2004年秋季大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

ただ今は、皆様とともに10月の大祭を勤めさせて頂きまして誠にありがとうございました。ただ今より、お話のお取り次ぎをさせて頂きます。

私たちは、教祖のことをおやさまとお呼び申し上げます。その教祖は、1887年、明治20年陰暦正月26日、現身をお隠しになりますが、その前後より1907年、明治40年まで20年間、お姿が見えない教祖に代わって神意を人間に取り次がれたのは、本席、飯降伊蔵先生であります。この飯降先生の入信のきっかけを振り返って見たいと思います。

1838年10月26日、教祖のお口を通して親神の啓示が現れ、本教は始まります。この道の始めに当たって、まず教祖は中山家の家財道具、田地などを売りに出され、それを貧しい人々に施されます。いわゆる「貧のどん底」に陥る道であります。

どの宗教でもそうでありますが、本教の場合も、当初は誰一人として教えに耳を傾けるものはありませんでした。しかも、教祖は先祖代々に渡って中山家が守ってきた土地さえも売られて施しをされた。ヨーロッパの方には分かりにくいと思いますが、農耕民俗でしかも居住可能、耕作可能面積が極端に狭い日本人にとって、土地というものは格別の意味を持っております。命の次に大切なものと言っても過言ではありません。例えば、現在でも成田空港の滑走路の間にお百姓さんの土地が残っております。既に開港から20年程経っていますが、国が買い上げると言っても、絶対に手放されないのです。それほど、土地と言うのは特別の意味を持っています。教祖は、それを手放されたのですから、親戚からの攻撃はかなり激しかったと想像されます。そして、親戚知人らとはほぼ没交渉となります。

そうした中、立教から約20年経った頃から、徐々にこの教えに耳を傾ける人が増えてまいります。天理教教祖伝には、始めてこの頃に信者4人の名前が記されております。

1864年、日本の年号では元治元年5月のある日、後に本席となられる飯降伊蔵先生が初めて、参詣されます。おさと夫人が流産をされ、その産後の患いから寝ついているのを助けて頂きたいと申し出てこられたのです。やがてその参詣から日ならずして、おさと夫人は全快のご守護を頂かれます。翌6月25日、飯降先生は初めて夫婦揃うてお礼参拝にまいられます。その頃は、お屋敷には神様と言っても社もなく、床の間に一本の御幣が祀られてあっただけのようであります。そういう粗末な状態でしたから、翌7月26日に参拝に来た時に、飯降先生は大工であったことから、助けて頂いたお礼にお社の献納を思いつかれ教祖に申し上げられます。それに対して、教祖は「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ」とお答えになります。

もうその頃は、信者もかなり増えて来ていたものと思われます。しかし、まだ参拝場らしきものももちろんありませんでした。この教祖のお言葉を頂かれ、当時の主だった信者の方々が相談して、それぞれ分担を決めて普請を始めることとなりました。いわゆる「つとめ場所」の建築であります。これが本教最初の神殿普請であります。

同年9月13日から工事が始まり、立教の日であります10月26日には棟上げのお祝いをしておられます。その翌日、ある信者が自宅に他の信者の方々を招いて再度棟上げのお祝いをすることとなり、教祖に伺われたところ、教祖は、行っても良いが、行く道すがら神前を通る時には拝をしなさいと申し付けられます。

当日、ちょうどその信者の家へ行く途中に大和神社という神社の前を通りかかったので、教祖のお言葉を思い出し、太鼓を叩いて「なむ天理王命」と繰り返し声高らかに唱え続けました。この時代、まだおつとめは制作されておりませんので、恐らく、「なむ天理王命」という文句を何度も繰り返したのだと思います。記録によりますと、太鼓以外にも拍子木なども使用されたようであります。

