま140年祭に向けての三年千日の最後の年です。これまで積み上げた心のほこりの十年に一度の大掃除の機会であるとも言えます。

本日は、心のほこりについて、思案させていただきました。皆さんの信仰において何らかのご参考になれば幸いに思います。

ご清聴、ありがとうございました。

アーカイブ