2023年4月月次祭神殿講話

ラ・セーヌ布教所長 篠田克典

本日もこうして皆さんと共に月次祭をつとめられ、また、日々自分の思うように体を使わせていただけているのは親神様のかしもの・かりものの大きなご守護のお陰にほかなりません。目で物を見て、耳で声や音を聞き、鼻で匂いを感じ、口でしゃべったり物を食べたりする、また、手を使って働き、足で歩いたりできるのは、普段何不自由なく過ごしている間はなかなか意識しませんが、病気や怪我などでそのうちの一つでも使えなくなってしまうと、普段当たり前のように思っていたことがどれだけ大きなご守護だったのかがよくわかります。

お道の教えの中で、親神様のご守護がどれだけ大きなものかはお聞かせいただいておりますが、そのご高恩に対してご恩報じをしろというこということは親神様は直接的にはおっしゃっていません。それは私達が自らの心より恩に感じ、報じさせていただくことだからでありますが、その中にあって、ただ一言仰るのが「ひのきしん」ということです。

ひのきしんとは日々の寄進、または一日を寄進すること、おぢばへ寄進することとも言われますが、広い意味では教典にも記されているように、神恩報謝の思いで事に当たるならば、それは悉くひのきしんでありますし、また、狭い意味ではみかぐらうたに拝察されるように元のやしきおぢばへの寄進であります。

無償の奉仕活動として町の清掃やゴミ拾いをしたり体が不自由で困っている人のお手伝いをしたりすることをお道ではよくひのきしんという言葉で表したりします。行い自体を見るとお道の信仰のない人達でも同じことをボランティアと言ってされている方が大勢いらっしゃいます。ひのきしんとボランティアは表面上は同じような行いに見えますが、根本的に違うのは、そこに親神様へのご恩報じという思いがあるかどうかです。親神様のご守護への感謝とそれに報じたいという気持ちからの行動がひのきしんであって、同じような行いであってもボランティアとは意味合いが違います。

親神様からのご守護は日々いただいているものですから、本来は日々させていただくものだと思いますが、おさしづ

たすけとても一日なりともひのきしん、一つの心を楽しみ。(明治23年6月15日)

とあります。特に毎日仕事に子育てにと忙しい現代人はなかなか毎日ひのきしんとはいかないと思いますが、それができないので一日なりともと神様の御用をさせていただこうと出てくるのがひのきしんなのだということでしょう。

お道の信仰につく人の大半は、最初は自分自身または身内の身上事情の悩みを助けてもらいたいということから教えを聞き信仰の入り口に立ちますが、だんだん信仰を深めてようぼくになるときお与えいただくのが、自分自身には取り次ぐことのできない「さづけの理」です。お道の教えの真髄は「人たすけたら我が身たすかる」ということだと言われますが、おさづけが自分自身には取り次げないというところに親神様の深い思惑が感じられます。

自分自身がたすかりたいと思っている間はなかなかたすからないものです。それが人をたすけたいという思いになって一生懸命やっているうちに気がついたら自分自身がたすかっていたという経験をされたお道の信仰者はたくさんいらっしゃると思います。

人間は心の向きが自分自身に向いているうちはなかなか悩みから解放されないものです。もうかれこれ28年も前のことですが、私は天理教青年会本部から第三次海外人材派遣生としてここヨーロッパ出張所に送られてきました。派遣前の1年間はおぢばでの研修で、青年会や海外部の多くの方々から教えを学び実践し、日本語教育法やフランス語の習得などに努めてまいりました。そして、フランスに到着し、さあこれからフランスでお道を広めていこうと張り切っていたのですが、間もなく言葉の壁にぶつかりました。大学で4年、青年会派遣の研修で1年、フランス語を学習してきたのに、こちらに来た当初はフランス人の話す言葉の半分も理解できず、また自分の言いたいことの半分も言えずという状態で、これではフランス人に教えを伝えるどころじゃない、こんなはずではなかったのにという思いで毎日悶々としていました。おぢばでお互いに励まし合った青年会の同期生やTLIの留学生、頑張ってこいよと送り出したくださった多くの方々の顔が思い出され、自分が情けなくて涙が込み上げてきた日々もありました。

当時私は天理日仏文化協会で日本語教師として勤めていましたが、着任した翌々月にはヨーロッパ青年会創立10周年記念総会が行われ、おぢばから当時の青年会長様である現在の真柱様がお越しになり、文化協会を訪問された折、御揮毫をしてくださいました。そこに書かれていた文字を目にして、パッと目が覚めたように気持ちになったのを今でも覚えています。そこには「ひのきしん」と書かれていました。

ひのきしんとは先にもお話しした通り、親神様へのご恩報じの行いです。私は自分自身のフランス語会話力のなさで悶々としておりましたが、そこでひのきしんの精神を思い出し、はたと心の向きを外に変えたことで心がふっと軽くなり、救われた気持ちになりました。フランス人に言葉で教えを伝えるより、まずは出張所や文化協会でひのきしんすることだと、気持ちを切り替えた途端、見えてくる世界が変わったようでした。

みかぐらうた

やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん(三下り目 八ツ)

とありますように、身上事情の悩みから解放されるにはひのきしんが一番だと感じた瞬間でした。

また、ひのきしんの理合いについては、みかぐらうた七下り目で、ひのきしんとは神の田地に種を蒔くことだとご教示くだされています。そしてやしきが神の田地であり、即ちひのきしんはおやしきへの伏せ込みである、そして神の田地は種を蒔きに来さえすればだれにでも手に入れることができる田地である。しかもその種まきは「わしもしっかり種をまこ」と、しっかりまかせていただくのが、種とお受け取りいただけるのだと仰っています。

ひのきしんの効能については、十一下り目で仰せられています。

ふうふそろふてひのきしん これがだい一ものだねや(十一下り目 二ツ)

よくをわすれてひのきしん これがだい一こゑとなる(十一下り目 四ツ)

夫婦揃ってのひのきしんが物種、物のお供えの種であり、欲を忘れてのひのきしんが第一の肥、心の畑の肥、即ち陰徳となるのだと仰っています。

こうしてひのきしんによって徳を積ませていただくことでおたすけでもより一層の効能をお見せいただけ、悪いいんねんも切り替えていただけるとお聞かせいただいております。

ひのきしんは広い意味ではどこでもできることですが、一番の場所はおぢばのおやしきです。そのおぢばの理を各地にお許しくだされたのが教会です。私達お道の者は皆どこかの教会に所属していますが、それは自分の直接のひのきしん場所をそこにお与えいただいているということになります。ヨーロッパの場合、ボルドー教会の信者さん以外はほとんどの場合所属教会は日本にあって、おぢば同様物理的に遠く、特に航空料金の高い昨今はなかなか頻繁に足を運べる状況ではありませんが、各地の布教所につながる方は布教所に足を運び、月次祭を共につとめたりそこで何らかのひのきしんはできると思います。そして何より、ここヨーロッパ出張所はおぢばの出張り場所です。3年後の教祖140年祭に向けて、月次祭にはお互い誘い合って参拝し、来たら何かしらのひのきしんをして少しでも成人の歩みを進めて親神様・教祖にお喜びいただきたいと思っております。

ご清聴ありがとうございました。

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