この大和神社と言うのは、かつて日本で最も格の高い神社の一つとされていた由緒正しい神社であります。さらに、信者達が大きな声で楽器まで鳴らして「なむ天理王命」と唱えた頃、折悪しくこの地方一帯の神職取り締まりの人が一週間の祈祷をしている最中でありました。当時、神道の権威というのは、現在とは比べものにならないほど、強大でありました。その神社の境内で、全く聞いたこともない神名を唱え、しかも楽器まで打ち鳴らしたのですから、当然一悶着となります。すぐに、彼らはその場で取り押さえられ、3日間とどめ置かれ取調べを受けました。まだこの道が、きちっと社会的に認知される前でしたから、当時の信者達にとっては、この事件は心理的に激しい衝撃となったと思われます。この事件のことは、人々の口から口へと伝えられ、たちまちのうちに近在に知れ渡りました。

この事件が原因で、多くの信者達はぱったりとお屋敷に参詣しなくなります。一旦組織化されようとしていた講社もまったく不可能になってしまいます。また元の状態に戻ってしまったのです。ところが、そんな中、たった一人、この事件にも決してめげることなく、参詣を続け、普請も一人で黙々と続けられた方がおいでになりました。これが、飯降伊蔵先生であります。

飯降先生は、自分の仕事を犠牲にして、この年の年末までずっと普請の手間を一人で続けられ、ついに家賃を払う金さえもなく、知り合いから借金をし、さらに普請の支払いが滞っている材木屋や瓦屋に断わりに回っておられます。

例えば、キリストの12使徒の筆頭は聖ピエトロであります。彼は、キリストの時間的に最初の弟子であります。そして、初代ローマ法王となります。しかし飯降先生の場合、先生は、時間的には、最も古い信者ではありません。むしろこの時代では新参者であります。にも関わらず、後に本席という言わば教祖の代わりに神意を伝えるという極めて重要な立場に選ばれました。その理由は、この事件の時、全ての信者が去ったにも拘らず、信念を持って、一人敢然とこの道の信仰を貫いていかれたその姿勢だと思います。この普請の年から九年間、大晦日には必ずお屋敷に参拝し、掃除をし、翌日の元旦の準備をして、それから自宅に帰られたとも伝えられています。飯降先生とて、まだこの道が淫祠邪教の類に見られていた時代でありますから、大和神社の一件の時には、信仰を離れようかという迷いが全くなかったわけではないと思います。また家族もおられましたので、ご自身の生活もかなり苦しかったと思います。しかし、誰一人いない中を、奥さんの身上をたすけて頂いた恩を忘れずに、同時に信仰に確信を持って通られたのです。だから本席となられたのであり、また本席となられることに対して、周りの信者から嫉みなどの非難が起こらなかったのではないでしょうか。

おさしづ
「皆退いて了た。大工一人になった事思てみよ。(中略)一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、ようよう随いて来てくれたと喜んだ日ある。これ放って置かるか、放って置けるか。それより万事委せると言うたる。そこで、大工に委せると言うたる」(M34.5.25)とあります。

この飯降先生の通り方は、今、天理教の信仰者として通る我々にとって非常に示唆に富んでいると言わねばなりません。私たちは、信仰を続ける中で、安易な方向に走り、時としては、余りにも早く結果を求め過ぎてはいないでしょうか。結果ばかりを求めるのではなく、まず信仰の道を一歩一歩着実に歩むことに心を尽くすべきだと思います。

これより少し前、ある信者が自分の妹が気の間違いになった時、それを助けて頂きたいと参詣に来ております。それに対して、教祖は「ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と答えておられます。つまり、空腹時に食事したように簡単にご守護はいただけるものではなく、日々少しづつ回復のご守護はいただけると言う意味であろうと思います。この方の妹さんも、薄紙を剥ぐように次第に軽くなられ、やがて全快されています。

おふでさきに、

やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら

まだみえるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり

ほそみちをだんへこせばをふみちや
これがたしかなほんみちである    (第一号 47-49)

とあり、さらに

このはなしほかの事でわないほとに
神一ぢよでこれわが事   (第一号 50)

と続いております。神一条とは、神をひたすら信じ、真剣にこの信仰の道を歩んで行く足取りのことでしょう。しかし、そのなかには、山坂や崖道、剣の中のような厳しい道中がある。しかし、それを越えたら、確実に本道、つまり幸せの道が待っているという意味のお言葉であります。

ところが、私たちは、多くは途中で挫折してしまっているのではないでしょうか。あるいは、結果ばかりを焦って追い求めてはいないでしょうか。そして、すぐに結果が表れないと落胆し、時には神を呪い、世をはかなんでいるようなことがないでしょうか。挙げ句の果ては、「いくら信仰してもご守護はない」と嘆き、信仰の道から離れていく人さえあります。

確かに、教祖ご在世時代でも、また現在でも、2、3日お祈りをしただけで鮮やかなご守護を頂くような例もないわけではありません。しかし、どちらかと言えば、それはむしろ例外で、多くは長い道中の中で少しづつご守護いただくものであろうと思います。

教祖伝逸話編の中には、教祖のお言葉として、「先は永いで。どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ」(68)とあります。

また少し謎めいたお言葉があります。「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡っていけば、宝の山に上って、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡っていくと、宝の山がある。山の頂上に上れば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで」(171)とあります。これは信仰の道中を例えられたお話しだと思います。別席のお話しの中にも、同じ畠に同じ種を蒔いても、早く生えるものと遅く生えるものがある。なかなか生えないからと何度も掘り返していると、最後には本当に生えなくなってしまうという意味のお言葉があります。

では、人間はずっと何十年も辛抱の中を通らねばご守護は頂けないのかというと、そうではありません。神様は、3年千日と教えられます。3年間心を倒さず、ひながたの道を通ったら、教祖が50年通ったのと同様に受けとってやろうと教えられているのです。

確かに、今、現に病気の人にとって、一挙にご守護頂けないのは、言いようもなく辛いことであると思います。私は、いつもそういう方に「病気としばらく付き合いましょう」と申し上げるようにしています。そもそも、病気や事情を外的要因から起こるものと捉え、いわば災難にあったように考えると絶望する気にもなります。しかし、それらを外的な障害と考えずに、原因を内に求め、これも自分のいんねんと捉え、自分の人生の一部分と悟り、しばらく付き合う心になることが必要だと思うのです。もちろん、大変難しいことではありますが、しかし焦ったところで病が回復したり、事情が解決するわけではありません。決して心を倒さずにゆっくりと歩みを進めることが大事だと思います。そうすれば、いつか必ず大きなご守護を見せていただける日が来ると思うのです。

どんなことであろうとも、切ることと繋ぐことでは、切ることの方がよほどたやすいと思います。例えば、友情を切ることは、いとたやすいことですが、何年も繋いでいくことは容易ではありません。夫婦関係を切り離婚することは簡単ですが、お互いが助け合って信じ合って続けていくことは大変です。芸術やスポーツでも、やめることは簡単ですが、何年も続けていくことは大変なことです。信仰の道も同様だと思います。続けていく道中は、大変な困難があります。しかし、どんな中でも決して切らずに、一本の道を辿っていけば、大道がある。宝の山があるのです。教祖は「切ってはいかん。切ったら、切った方から切られますで」(31)と教えられます。おぢばでつとめられるかぐらつとめでも、他の神様は最初から最後まで、そのご守護を象徴する手振りをされますが、切るご守護の「たいしょく天の命」だけは、最後の3回だけ切る動作をされます。それほど、切るということは良くないのです。

信仰の道は、焦らず、切らず、ただひたすら先を信じご守護を信じ、神に凭れて通る道だと思います。しかし、永遠に辛抱の道では決してありません。辛抱がいずれは喜びに変わります。それは、日々尽くした心を、神が受けとってくださるからであります。飯降伊蔵先生のご生涯が、そのことを私達に如実に語っております。

決して切らずに、諦めずに、なお焦らずに、黙々と信仰に確信を持ちながら、一歩一歩着実な歩みを進めたいと思います。

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